表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/117

第29話 長い一日

食事を終え、布団に横になると、心地よい疲労が眠気を呼び込んだ。


ライデウスもセレーネも今夜は泊まっていくらしい。

母さんの「ぜひ泊まっていって」という申し出を、ライデウスが断りきれなかったのだと後で聞いた。

明朝には霊峰へ戻るという。朝食を食べたら、すぐに。


(……少し、寂しいな)


そんな感情を抱いたのを最後に、意識は緩やかに溶けていき、眠りに落ちた。



──朝


静かな朝だった。

台所から香ばしい匂いが漂い、食卓には昨晩と変わらぬ光景が広がる。


焼き立てのパンと温かなスープ。それを一心不乱に食べ進めるセレーネ。ファーレスは微笑ましくその様子を見守り、無言ながらも柔らかな気配を纏うライデウスに、ライラが果敢に話しかける。

ジェスターは修行について俺に色々と聞いてくる。


何気ない、しかし温かい――

そんな幸福な時間こそ、なぜか長くは続かないものだ。

そして、今日も例に漏れず、“そう”だった。


ガシャッ!


金属が軋む音が庭先に響いた。

皆が食事の手を止め、顔を上げたその時──


ドン! ドン! ドンッ!


玄関扉が荒々しく叩かれ、切羽詰まった声が飛び込んできた。


「ジェスターさん! 魔物の侵攻モンスターホードが、隣の村で発生してる!!」


ジェスターが立ち上がった。椅子が後ろへ弾け飛ぶ勢いだった。

すぐさま外へ出る彼の背を追い、俺も玄関を飛び出す。


門先には顔色を失くした村人の男が立っていた。


「どうする!? もし隣の村で止められなかったら、こっちの村まで来るぞ!」


ジェスターはわずかに唇を噛んだ後、きっぱりと命じた。


「まず俺が様子を見に行く。この村の戦力を整えておけ。物見を全方位に立たせろ、いいな」


「わ、わかった! すぐ皆に伝える!」


村人は駆け出していった。


ジェスターは俺たちの方へ向き直り、厳しい顔で告げる。


「俺は隣村に行ってくる。お前たちは家に戻って、隠れていろ」


彼の言葉には迷いがなかった。だが、わかっている。

この人は、誰かが助けを求めていたら絶対に見捨てない。

それが自分の命を削ることになっても――だから


「僕も行くよ、父さん」


静かに告げた声に、ジェスターの眉が吊り上がった。


「ふざけるな! これは遊びじゃないんだぞ!」


怒鳴るような声。それでも、俺は視線を逸らさなかった。


「修行で強くなった。父さんも認めてくれただろ?

 僕はもう、足手まといじゃない。……だから、一緒に行かせてほしい!」


ジェスターはしばらく黙って俺を見ていたが、やがてふっとため息をついた。


「……このまま行っても、どうせ後をつけてくるだろうしな。いいだろう。

 だが、俺の傍を絶対に離れるな。いいな?」


「うん、わかってる。ありがとう、父さん」


そのやり取りを黙って見ていたライデウスが、視線をセレーネに向けた。


セレーネは無言のまま立ち上がり、食器を一度も振り返らずに台所へ置いてから、軽く歩み寄ってくる。


「一宿一飯の恩もあるし、手伝ってあげるわよ」


「セレーネさん……ありがとう」


そう言うと、セレーネはわずかに口元を緩めて、


「せっかく鍛えたのに死なれたら無駄でしょ?」


と、皮肉めいた笑みを浮かべた。


ジェスターは神妙な面持ちでライデウスに頭を下げる。


「龍神様。この村を……どうか、お守り願えますか」


「ふむ。よかろう。我が名にかけて、この村は守りきろう」


ライデウスの声は低く、だが確かな力が宿っていた。


そして俺、ジェスター、セレーネの三人は村を出る。


「まずは厩舎へ行くぞ!」

ジェスターが走り出そうとした、その時だった。


――ドウン!


