番外編 温泉旅行 前編
謁見から二日。王城の大広間で国王と相対したあの空気が、まるで夢のように遠く思える。
そして、今は。
「……では、提出物は来週までに。以上」
いつも通りの、ホームルーム。
特待生クラスの教室に、どこか緩やかな空気が流れていた。学術院祭という一大イベントを終え、燃え尽き症候群とまでは言わずとも、仲間たちの顔には一様に疲れが残っている。
……もちろん、俺もその一人だ。
「ねえ、ラインハルト君」
背後から声がかかる。
白銀の髪に、微笑を乗せて近づいてきたのは、ルシルゼーレだった。彼もまた、戦神杯で剣を振るった一人。けれどその顔は、どこか楽しげだった。
「三冠、おめでとう。いやあ、まったく、素晴らしいね」
「……ありがとう。最後はもうごり押しだったけどな」
軽く苦笑を返すと、ルシルゼーレは小さく肩をすくめてから、ふと真顔になる。
「でも、正直……疲れたね。学術院祭」
「ああ。それは同感だ」
そんな会話を交わしていると、彼がぱんっと手を打った。
「というわけで、良いことを思いついたよ」
こっちは何も言っていないが、ルシルゼーレの中ではすでに話が進行しているようだ。
「このクラスのみんなで、次の休みに温泉旅館にでも行かない? 王都の隣村に、評判のいい温泉宿があるらしいんだよね。学術院祭、お疲れ様会ってことでさ」
その一言に、周囲の空気が明るくなる。特待生たちの耳がぴくりと動いたのがわかる。
「温泉か……いいね。少しは息抜きになりそうだ」
そう答えると、ルシルゼーレはにやっと笑って、すぐさま横を通るイーディスに声をかけた。
「イーディス。温泉って興味ある?」
「もちろんあるよ。参加で!」
イーディスはあっさりと頷くと、こちらをちらりと見て微笑んだ。
そこに、エルトリオがずいと割り込んでくる。
「おいおい、面白そうな話してるじゃないか。俺も行くぜ、もちろん三冠の優勝者様の奢りだよな?」
エルトリオは冗談っぽく言ってはいるが……
「……はあ。分かった、奢るよ。どうせあぶく銭さ」
半ばあきらめ混じりにため息をつくと、ルシルゼーレが楽しそうに笑う。
「じゃあ、アメルノアとイヴにも声をかけておくよ。全員揃うといいね」
それを聞いて、俺も小さく頷いた。
「……久々に、のんびりできそうだな」
学術院の外、王都の喧騒も少し離れた隣村。
静かで、湯気と硫黄の匂いが漂う場所。
特待生たちの、小さな旅が、こうして始まろうとしていた──。
一週間が過ぎ、ついに迎えたお疲れ様会
一泊二日の温泉旅行の日。
空が白み始めた早朝、特待生クラスの六人は王都西の大門前に集まっていた。
「……眠いですね〜」
イヴが隣で小さくあくびをしながら、けれど荷物はしっかり抱えている。
俺たちの前には、朝の冷気と薄曇りの空。けれど、どこか浮き足立った空気が漂っていた。
「全員そろったね。じゃあ、歩いて行こうか。隣村まで一刻ちょっとだよ」
そう言ったのはルシルゼーレ。今回の発案者にして、旅館の紹介者でもある。
「歩き……?馬車を使う選択肢は?」
「学術院祭のあとはね、どこも予約がいっぱいでさ、ごめんね。でも歩くのも悪くないよ。朝の空気って清々しいし」
俺が苦笑して肩をすくめると、イーディスが荷物を背負いながら横に並んできた。
「運動だと思えば、むしろ歓迎よ。日々の鍛錬は怠らず、ってね」
「はいはい、偉い偉い」と、エルトリオが頭の後ろで手を組んでのんびり歩き出す。「まあ、山越えとかじゃなきゃ余裕だろ?」
「油断するとイヴに抜かれるぞ」と俺が言うと、イヴがきょとんとした顔で小さく微笑んだ。
「抜いても怒らないでくださいね、エルトリオ君」
そんなこんなで、俺たちはのんびりとした足取りで村へと向かっていった
道中は終始、賑やかだった。
