閑話 返礼のラインハルト
霊峰にて、冷たい風が頬をなでる。
革の袋を握りしめた俺は、静かに歩を進めた。
(これで……ようやく)
冒険者ランクがプラチナ級へ昇格した直後、俺はまっすぐここへ向かった。
プラチナ級の昇格試験として課されたのは「フレイムゴーレム」の討伐。炎熱の魔力核を持つ大型の魔物で、腕試しには十分すぎる相手だった。
報酬は大銀貨五枚。
そこに、今までこつこつ貯めていた分を加えて、ようやく金貨二枚相当が揃った。
(あの人、たぶん、金の価値なんてどうでもいいんだろうけど)
セレーネが冒険者ギルドに顔を出しているのを何度か見かけたことがある。
彼女が受け取っていた依頼は、どれも超高難度の魔獣討伐ばかり。
依頼内容を聞いていた受付嬢が絶句していたのを、今でも思い出せる。
ギルドの報酬なんて見ていなかった。
ただ――「ちょうど手が空いてたから」とでも言いたげに、彼女は気まぐれな猫のような足取りで任務地へ向かっていた。
お金のために戦っているわけじゃない。
きっとあれは、強い敵と戦いたいという欲求を満たす、ただの暇つぶしだった。
セレーネがジェスターを治療し、俺が何かを返したいと願った。その気持ちを汲んでくれた金貨二枚だ。
(あのときのセレーネにとって、あれは“適当な値段”だったんだろう。)
だが、俺にとっては違う。
たとえ本人が冗談まじりに言ったとしても──借りは借りだ。
そして、今日。俺はその借りを返しに来た。
岩場の奥に座る漆黒の髪の女。
その背に声をかける。
「……セレーネさん」
「よっ。ラインハルト」
振り返らずにそう呟いた彼女は、風の音の中に溶け込んでいた。
「これ……あのときの治療の代金です。全部で金貨二枚分になります。だいぶ遅れちゃいましたけど……」
差し出された袋を見て、セレーネはわずかに目を細める。
「……ほんとに来たんだ。まじめね、あんた」
袋を受け取り、その重みを確かめるように手のひらで転がす。
「……でもね、あたし、あれから少しだけ人間のお金ってやつを知ったの」
ふと、彼女の金の瞳がこちらを見据えた。
「金貨二枚って……相当の額なんでしょ? たとえば、あんたの父親、ジェスターって騎士の一年半分の給金くらいとか、そう聞いたわ」
「……そうですね。父は騎士様ですが、それでも金貨二枚は大金です」
「だったら、やっぱりこれは受け取れない」
そう言って袋を押し返してきた彼女に、俺は静かに言葉を返す。
「でも、あの時……セレーネさんがいなければ、父は死んでいました」
「それでも、よ。今のあたしが金の価値を知った上で言うなら、命の値段って、そんな単純に換算できるもんじゃない。それに、別に金が欲しくて助けたわけでもないし」
それは分かっていた。
だからこそ、俺は押しつけるように続ける。
「でも……これは、俺の気持ちです。あの時の約束を、果たしたいだけなんです」
「……はあ、ほんとに頑固。いいわ、じゃあこうしましょう」
セレーネは袋から金貨一枚を取り出し、残りを俺の手に押し戻す。
「一枚だけ受け取るわ。もう一枚は──自分のために使いなさい。旅でも、鍛錬でも、装備でも。使い道は自分で決めなさい」
俺はしばし黙ってから、頭を下げた。
「……ありがとうございます。じゃあ、そうします」
セレーネはふっと笑い、袋を腰のポーチにしまいながらそっぽを向いた。
「なんで、金の価値も興味もない龍族に返そうなんて思ったの?」
「セレーネさんが“どうでもいい”と思ってたとしても、俺にとっては、命を救ってくれた恩人ですから。そこに、価値があるんです」
風がまた吹いた。
セレーネの黒髪が揺れる。
「……まぁ、あそこで死なれても気まずいしね」
そう言って、セレーネは少しだけ笑った。
その横顔は、あの時よりも、少しだけ“人間らしく”なっている気がした。