空気が震え、風が渦を巻いた。セレーネの身体が金と黒の光に包まれ、龍の姿へと変わる。


黒き鱗が陽を反射し、翼が空を裂くように広がった。


「私は馬よりも速い。……方角と距離を教えて」


ジェスターが一瞬だけ息を呑みつつも答える。


「南西に馬で二刻ほどの場所にある……」


セレーネは俺たちを摘み上げると、ひと息で空へと舞い上がった。


風が唸り、木々がざわめく。

空を裂き、大地を駆ける影が、危機へと向かって飛翔する――。


「……着いたわ」


セレーネの翼が風を裂き、隣村の上空に差しかかった。

俺と父さん――ジェスターは、龍化した彼女の両腕に抱えられながら眼下を見下ろす。


そしてすぐに、胸の奥を冷たい手で掴まれるような感覚に囚われた。


下は――地獄だった。


焼け焦げた屋根、瓦礫と化した家々、吹き飛ばされた生活の痕跡。

黒煙が数ヶ所から立ち昇り、赤く染まった土が風に舞う。

破壊の痕跡は、もはや侵攻というより蹂躙そのものだった。


「……酷いな」


ジェスターが低く唸る。


だがその時、彼はふと眉を寄せた。


「……今、あれは……?」


彼の目が村の外れ、崩れかけた石壁の影に一瞬引き寄せられる。

何かが動いた。小さな影――人のようにも見えた。

だが、それが何だったのかは分からない。ほんの一瞬。

光と煙、瓦礫の狭間。魔物か、村人か、幻か。


ジェスターは視線を戻す。だが、心に何かが引っかかった。


「……父さん?」


「いや……気のせい、か……?」


呟く彼に返事をする間もなく、セレーネが低く声を落とす。


「見つけたわ。村の中央、広場」


その言葉に俺とジェスターも顔を向ける。

開けた場所に、黒い影が蠢いていた。


魔物――十体以上。

鋭い牙を剥き出しにし、鎧や武器を持たぬ村人たちを取り囲んでいる。

必死に農具や古びた剣を振るう者、仲間を庇って倒れそうな者――

それでも、なお逃げずに踏みとどまる者たち。


「まずい、間に合わなきゃ皆殺しだ!」


ジェスターが叫ぶ。

セレーネは翼を傾け、即座に滑空へと移った。


俺も思わず声を張る。


「中央へ!僕が魔術で掃討と援護します!!」


風が一気に加速する。

セレーネは高度を落としながら、広場めがけて一気に突っ込んだ。


ジェスターの胸の奥には、まだ微かにあの「違和感」が残っていたが――

目前の戦場へと意識を向けていた。



セレーネの翼が大きくはためき、俺たちを抱えたまま地上へ急降下する。

その瞬間――風が一気に捻じ曲がった。


「着くわ。しっかり踏ん張りなさい」


彼女がそう言った次の瞬間、セレーネの身体が光に包まれる。

地に降り立つと同時に、龍の姿は消え、漆黒の髪をなびかせる人の姿へと戻っていた。


そして、彼女はすでに構えていた。


「……片付けるわよ」


その一言が終わる前に、地面を蹴ったセレーネの姿が霞み、氷鎌が魔物の首を一閃。

冷気が炸裂し、魔物の一体が瞬時に凍りつき、粉々に砕け散った。


俺も杖を構え、息を吸い込む。


魔力が集束し、二つの属性が解放される。

火と風が絡み合い、魔物の群れを焼き払う。


「来るなって言っても来るだろうけど……せめて一撃で終わらせる!」


一つ、また一つと、地に倒れる魔物たち。

抵抗していた村人たちはその様子に目を見開き、武器を持った手が震えていた。


わずか十数秒――戦いは、終わった。


セレーネは軽く鎌を振って氷を散らし、俺は導魔杖を静かに下ろす。


「……ふう、終わったか」


「……あっけないわね」


俺はすぐに周囲を見渡し、声をかけようとした。


「父さん、さっきなにか……」


しかし――いない。


先ほどまで確かに隣にいたはずのジェスターの姿が、どこにも見えない。


「……え?」


思わずその場を小走りに探す。

セレーネも気配を探るように周囲に目を走らせたが、首を横に振った。


「いないわ。戦闘中に離れた? でもそんな……」


その時だった。息を切らしながら、ひとりの村人が俺たちに駆け寄ってくる。


「あんたら! この騒ぎの中ですまんが……最近この村に越してきた家族、見なかったかのう? 娘と二人暮らしだったと思うが、騒ぎの最中、家から出てくるのを誰も見とらんのじゃ」


