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番外編 未知の感情

石畳の路地にそよ風が吹き、畑に面した屋敷のキッチンから、ファーレスの慣れた包丁の音が響いていた。


「……やっぱり、もう限界ね」


 まな板の上のトマトを半分に切ったところで、包丁の切れ味に彼女はため息をひとつついて、それを丁寧に拭く。


「これじゃあ……仕事が捗らないわね……」


 その日、ファーレスは鍛冶師に買い替えた方が早いとの言葉で、調理道具の買い替えを決意していた。街までの道のりは馬で片道三刻。帰りは翌日になるが、仕事の質を落とすわけにはいかない。


 屋敷の玄関先で馬に荷をくくりながら、彼女はキッチン用のリストを再確認する。

 包丁に、鍋、木杓子、すり鉢、布巾、保存瓶。それから――


「少しお菓子の型も見てこようかしら。メレノア様、ああいうの好きだったわよね」


 日差しの中で微笑むその横顔は、いつものファーレスよりもすこし柔らかかった。



 テミュリスの街は、変わらず活気に満ちていた。


 子どもたちの笑い声。荷車を引く職人の掛け声。薬草を売る老婦人の鋭い値切り合戦。人の熱気と活力が溢れるこの場所が、ファーレスは少し苦手だった。


 だが今日は、道具選びに集中していられる。


「……うーん、この包丁は少し重い。でも切れ味は、申し分ないわね」


 専門の道具屋で、三本の包丁を試し、一本ずつ吟味した末に、結局すべてを買った。鍋も、すり鉢も。予定より出費はかさんだが、後悔はしていない。


 自分の腕前だけでなく、道具にもこだわる。それがファーレスという人間だった。




 荷をまとめ終えた頃には、もう日が暮れかけていた。

 テミュリスの街の西の空が茜色に染まり、家々の窓から漏れる灯りが石畳を照らす。


 彼女は小さな宿に一泊し、翌朝――まだ空が白む頃、村へと馬を走らせた。




 帰路は静かだった。


 街の喧騒とは違う、鳥のさえずりと風の音だけが耳に心地良い。

 馬の背でうつらうつらとしながらも、荷が揺れぬよう姿勢を保つ。ファーレスは小さな緊張感と共に進んでいた。


 スミカ村まで、あとわずか。丘の上の見晴らしの良い道を抜ければ、いつもの生活が待っている――はずだった。


「……あれ?」


 道の脇、木陰の中。誰かが倒れていた。


 体勢は伏せるように、しかし片手は無意識に地面を掴んでいる。

 放っておけば死んでしまうとひと目でわかるくらいに血だらけだった。


 ファーレスは馬から飛び降り、裾を押さえながら駆け寄った。


「大丈夫……!?」


 黒い髪、黒い瞳。異国の香りがする青年だった。

 この辺りでこんな容姿の者はいない。衣服もこの辺りのものでは無さそうだった。


 体温は下がり、呼吸も浅い。


(間に合う……はず。落ち着いて)


 ファーレスは地面に膝をつき、静かに両手を重ねた。


「……癒しよ、穏やかなる光とともに……」


 中級の治癒魔術を詠唱すると、小さな光の粒が青年の体を覆い、傷口が塞がっていく。肌が再生し、真っ赤に腫れていた所も色が戻っていく。


 そして――


「……君、は……?」


 彼は目を開けた。


 黒い瞳が、まっすぐ彼女を捉える。苦痛に歪む顔なのに、その瞳だけは不思議なほど穏やかだった。


「気がついたのね。良かった……。私はファーレス。あなたは……?」


 青年は眉を寄せ、しばらく遠くを見るようにして――


「……ティフォン。……それしか……名前しか、わからない」


「記憶喪失……?でも、名前だけでも思い出せて良かった」


 彼の視線が、一瞬揺れた。

 感謝と、迷いと、不安と――それでも笑おうとする意志があった。


「助けてくれて……ありがとう。……美しい人」


「えっ……」


 ファーレスは、一瞬だけ動揺した。

 メイドとして褒め言葉は幾度も受けてきた。けれど、この男の言葉は自然と胸に入ってきた。


 この男は、記憶すら失ったというのに、迷いなくそう言ったのだ。


(からかってるわけじゃなそう……?)


「……とりあえず、馬に乗れますか? 村まで、連れていきます」


「うん……君がそう言うなら、頼らせてもらう」



 その日からティフォンは仮設住宅の一つに住むことになった。


 最初はよそ者と警戒されていたが、村の子供たちにすぐに好かれたことで、空気は徐々に変わった。


「兄ちゃん、また魔法見せてー!」

「よし、今日は火じゃなくて風にしようか」

「やったぁー!」


 ティフォンは手のひらに風の球をつくり、それを小さな鳥の形にして飛ばす。

 それが子供の手の上でふわっと散るたびに、歓声があがった。


(こんな風に……人を笑顔にできるのね、この人)


 ファーレスは、屋敷の窓からその様子を見つめ、静かに息をついた。


(でも私は、仕えている身。こういう気持ちは……)


 胸の奥で、名前のない想いが揺れている。



 ティフォンとすれ違うたびに、彼の笑顔を見るたびに、ほんの少し顔が熱を帯びる。

 しかしその感情をファーレスはまだ知らなかった。

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