エルトリオとイーディスがどっちが早く着くか小競り合いを始め、ルシルゼーレがそれを見てケラケラと笑い、アメルノアはその様子にツッコミを入れながら、時折笑みをこぼしていた。
そして、ちょうど朝日が昇りきった頃。
「着いたよ。ここが今回の旅館、“湯宿・白鳳」
ルシルゼーレが指差した先に、落ち着いた佇まいの木造の宿が見えた。
瓦屋根に、ほんのりと立ち昇る湯気。
「わぁ……素敵」
イヴが目を輝かせ、イーディスが頷きながら言う。
「想像以上ね。静かで落ち着いてる……いい場所だね」
「おはようございます」
そこへ、旅館の女将らしき人物が玄関から姿を現した。ふっくらとした笑顔の、明るい中年の女性だった。
ルシルゼーレが手を挙げて答える。
「予約してたルシルゼーレです。お部屋まで案内お願いします」
「承知しました。ではごゆるりとお楽しみください」
女将は俺たち一人ひとりに目を向け、あたたかく迎えてくれた。
チェックインを済ませた俺たちは、仕切りを作り、男子部屋と女子部屋に分けて荷物を置くとすぐに───
「それじゃ、まずは温泉だな!」
エルトリオがやけに嬉しそうに拳を握る。
「朝早いけど、だからこそ今ならまだ貸し切り状態なはずだよ。男湯と女湯に分かれて、ゆっくり浸かろう」
「疲れを取るために来たんだしね」とイーディスが笑う。
女湯へ向かうイーディス、アメルノア、イヴ。男湯は俺、ルシルゼーレ、エルトリオの三人。
脱衣所で浴衣に着替えて、湯気の立ち込める風呂へと入ると――
「おぉ~~……っ! ……っはぁ~~~~!!」
エルトリオが掛け湯をした後、真っ先に湯船に沈み込み、地鳴りのような声で感嘆の声を漏らした。
「これこれ、これだよな~~。こういうのが、人生の贅沢ってやつだ!」
「……確かに、これは気持ちいいな」
俺も静かに湯に身を沈めながら、ほんの少し目を閉じた。祭の疲れが、じんわりと溶けていくのが分かる。
「学術院祭も、あれだけのことやった後だもんね。報われる時間だよ」
ルシルゼーレの言葉に、俺もただ小さく頷いた。
こうして始まった、お疲れ様会。
静かで、贅沢で、どこか気の緩む温泉旅館の時間が――これから、騒がしくもあたたかな思い出になっていく……はずだった。
「フフフ……この時を待っていた……!純粋な癒やしを求めてな……!」
誰がどう見ても怪しい動きでタオルを肩にかけるエルトリオ。肩から覗く筋肉も虚しいほどに、目つきが完全にアウトだった。
「……エルトリオ」
「なんだよ」
「まさか……お前、女湯を覗く気じゃないよな?」
「いやいやいや、何をおっしゃるラインハルト殿。俺はただこの旅館の構造をだな……ちょっと偵察というか、あくまで温泉探訪の一環で――」
「やめろって言ってるだろ!!」
俺は即座にタオルを引っ張って、引きずるように彼を湯船の方向へ戻す。
「こんなこと、マジでくだらなすぎるからな! ほら、男湯入れ、今すぐ!」
「ちょっ、ラインハルトお前、力強すぎ――痛い痛い! 耳っ! 耳引っ張んなって!」
「人としての理性をお前の耳に叩き込んでやってんだよ」
必死の抵抗もむなしく、エルトリオは湯船のへりに座らされ、監視下で温泉に入る羽目になった。
そして、ほんの数分後――
「……なあ、ラインハルト。さっきさ、壁の向こうからなんか声聞こえた気がするんだが」
ぴくりと、俺の眉が動いた。
「……壁の、向こう?」
「そう。女湯の声だな、たぶん。ほら、あの壁、ちょっと薄いんじゃないか?」
言われてよく見れば、確かに木造の壁は心許なく、遮音性ゼロに見える。試しに俺も壁に手を当ててみると、確かに、温もりとともに――
「ふぅ~、いいお湯ね……」
「はぁ……極楽って感じだわ」
イーディスとアメルノアの声が、すぐそこから聞こえてきた。
「……っ、く……」
さっきまでの正義感が、ぐらりと揺らぐ。
エルトリオが、目を輝かせて俺の腕を叩く。
「ラインハルト! 耳を当てろ! これは神の啓示だ!」