「家はどこ?」


セレーネが鋭く問う。


「東のほうじゃ。村はずれの……確か、森に少し近いあたりに……」


聞き終わるが早いか、俺たちは走り出していた。


「父さん……まさか、そっちへ……!」


「セレーネ、また頼める!?」


「言われなくても!」


セレーネは軽やかに跳躍し、人型のまま今度は翼だけを生やしを俺を抱き抱え空へと駆ける。


俺たちは、東へと向かった。


何が待つかも分からぬまま、だが胸騒ぎだけが確かにそこにあった。


「いた……!」


空から見下ろした先、林を抜ける細道を駆けるひとりの男。

それは間違いなく、ジェスターだった。


その視線の先、地面に倒れるように座り込んだ幼い少女。

銀の髪が泥にまみれ、恐怖で震える小さな背中。五歳くらいだろうか――。


そして、少女の向こうから迫る影。


「っ……ミノタウロス!?」


牛頭の巨躯。三メートルを超える巨体が大地を踏み鳴らす。

握られた大鉈。血走った目。角が陽光を跳ね返すように光った瞬間――


グワアアアアアッ!!


咆哮とともに、ミノタウロスが突進を開始する。

目標はただひとつ、無抵抗な少女。


(まずい……っ!)


セレーネのに抱えられている状態では、すぐに魔術が撃てない。


このままじゃ、間に合わない――!


だがその時だった。


「おおおおおッ!!」


ジェスターが、全速力で少女の前へ飛び出した。


「父さん……!」


剣を抜き、地に突き立て、全身を盾にするように構える!


ドォンッ!!


雷鳴のような衝突音。

地面が抉れ、砂塵が舞い上がる。


ジェスターは弾き飛ばされ、地面を転がった。

それでも少女は無事だった――その体を、必死に庇いながら倒れ込んでいたからだ。


だが、ミノタウロスは止まらない。

怒りに身を任せ、大鉈を放り捨てると、巨体をかがめて牙を剥き出しにする。


「――ッ!」


倒れたジェスターの腕に、鋭い牙が突き立った。


骨を砕くような嫌な音。

ジェスターの苦悶の声が、喉の奥から漏れる。


「ぐ……あああっ!」


ミノタウロスは獲物を裂こうと、首を振り、さらに食い破ろうとする。


「……っ!」


地面に着地した瞬間、俺は導魔杖を構えた。

何も考えずただ魔力を収束させる。


風を刃に変える。意図は、ただ一閃――


魔力が空を裂いた。


ズバッ!!


空気を断ち、鋭い風の斬撃が走る。


ミノタウロスの首を切断し、そのまま頭は転がった。


巨体が硬直し、動きを止める。


ドサァァッ……!


首のないまま、ミノタウロスは倒れ伏した。


あっけないほどに、命は断ち切られた。


「父さん!」


俺はすぐさま地面に飛び降り、駆け寄る。

腕を噛まれたジェスターは血を流しながらも、しっかりと少女を庇っていた。


「……無事、か……?」


「うん、父さんも……生きててよかった……!」


小さな少女は言葉も出せず、ただ震えながら、ジェスターに縋りついていた。


(この距離、この一瞬、逃していたら……)


