第62話 龍族
転移の光が晴れると、目の前に雄大な霊峰の景色が広がっていた。薄い靄がかかる山肌、澄んだ空気、遠くから聞こえる鳥のさえずり──そこはまさに神聖さすら感じさせる場所だった。
イーディスが小さく息を呑む。
「ここが……霊峰……」
そのつぶやきに呼応するかのように、近くの岩陰からひょこりと姿を現したのは──セレーネだった。
「今日も二人で来たのね。……でも、前のやつより可愛いじゃない」
軽口を叩くような口調だが、セレーネの金色の瞳にはわずかに柔らかさが宿っている。
「こんにちは、セレーネさん」
「セレーネ……ってことは、この人が……ハルトの師匠……」
小声でそう呟きながら、イーディスはセレーネの姿をじっと見つめる。金髪紅瞳の少女が、冷ややかな気配を纏う黒髪の美女を観察している様子は、どこか微笑ましくもあった。龍族に対する興味が、彼女の瞳に見え隠れしている。
そんなイーディスの視線にも気づいているはずなのに、セレーネは涼しい顔で俺の方へと視線を向け、口を開いた。
「……ウロボロスが、あんたを呼んでたわよ」
「……え? ライデウス様が?」
思わず聞き返すと、セレーネは「あっち」と岩場の方向を指差す。
「さっき瞑想してたから、行ってきな。」
簡潔にそう言うと、セレーネは視線をイーディスに向ける。
「──少し行ってくる」
俺はそうイーディスに一言だけ伝えると、セレーネとイーディスを広場に残して、ライデウスの元へと足を向けた。
岩場の先にある小さな高台──そこに、龍神ライデウスは静かに座していた。風が巻き、霊峰の気が彼の纏う衣の裾を揺らす。岩に座したまま瞑目する姿は、まるで時の流れから切り離された彫像のようであり、絶対者としての威厳すら漂わせていた。
だが、俺の足音を感じ取ったのか、ライデウスは静かに目を開ける。
「……来たか、ラインハルト」
その声音は低く、しかしよく通る。声一つにしても、山全体が静まるような重みがある。
「はい。お呼びと聞きまして」
俺が一礼すると、ライデウスはほんのわずかに頷いた。そのまま、視線をまっすぐに向けてくる。
「本題に入る。我が今最も高みに至りたいもの──将棋、だ」
唐突にして明快な宣言。その名を口にしたとき、彼の瞳にわずかだが熱が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
「かの遊戯には、戦略、心理、先見、そして統率のすべてが含まれている。まさに縮図としての“戦”。一棋士として……我は、それに真剣に、そして極めたいと思っている。」
「……ありがとうございます。でも、まだ始まったばかりですよ。将棋自体、ライデウス様に伝えた程度で、普及なんてまだまだ」
「その通り、故に“将棋三大戦”──すなわち“名人戦”、“棋聖戦”、そして“竜神戦”を成立させるには、いかなる道を歩めば良いか、お前に案はあるか?」
「三大戦……!」
思わず唸る。ほぼほぼ前世の世界観だ。だけど、龍神ライデウスが本気でそれを実現させたいと言うのなら──俺も応えるしかない。
「……まず、競技人口の拡大ですね。今のままだと、才能でライデウス様に歯が立つプレイヤーはおそらく存在しません」
「……だろうな。我の勝利が確約される戦など、意味はない」
さすがは龍神、その在り方すら美学に貫かれている。
「であれば、駒から変えていきましょう。現状では、贈り物だったので手の込んだ手製のチェスのような立体駒──あれじゃコストもかかるし、覚えにくい。文字で表す“平面駒”に変更すべきです」
「ふむ。“歩”、“槍”、“王”など、名称で機能を示すということか」
「はい。書けば済みますし、彫刻師も要りません。紙でも作れますし、布でも木でもいける。大量生産と簡易教材の整備が必要です」
「その先は?」