「うるせぇ! ……でも、覗きじゃないし……その……声くらいなら……」
俺は葛藤の末に、そっと壁に耳を近づけた。
「フッ……人の心なんてそんなもんだよな」
「黙ってろ」
ふたりで壁に耳を当てて静かに声を盗み聞きするという、非常に残念な構図が完成したその瞬間――
「……あらら。二人とも、なにしてるの?」
その様子を湯船の奥から見ていたルシルゼーレが、湯気越しに声をかけてきた。
その口元には、悪戯っぽい微笑。
「ふふふ……ラインハルト君、覗きはダメだよ?」
「違う! 違うからなルシルゼーレ! これは……音響調査というか……!」
「俺は最初から反対だったんだ!」
「いやお前が先陣切ったんだろ!!」
その頃、女湯。
ほのかに湯気が立ち上る湯船に、イーディス、アメルノア、イヴの三人が肩まで浸かっていた。旅の疲れがほぐれていくような、至福の時間――だったのだが。
「ねぇ……ちょっと思ったんですけど」
最初に声を上げたのはイヴだった。
「この壁、なんか……薄くないですか?」
「……ええ、さっきちょっと音が聞こえた気がするわね」
アメルノアが静かに湯をすくいながら言う。
「男湯のほうで騒いでる感じがしてたし。なんなら、耳当てれば〜とか言ってるのが聞こえた気がする」
「つまり……盗み聞きされてるってこと?」
イーディスが少しだけ眉をひそめた。
「……なら、やり返してやる?」
「やるべきね」
アメルノアが即答した。
「ルシルゼーレはそんな事しないわ。してるならラインハルトとエルトリオね……」
「じゃあ、あの二人がちょっと落ち込むような会話を聞こえるようにしてみましょうか」
イヴが無邪気に提案し、三人で小さく顔を見合わせる。
──そして。
「そういえばさ、ラインハルトってちょっとジジくさくない?」
「うん、なんか……喋り方とか、反応が妙に落ち着いてて。いや、年上っぽいっていうか……なんか“おじさん”っぽい」
「分かる。何かっていうと“ふむ”とか“なるほど”とか言うし。とにかくおじさんみたい。」
* * *
──男湯側。
壁に耳を寄せていたラインハルトは、突然湯船の中で動きを止めた。
「……」
「お、おい? どうしたラインハルト、なんか顔が青いぞ?」
返事はなかった。
ラインハルトは壁からスッと離れると、無言で湯船のいちばん遠い角に移動し、そのまま体育座り。
「……おじさん……俺ってそんな感じなのか……」
ぽつりと呟きながら、湯の中でしゅんと肩を落とすその姿は、なかなかに哀愁を誘っていた。
「……っくくく……っ、はっははは!!」
その姿を見たエルトリオが吹き出す。
「いや、お前……マジで気にしすぎだろ!おい、どんだけダメージ受けてんだよ!」
「黙れ。俺の心は今、繊細なんだ……」
──女湯側。
「それで言うとさ、エルトリオって自分のこと絶対かっこいいって思ってるでしょ?」
「思ってるね。でも……ぶっちゃけ、ルシルゼーレがかっこよすぎて、隣にいると余裕で霞んでるのよね」
「あと……普通に下ネタキモい。たまに言うけど、“女の子に好かれたい”が透けて見えて逆効果なんだよね」
「うん。笑ってるけど、内心ドン引きしてる時ある」
──男湯。
その時、今度はエルトリオが凍りついた。
「……霞んでる……キモい……?」
ぽつりと口を開いた彼は、湯の端で体育座りするラインハルトの隣に、そっと腰を下ろした。
並んで湯に浸かる二人の背中に、どこか哀愁が漂う。
「……結局俺は、二番手のセクハラ野郎さ……」
「お前が言うと説得力あるな……」
「やかましい」
そんなふたりの様子を、対角線上の湯船から見ていたルシルゼーレは、小さく肩を揺らして笑った。
「……これはまた、いい湯だったね。ふふふ」
彼は湯から立ち上がり、さらりと上がっていった。
──風呂の壁は薄い。
心の壁も、意外とそんなもんかもしれない。




