番外編 後編 イーディスと戦女神
ヴァルキュリア邸──修練場
南方剣も西方剣も、両方上級の域に達した。
己の力を見極め、さらに高める術も少しずつ掴みつつある。
今なら──ラインハルトに胸を張って会える気がした。
けれど、きっと彼も成長している。
己を削るようにして掴んだ力を、さらに磨いているだろう。
「……もう少し、かな」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届かぬまま、修練場の静寂に溶けて消える。
視線を最奥へ向ける。そこには、千年前の大戦で“戦女神”と謳われた祖先──ヴァルキュリアの石像が静かに佇んでいた。
片膝をつき、剣を地に突き立て、伏せた目元はどこか哀しげで、神秘的だった。
いつか自分も、あの伝承のように……人を守れる存在になれるだろうか。
石像の傍に腰を下ろし、今日の修練を思い返しているうちに、知らぬ間にまどろみに落ちていく──。
ふわふわと、宙に浮いている感覚。
……夢だ。そう気づいた瞬間、目の前に広がるのは、かつて見たことのない戦場の光景だった。
紅蓮の髪をなびかせ、深紅のオーラを纏った女剣士が、千人以上の人々を従え、魔族の軍勢を前に剣を構えている。
その数、五百か、それ以上。まるで黒い波のように、地を覆っていた。
(これ……千年前の大戦……?)
そう思った刹那、魔族軍の後衛が魔術を発動する。
──上級炎魔術。
小さな太陽の如き炎弾が、空を埋め尽くす。
それは人族の軍勢を焼き払わんと、一斉に放たれた。
(避けられない……!)
これから起こることを想像し思わず目をつむった。
だが、爆音も悲鳴もない。恐る恐る目を開くと、紅髪の女剣士──否、“戦女神”ヴァルキュリアがそのすべてを斬り伏せていた。
剣が届く炎弾は剣で斬り払い、届かぬものには深紅のオーラを放ち、魔術を打ち消していく。
その姿はまさに伝説に語られし戦女神。
だが、戦はまだ終わらない。
魔族が突撃を開始し、戦場は白兵戦へと移行した。
悲鳴、怒号、血の海──。
だがその中で、ヴァルキュリアの剣が閃くたび、十人単位で魔族が斬り伏せられていく。
それはもはや守護者の戦いではなかった。
殺戮の女神──その表現の方が相応しかった。
やがて戦は人族の勝利に傾き、戦場は制圧される。
人々が歓声を上げる中、ヴァルキュリアの顔には、微塵の喜びもなかった。
眩暈と共に、場面が切り替わる。
次に目に映るのは、天幕の中。
ベッドに腰掛けるヴァルキュリアの姿。疲労と無表情が、彼女の心境を物語っていた。
「ヴァルキュリア様、戦況報告に参りました」
「許します」
羊皮紙を手にした報告官が口を開く。
「中央戦線──ヴァルキュリア様の指揮によるものです。人族の犠牲者百六、魔族の撃破数四百六十」
ヴァルキュリアは険しい表情で、小さく呟いた。
「……私に、もう少し力があれば」
その言葉は、天幕の中に虚しく響いた。
報告は続く。
「左翼、勇者様の戦線。犠牲者七百四十、撃破数四百七十」
「右翼は壊滅的被害。犠牲者千二百、撃破数二百二十です」
ヴァルキュリアの顔から血の気が引き、光が失われていく。
「……把握しました。将軍たちにも伝えてください」
「はっ」
報告官が去った後、ヴァルキュリアはベッドに崩れるように倒れ込んだ。
「……魔神ウィルベルトさえいなければ……人魔不干渉を望む穏健派の魔王たちと和平を結べたのに……」
絞り出すようなその言葉に、彼女の苦悩が滲んでいた。
また眩暈。視界が揺れ、次の場面へ。
見慣れた修練場──だが様子が違う。
床には大規模な魔法陣、周囲には多くの人々。中心にはヴァルキュリア。
「魔神は封印し、魔族とは一応の和平を結べた。だが、真の平和はこれからだ」
ヴァルキュリアが剣を掲げる。
「私は次代の英雄に力を託し、この天命を全うします」
ざわめく人々。止めようとする声もあった。
「今は平和なのです、そこまでしなくても……!」
「……今は、です。この世界には運命という呪いがある。
再び血塗られる日が来る。魔神の封印が解かれる時が、いつか……」
その言葉に、誰もが口を噤んだ。
ヴァルキュリアは魔法陣の中心に剣を突き立て、声を張り上げる。
「五百年後、いや千年後かもしれない。
だが英雄は必ず現れる。剣と魔術を携え、この運命すらも覆す英雄が──!」
剣に魔力を流すと、魔法陣が光を放ち、やがてヴァルキュリアの姿はその中に消えていった。
光が収まったとき、そこに立っていたのは──石像となった“戦女神”だった。
あの、修練場の……。
──声が聞こえた。
「剣と魔術の、血塗られた世界を望む者よ。
どうか、世界の運命を変える事を祈っています……」
イーディスは、はっと目を覚ました。
石像に背を預けたまま、眠っていたらしい。
夢の内容はもう朧げだ。だが、頬には熱い涙が伝っていた。
「……まだ、守れない」
ぽつりと呟くと、イーディスは涙をぬぐい、剣を手に取った。
守りたいのに守れない──そんな未来を、繰り返させはしない。
彼女は剣を構え、修練を再開する。
そして世界を守るための力を──己の中に刻み始めた。