胸の奥で、恐怖と安堵が交差する。


俺は地面に膝をつき、血を流すジェスターの身体を抱え込んだ。


そして少女を安心させようと微笑みながら


「大丈夫だよ。もう怖くない」


少女を優しく離してから、俺はジェスターの顔を覗き込んだ。

しかし、その瞳は虚ろに揺れ――


「……父さん?」


呼びかける声に、応えはなかった。

その身体が、力を失ったように俺の腕の中で崩れる。


「っ、父さん!!」


「落ち着け、ラインハルト」


背後からセレーネが、静かに声をかける。


「……様子を見せて」


ジェスターの傷口を見つめ、セレーネが小さく呟いた。


「……魔傷風ね」


その声は冷静だったが、空気がぴんと張り詰めた。


「ま、魔傷風……?」


顔が強張って、思わず問い返す。


「そう。魔物の牙に潜む魔素が体内で変質して毒化する症状よ。痛みは鈍いけど、確実に体を蝕む。放っておけば半日もすれば四肢に痺れが出て、一日経てば……心臓が止まる」


彼女は手早くジェスターの上着を裂き、傷口に手をかざした。


「しかもこれは普通の解毒じゃ対処できない。魔素が神経にまで浸透するから、中和するには“伝説級”の一つに数えられる解毒魔術が必要」


「そんな……!」


俺は膝をついて、父の顔を覗き込む。意識はない。呼吸はかすかにあるけど、顔色は悪くて唇が青くなり始めていた。


「僕じゃ……生命魔術は上級までしか……!」


「分かってる。あなたには無理。でも、私が使える」


セレーネは即座にそう言うと、静かに地面に膝をついた。


「詠唱に五分ほどかかるけど……急ぐ。あなたは動かさないように支えてて」


「……頼む」


息をのむ俺の前で、セレーネは淡々と詠唱を紡ぎ始めた。

その言葉は風のように空気を揺らし、周囲に微かな光が集まっていく。


その時だった。かすかな気配に気づいて振り返ると、草陰に小さな少女がじっとこちらを見ていた。

銀髪に金色の瞳。年は五歳ほどだろうか。目には涙が溜まり、不安そうに父の姿を見つめている。

声も出さず、動くこともなく、ただそこに佇んでいた。


(……あの子……)


言葉を発しかけてやめた。今はそれどころじゃない。

俺はただ祈るように父の手を握り、セレーネの魔術が完成するのを待った。


刻一刻と光は強くなっていく。


――間に合え。


詠唱が終わり、光が静かに散ると空気がふっと落ち着いた。

苦しそうにしていた父の胸が、ようやく深く上下する。


「……ふぅ……」


微かに息を吐き、苦悶の色が父の顔から消えた。

まだ青白いけど、さっきとは明らかに違う。わずかに安堵の影が浮かんでいる。


「……助かった……のか……」


その変化を目にして、肩の力が一気に抜けた。ずっと張り詰めていた呼吸がようやく楽になる。


「……ありがとう、セレーネさん。本当に助かりました」


真っ直ぐに礼を述べ、深く頭を下げる。


「返せるものがあれば、何でも渡したいくらいなんだけど……」


セレーネは肩を軽くすくめて、ため息混じりに言った。


「気にしなくていいわよ」


「でも……」


いつもこうだ。俺ができないことを彼女は平然とやる。しかも礼や見返りを求めたりしない。

言葉以外で何かお礼をしたかった。


俺の顔を見てそう思っているのがバレたのかもしれない。セレーネが口を開く。


「なるほどね……ねぇ、こういう解毒魔術って、もし病院でやってもらうとしたら、いくらくらいするものなの?」


俺はしばらく考え、額に手をやりながら答えた。


「……えっと。地域や施術者によるけど、大体金貨四枚……いや、五枚くらいですかね」


「ふーん……じゃあ、半分の金貨二枚でいいわよ」


あっさり言い放つセレーネに、俺は目を瞬かせた。


「……え? いや、それはちょっと安すぎるんじゃ……」


「別にそれで構わないわよ。お金が欲しいわけじゃないし?」


「安すぎるって言ったけど、そんなお金もってないから少しずつ払ってもいいかな……?」


ばつが悪そうに視線を逸らすと、セレーネは呆れたように小さく笑った。


「返す気があるなら、いつでもいいわ」


「……ありがとう、本当に」


小声で言うと、俺は切り出した。


「……あのさ。このこと、父さんには内緒にしておいてくれる?」


セレーネは片眉をわずかに上げたけど、すぐに気にした様子もなく答えた。


「別にいいけど? 言うつもりもなかったし」


その言葉に、胸にわずかな安堵が広がった。


(――前の人生じゃ、親孝行なんてろくにできなかった。

最期まで何も伝えられなかった。

今の父さんに、あの時の償いをしようなんて、それは違うって分かってる。

でも……せめて今回は、ちゃんといい息子でいたいんだ)