「次に、指導者の育成です。ルールを理解して指導できる者を少しずつ増やす。学術院の教養科で授業に取り入れたり、娯楽として屋内遊戯の一環として紹介していく。それから、少数でも熱中する者が出てくれば──自然と“戦い”が生まれ、その競争の流れは大きくなるはずです。」
ライデウスは黙って聞いていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……良い。ならば、我は“競技としての将棋”の頂点を定めておこう。初代名人は一度きりの実力で決する。棋聖は数度の対戦にて優れた戦略を示した者に与える。そして、竜神は“我を屠るに至った者”にのみ与える」
「……! それって、つまり──」
「我との直対局にて勝利せし者、その者こそ“竜神”だ」
ライデウスの瞳が鋭く光る。神々の頂に座する龍神が、自らを賭けて戦う将棋の称号。それは、この世界にとってとてつもない名誉であり、挑戦でもある。
「……ハードルが高すぎる気もしますけど」
「貴様が広めよ。教え、育て、導け。貴様は……この世界に“将棋”を根付かせる者、“開祖”となるべき存在だ」
「……本気で言ってます?」
「我は常に本気だ」
言い切ったライデウスの姿はあまりに堂々としていて、思わず笑みがこぼれた。
──面白い。神がそこまで真剣に遊ぶなら、人もまた本気で応えないといけない。
「わかりました。じゃあ、俺は“開祖”として頑張らせてもらいますよ」
「うむ……将棋は、千年後にも語り継がれる“知の武”となるだろう」
「ええ、“盤上の戦”として──」
俺たちの間に風が吹いた。神と人が交わした、たった一つの盤を巡る挑戦。その第一歩が、今、霊峰で踏み出された。
霊峰の岩場を引き返し、広場へ戻る道を歩く。風は穏やかに、そして静かに吹き抜けていた。
やがて木々の間から広場が見え──そこに、しゃがみ込むイーディスの姿があった。肩で息をし、黄金の髪がわずかに乱れている。
「イーディス?」
慌てて駆け寄ると、イーディスは顔を上げ、苦笑いを浮かべた。
「……あっ、ハルト。ごめん、ちょっと……張り切りすぎた」
その隣には、腕を組みながら立つセレーネの姿。いつもの涼しげな表情を崩さず、少しだけ呆れたようにイーディスを見下ろしている。
「ふふ……どうしても見せてってうるさいから、少しだけ軽く相手してあげたのよ。少しだけ、ね」
「見せて……って、お前……」
俺は呆れ混じりに言いながら、イーディスの様子をよく観察する。怪我はない。魔力切れでもなさそうだ。ただ、かなり動いたあとのように肩で息をしているだけだ。
「だってさ、龍族ってどれくらい強いのか、ちゃんと見てみたかったんだもん……私、強いって言われてるけど、どこまで通用するのかも気になったし」
そう言って照れくさそうに笑うイーディスに、俺は思わず口元を緩めた。
──本当に、らしいな。目の前の相手が自分より遥かに格上と知っても、恐れず立ち向かう。その根っこの部分は、やっぱり強い。
「で、どうだった? セレーネさんの実力は」
俺が問いかけると、イーディスはうなずいて答えた。
「うん、完敗。まったく動きが見えなかった。でも、それがすごく面白かったんだよ。手加減してくれてるのはわかったけど、どれだけ食らいついても届かないって、初めてかもしれない」
その目には、悔しさと同時に、まっすぐな憧れが宿っていた。
「ふふ……そういう顔を見ると、悪くなかったかもって思えるわね」
セレーネがくすりと笑いながら、イーディスの頭に手を置く。冷たいようで、どこか優しい仕草だった。
「……ま、よく頑張ったわ」
「……うう、ありがとうございます。」
イーディスがへたりと地面に倒れ込み、天を仰いだ。
俺はそんな彼女たちのやり取りを見ながら、心の中で小さく笑う。
──俺の周りには、どうしてこう、まっすぐで強い人間が集まるんだろうな。




