番外編 恋慕
ティフォンが村に現れてから、季節は少しずつ巡り始めていた。
彼の記憶はまだ戻っていない。けれど、村の生活にはすっかり馴染んでいた。
大工仕事を手伝い、子供たちと遊び、畑の手伝いまでしてくれる彼は、今や村の誰からも親しまれていた。
……ファーレスも、例外ではなかった。
「おはよう、ファーレス。今日もいい朝だね」
「……ええ、おはようございます、ティフォンさん」
屋敷の前で交わされる、何気ない朝の挨拶。
けれど、ほんの少し心が跳ねるのを、彼女は隠せなかった。
「何か運ぶものがあれば言って。馬の手綱も慣れてきたし、力仕事は任せてよ」
「……なら、午後に薪をお願いしても?」
「了解。薪より重たいものでも、君の頼みなら運ぶよ」
「……ティフォンさん」
ファーレスは、微かに眉をひそめた。けれど、声には怒気はない。ただ、照れを紛らわせるように目を逸らす。
ティフォンは、その反応に楽しげに微笑む。
その日、彼女は午後に薪の準備を頼み、そして夕食の支度をしていた。
キッチンには新調した道具が並び、包丁は心地よい切れ味を響かせる。ファーレスの手は止まらず、けれど心はふと、庭先の方へと向かっていた。
(……彼は、何者なんだろう)
魔法を扱い、鍛錬された身体、自然と周囲を惹きつける雰囲気。
(もし……あの人が、ただの流れ者ではないとしたら)
そんな不安と、けれど――
(……それでも、ここにいてほしい)
芽吹いた想いが、根を張り始めていた。
その夜。ファーレスは、焼き立てのパンと温かいスープを手に、仮住まいの家を訪れた。
「ティフォンさん、晩ごはん、余ったので……よければ」
扉が開き、灯りに照らされたティフォンが顔を出す。
彼は少し驚き、そして嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しいな。君が来てくれたのが、何よりも」
「……パンが冷める前に、どうぞ」
二人で簡素なテーブルを囲み、ティフォンは黙々と食事を摂った。
けれど、その静けさは心地よいものだった。
「……この村、あたたかいね」
「ええ……あなたが来てからはもっとあたたかくなった……」
ティフォンはその言葉に、しばし黙した後、ぽつりと呟いた。
「夢を見たんだ。炎に包まれた街。剣と……声が聞こえた。誰かの名を呼んでいた」
ファーレスの手が、パンをちぎる動きを止めた。
「……名前は?」
「わからない。でも……呼びかけていたのは、自分じゃない気がした」
彼は少し眉を寄せ、そして苦笑した。
「ごめん。せっかく食事を運んでくれたのに、重い話をしたね」
「いいえ。話してくれて、ありがとう」
そう言いながら、ファーレスはそっと彼のカップにスープを注いだ。
「どんな過去があっても、私は……ティフォンさんを、今のあなただけを見ています」
ティフォンが、驚いたように彼女を見た。
ファーレスの言葉は、静かで、けれど確かな響きを持っていた。
やがて――ティフォンは、目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。ファーレス……君に、そう言ってもらえたこと、きっとずっと忘れない」
静かな夜風が、窓辺をさらりと撫でた。
十日後、昼下がり───
屋敷の縁側で、ライラとファーレスが並んで座っていた。揺れる洗濯物を眺めながら、ふとライラが口を開く。
「ねぇ、ファーレス。そういえばティフォンさんのこと……どう思ってるの?」
「……え?」
思わぬ問いに、ファーレスは瞬きをした。
「どうって……良い方だと思います。村の人たちからも信頼されてきていて、仕事も手際が良くて」
「そういう意味じゃなくて、こう……女の子として。特別な感情とか、ないの?」
ライラが茶目っ気たっぷりに覗き込む。ファーレスは視線を泳がせ、小さく首をかしげた。
「……よく、分かりません。あの人が何者なのかも……どこまで本当なのかも。でも、見ていると……少し、心が温かくなって」
「ふうん。分かってるような、分かってないような……」
ライラはにこにこと笑いながら、そう呟いた。
次の日の昼。ファーレスは市場で野菜やパンを選びながら、帳面に記録をつけていた。
そのとき、不意に背後から声がかかる。
「ファーレス!」
「……ティフォンさん?」
振り返れば、彼は笑顔を浮かべて立っていた。
「少し時間、いいかな?」
「……ええ、構いませんが。何か?」
「ちょっと……いいところに、連れて行きたいんだ」
そう言って差し出された手には戸惑いもあったが、彼の顔は真剣だった。
ファーレスは一瞬迷い、けれど静かに頷く。
二人が辿り着いたのは、村の北端にある小高い丘だった。
風に揺れる草花、そして木々の隙間から見える村の全景。小さく見える家々と、そこに息づく穏やかな暮らし――。
「ここに来ると、村全体が見えるんだ」
ティフォンはそう呟き、隣に立つファーレスを見つめた。
「君に命を助けられた時から……ずっと、気になってたんだ」
「……え?」
「最初は、ただの感謝だった。でも、一緒に過ごして、話して、笑って……気がついたら、感情が変わってた」
ティフォンの声は少し震えていた。けれど、その目はまっすぐに彼女を捉えていた。
「……好きだ。ファーレス。君が、好きだ」
静かに風が吹いた。木々が揺れ、草の匂いが空気を撫でる。
ファーレスはしばらく黙ったまま、丘の風景に目を向け、そして――
「……そんなふうに、思ってくださって……ありがとうございます」
頬がほんのりと赤くなっていた。
「私……まだ、よく分からないんです。でも……あなたと過ごす時間は、嫌いじゃないです。むしろ……あたたかくて、居心地が良くて」
視線を落とし、少しだけ笑みを浮かべる。
「ですので、もう少しだけ……私にも、考える時間をください」
ティフォンは、その言葉に息を吐き、そして微笑んだ。
「……もちろん。待ってるよ。焦らせるつもりはないから」
その笑顔は、何かを手放すものではなく、確かな想いを抱きしめるものだった。
風が吹く丘で、ふたりの距離は、ほんの少しだけ近づいていた。




