閑話 ドワーフと人族
その日、アドホクは中庭の椅子に無造作に腰掛けていた。わずかに目を閉じ、昼寝をしようとしていた──そのとき、背後から少女の声が響いた。
「ねぇ、アドホク!」
彼は振り向きもせず、ぼそりと返す。
「……何か用か?」
だが次の瞬間、背後から伸びてきたメレノアの手が、彼の自慢の髭をつかみ──
「イテテ、イテ……おい、離せ!」
怒声が中庭に響いた。
「俺の髭に触るんじゃねぇ!」
しかし、メレノアはどこ吹く風。真剣な表情で手を動かし続け──
「……三つ編み、だと?」
口では毒づきながらも、彼は目の端で自分の髭を観察した。
(……なんだ、案外、悪くねぇな)
ちょうどそこへジェスターが通りかかる。
「アドホク、その髭は……どうした?」
アドホクは眉間に皺を寄せ、うんざりしたような顔を作り、答えた。
「お前の娘にやられたんだよ」
ジェスターは肩を震わせて笑う。
「少しは仲良くなれたか?」
アドホクは渋い顔のまま言い返す。
「そういうのじゃねぇ。……お前の娘が勝手にやってるだけだ」
だが内心では、少しだけ、自分の中の人間嫌いが和らいでいるのを感じていた。
メレノアは髭の仕上がりを満足そうに見つめて、にっこり笑う。
「でも、前よりもずっと可愛くなったよ!」
アドホクは鼻を鳴らし──そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
(……悪くねぇな)
数日後、中庭の片隅でジェスターが一人、剣の手入れをしていた。
鍛冶屋に預けず自分の手で愛剣を磨くのが、彼なりの信条だ。
古びた砥石に刃を滑らせながら、彼は満足げに呟いた。
「……よし。今日もありがとな……」
その背後、柱の影にいたアドホクが眉をひそめて鼻を鳴らす。
「へっ。素人の自己満足ってやつだな」
ジェスターが振り返る。いつの間にいたのかという顔だ。
「アドホクか。見てたのか?」
「見てたわけじゃねぇ。ただ……その研ぐ音があまりに拙くて耳障りだっただけだ」
「おいおい。これでも毎日手入れしてるんだ。研ぐのには自信があるつもりだぜ?」
「“つもり”で剣は研げん」
アドホクは低く呟き、ずかずかと歩み寄ると、無言でジェスターの手から剣と砥石を取り上げた。
「おい、ちょっと──」
「黙って見てろ。研ぐってのはこういうことだ」
そう言うとアドホクは砥石を手に取り、刃をゆっくりと走らせる。
──キィイィ……
その瞬間、空気が変わった。
金属が石をなぞる音は鈴の音のようなどこか澄んだ音色を帯びていた。
まるで刃そのものが悦んでいるような、不思議な感覚。
二度、三度。刃が砥石に滑るたびに、響く音が鋭くなる。
キレがある。それでいて、艶やかな音。
ジェスターは、ただ見つめることしかできなかった。
アドホクは無言のまま数分ほど研ぎ続け、やがて刃を静かに拭って、ジェスターに差し出した。
「ほれ。試してみろ」
ジェスターはおそるおそるそれを受け取ると、すぐ近くの木の枝に軽く振ってみる。
──シュンッ!
剣が空を裂くような音を立て、枝が真っ二つに落ちた。
振った本人でさえ、刃が通った感覚をほとんど覚えていないほどの切れ味だった。
「……っ! これ、本当に同じ剣か?」
アドホクは腕を組み、どこか鼻で笑うように答える。
「もちろん同じ剣だ。剣に関しては自信があるんだ。俺は村一番の鍛冶師だったからな」
「村一番、ね……」
ジェスターは剣を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「種族単位で鍛冶が得意と言われているドワーフの中の村一番……か」
「……おだてすぎだ。剣が嫉妬するぞ」
そう言って背を向けたアドホクの肩が、どこか誇らしげで嬉しそうに見えた。