ふと視線を向けると、隣に銀髪の小さな少女がいた。

まだ幼い五歳くらい。潤んだ瞳でこちらを見つめている。


心配と不安、そして少しだけ安心が混ざった、静かな表情。


その小さな命が、父を支え、呼び寄せたのかもしれない。

俺はそっと拳を握り、その背中を見つめていた。


父の顔から苦悶が消えたとはいえ、まだ色は悪い。魔傷風の毒は抜けたけど、重い傷が残っている。

俺は横たわる父の胸元に手をかざし、ちらりと隣の少女を見る。

小さな肩を震わせ、父の手元から目を離せずにいるその姿は、胸を打った。


「……もう少しだけ、待っててね」


俺は父に上級の治癒魔術をかける。


傷はみるみる塞がり、やがて父は目を覚ました。


父の意識が徐々に明瞭になり、視線が静かに彷徨う。

ふと、その目が一人の少女を捉えた。


銀色の髪、緑の瞳。涙を湛えながらもまっすぐに父を見つめている。


「……あの子は……?」


問いかける父に、俺は首を振った。


「分からない。名前も、どこの子かもまだ聞いてない。父さんが……助けた子だよ」


その言葉に少女は小さく肩を震わせ、一歩また一歩とおずおず近づいてくる。


そして――震える声で口を開いた。


「……あ、あの……わたし、メレノア……です」


その名乗りは小さな声だったけど、確かにその場にいた三人の胸に届いた。


父は驚いたように少女を見て、それから柔らかく微笑んだ。


「そうか……メレノア、か。いい名前だな。ありがとう、心配してくれて」


メレノアは涙を拭わずに何度も頷いた。

いじらしくも美しい姿だった。


父の命が助かったこと、そして少女が怯えの中にも意志を持って名乗ったこと。

今はその両方が胸に深く染みていた。


俺は膝をついてメレノアと目線を合わせ、静かに問いかける。


「メレノアちゃん。君の家族のことを教えてくれる? お父さんやお母さんは今どこにいるか分かる?」


その言葉にメレノアの瞳がふるふると揺れた。


「……おとーさんは、いないの」


「え……いないって?」


セレーネが思わず問い返すと、メレノアは小さく唇を噛み、ぽつりと言った。


「わたしが、あかちゃんのときに……しんじゃったって、ママがいってた……」


最後まで言い切ると同時に涙がぽろぽろこぼれ、やがて大きな声で泣き出した。


「ふぇ、えーんっ……!」


「ごめん……ごめんね」


俺が慌てて頭を下げ、セレーネも「聞き方が悪かったわね……」と小さく呟いた。

父もまだ横になったまま、苦笑しながら「そうか……つらい話をさせちゃったな」と優しく言葉をかけた。


涙をぬぐいながらもメレノアは話を続けようとする。


「でも……ママはいるの。さっきね、ヘンな男の人と……森のほうに、ふたりで、いっちゃったの……」


「森……?」


セレーネが目を細める。俺と父も顔を見合わせた。

その表情にわずかな緊張が走る。


「父さん……ここはメレノアちゃんのそばにいてあげて。俺とセレーネさんで森を見てくる」


俺は立ち上がり、決意を宿した瞳で森の方角を見た。

セレーネも静かに頷く。


「……あの子の母親が無事ならいいけど。面倒な話にならないといいわね」


「ええ、無事だといいですね」



──────


森の中は、思っていた以上に静かだった。


鳥の声もなく、風が枝を揺らす音だけが、微かに耳に届く。

だが、その静けさの中――確かに、何かの声が聞こえた。


「……誰か、怒鳴ってる?」


セレーネが足を止めて眉をひそめた。俺も頷く。

「……あっちの方角から、何か聞こえるな」


嫌な予感が胸をざわつかせる。

俺たちは声のする方角へと駆け出した。


森に踏み入ってから半刻ほどが過ぎた頃――

低くうなるような声が耳に入った。


「チッ……なんで神の碑石の事知らねぇんだよ。ホード起こした意味がねぇじゃねぇか……」


その言葉で、俺の足が止まった。

「……ホード……? モンスターホードを起こした……?」


聞き間違いであってほしかった。だが、その声の響きには、確かな悪意と苛立ちがあった。


俺はセレーネと目を合わせると、草木の陰に身を潜めて、そっと声の主の姿を確かめようとした。


そのときだった。


「覗きとは趣味が悪いな」


唐突に――すぐ近くから別の男の声が響いた。

先ほどとはまったく違う、冷たい響きを帯びた声。


ゾクリと背筋を走る悪寒。

気づかれた。――それも、完全に。


セレーネが素早く魔力を練り始める。俺も導魔杖に手を添えた。


次の瞬間、草むらがざわりと揺れた。


森の緊張が、一気に濃くなった――。


「行こう……!」


俺たちは目を合わせて意思疎通をとり、同時に草むらから姿を現した。

薄暗い森の中、その鋭い眼差しで周囲を探るが、まだ敵の姿は見えなかった。


辺りは静寂に包まれ、わずかな風の音だけが聞こえる。


そんな中、遠くの茂みから男の声が響いた。


「……やれやれ、つまらんな」


だが、はっきりとした姿は見えず、声だけが虚しく森に響く。


近くにいた悪党の一人が、不安げに声を震わせた。


「なんであんたがここに……うわっ!」


その声に続いて、何かが振り下ろされる音が響いたが、視界の中にはまだ敵の姿は確認できなかった。


「神の碑石の場所を聞けなかった時点で、お前は用済みなんだ」


冷たい声が風に乗って聞こえるだけで、敵の姿は依然として闇に隠れている。


俺たちはさらに警戒を強め、身を潜めながら周囲の気配を探った。


煙幕が森の中に一気に広がり、視界を奪った。


「今は忙しい。また合間見えよう……」と、冷笑を含んだ声が煙の中から響く。


俺たちは煙の中で敵の気配を探したが、やがてそれは完全に消え失せた。

敵はそのまま森の闇に紛れてしまったのだ。


煙が晴れると、俺たちの目に飛び込んできたのは、凄惨な光景だった。


一本の木に手を縛られた女性の死体。長い銀色の髪が無造作に垂れ、身体には拷問の痕跡が残っている。

そしてもう一体は、頭と胴が無惨に切り離された男の死体だった。


セレーネは顔を強ばらせて静かに呟いた。

「……酷い」


俺は拳を握りしめて息を吐き、言葉を探した。

「なぜ、こんなことに……」


俺たちは重い空気の中、沈黙したままその場に立ち尽くした。




─────


村に戻ってきた俺たちは、メレノアに気づかれないように、ジェスターの家の裏手でこっそり話し合うことにした。


「多分……あの子の母親、殺されてました」


俺がそう言うと、ジェスターは辛そうに眉をひそめて俯いた。


「拷問の痕みたいなのがあって、正直……とても見せられません」


声に出すだけで胸が重くなる。ジェスターは沈黙し、考え込むように空を見つめた。


「……それで、その拷問をしたと思われるやつも、近くで死んでました。

あと……ホードは意図的に起こされたみたいです。神の碑石の場所がどうとか、そんなことを話してました」


俺の言葉を聞いたジェスターは、しばらく黙ってから、小さくうなずいた。


「……メレノアちゃんに話そう。拷問のことは……なるべくぼかして。

それに、母親らしき人とその男の顔を、本人に確認してもらわなければならない。

……俺たちにとっても、あの子にとっても辛いことだが、進まねばならない」


その重い覚悟に、俺はただ黙って頷くしかできなかった。


ジェスターは、メレノアにそっと声をかけた。


「メレノアちゃん」


「どうしたの? おじちゃん」


少しにこやかに返事をするメレノア。往復の一刻ほどの時間で、少し打ち解けたようだった。


ジェスターは目を伏せ、できるだけ優しく、静かに伝えた。


――森で、君の母親かもしれない人の亡骸を見つけたこと。

――近くに男の死体もあったこと。

――それを確認してほしいということ。


言葉は淡々としていたけれど、ジェスターの目には、涙が滲んでいた。

だけど、それよりもずっと多くの涙を、メレノアは流していた。


小さな肩を震わせながら、それでも彼女は「行く」と言ってくれた。


俺とジェスター、そしてメレノアの三人で、再び森へ向かって歩き出す。


セレーネには先に現場へ行ってもらい、拷問の痕や凄惨な光景を、できるだけ片付けてもらっていた。


現場に到着すると、メレノアは駆け寄り――


「ママっ!」


と叫びながら、亡骸にすがりついた。


だが、当然ながら返事はない。

俺には、何も言葉が出なかった。ジェスターもまた、黙って寄り添い、一緒に泣いていた。


やがて、泣き疲れたメレノアは、ジェスタの腕の中で静かに眠ってしまった。


俺たちはただ、黙ってその場にいた。


しばらくして、セレーネが口を開く。


「……あの少女の母親は、エルフだった。偶然でなければ、『神の碑石』というのもエルフに関係するものだろうな」


彼女の声は、いつもよりもずっと静かだった。


俺はそっと、メレノアの髪をかき分けて耳を見てみた。


長く、尖った耳。

そして、綺麗な銀髪。


ジェスターがぽつりと呟いた。


「……この子、父親はもう亡くなったって言ってたな。母親も、こんなとこで殺されちまって……一人ぼっちか……」


その声は、ひどく辛そうだった。


その時、メレノアがゆっくり目を開いた。


「……おじちゃん……?」


涙に濡れた瞳でジェスターを見つめると、彼にすがりついてまた泣き出した。

だが今度は、しゃくり上げるようなすすり泣きだった。


ジェスターはそっと彼女の背中に手を置き、優しい声で問いかけた。


「メレノアちゃん……身寄りは? おじいちゃんとか、おばあちゃんとか……居るかい?」


メレノアは首を横に振った。


「居ない……ずっと、ママと二人だったの……」


ジェスターはしばらく考え込んだあと、少しだけ険しい表情になったが、やがて柔らかく微笑んで、こう言った。


「うちに来るかい?」


メレノアは、何のことか分からない様子で、ぽかんとした顔をしていた。


「一緒に暮らすかい? 家族として……」


そう言われて、ようやく意味を理解したのか――

メレノアの瞳が、また潤んだ。


そして、小さく、こくんと頷いた。


その頷きは、どこか弱々しくも、確かに未来へと続く一歩だった。




森を離れる前、俺たちは遺体を放っておくわけにはいかないと話し合った。


俺が火の魔術で静かに遺体を焼いた。

炎が静かに包み込み、やがて灰となり、骨だけが残る。

俺は土魔術で壺を作り、その中へ丁寧に骨を収めた。土は優しくすべてを受け入れてくれる。せめてもの弔いだと思いながら、そっと蓋を閉じた。


メレノアはその様子をじっと見ていたが、何も言わなかった。


森を出てから、俺たちは村へと戻った。


日はまだ高かったが、空気は妙に冷たく感じた。

村の中は静かで、逃げ延びてきた人々の気配だけがわずかに残っている。


俺たちは人々を集めた。十数人ほどの顔ぶれは、疲れと不安に満ちていた。

その中心に立ち、ジェスターがゆっくりと声を発した。


「この村をどうするか……皆に選んでもらいたい。ここに残って復興を目指すか、それとも、スミカ村に移って新しく暮らすか」


誰かが言った。


「復興って言っても……家は壊れて、畑もやられて……戻せるんですか?」


ジェスターは真っすぐにその問いに答えた。


「時間はかかる。けど、諦めなければ戻せる。ただ、それが辛すぎるなら無理をするな。スミカ村なら、少しだが空き家もあるし、俺が話をつける。生活はできるはずだ」


沈黙のあと、ぽつぽつと声があがり始めた。


「俺は……スミカ村に行きたい。子どももいるし、不安だ」


「私は、ここで暮らしてきたんだ。戻したい」


人それぞれの選択があり、どれも正しかった。

ジェスターは全員の意思を尊重するように頷いた。


「決めた人から俺に伝えてくれ。物資の運搬や手配はこっちで動く。どっちを選んでも、俺たちはできる限り手を貸す」


それから俺は、少しでもこの場所で安心できるようにと、土魔術で仮設住宅を建て始めた。

壁と屋根だけの簡素な作りだったが、寒さをしのげるだけで、安心は生まれる。


ジェスターは村の倉庫を見回し、残っていた保存食や毛布を取りまとめた。


「スミカ村に戻って、備蓄を持ってくる。必要なもんが揃えば、ここで残る人の生活も多少は安定する」


その間も、メレノアはジェスターの腕の中で眠っていた。

ぴたりと身体を寄せるようにして、静かに呼吸を繰り返している。


俺たちは準備を整えたあと、スミカ村へと向かった。

帰り道、空は夕暮れから夜の帳へと変わり始めていた。


メレノアは、ジェスターにしがみつくようにして眠り続けていた。

ジェスターは、決してその腕を緩めることはなかった。


そして村の灯りが見えた頃には、もうすっかり日は落ちきっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