第22話 神域の力
生き抜く修行の最終日。俺たちは霊峰の中腹から、さらにその上へと歩を進めていた。
凍りついた岩場を踏みしめるたびに、小さな音が雪の静寂をかき消す。空は澄み渡り、雲ひとつない晴天。冷たい風が頬を撫でるたびに、何かを乗り越えたという実感が胸に宿る。
「……頂きは、あの先で間違いありませんか?」
「ええ。あの岩棚の向こう。もう少しで見えてくるわ」
セレーネは変わらぬ調子でそう答えた。背筋は伸び、疲れた様子もない。魔物との戦いをいくつも乗り越えてきたというのに、その姿は相変わらず気品に満ちていた。
やがて、岩棚を越えた先――
白銀の霧の奥に、白衣の男の背が見えた。風に靡く外套。霊峰の冷気をまとうように、どこまでも静謐で、そして威圧感すら感じさせる。
「ライデウス様……」
俺は思わず、その名を口にしていた。
ライデウスは、こちらに振り返ることなく、ただ一言。
「――来たか」
その声に、背筋が伸びる。俺は一歩前に進み、深く頭を下げた。
「修行を、終えました。おかげさまで……生きて、戻ってこれました」
「そうか。……貴様の足で、この峰を登りきったか」
静かに振り返ったライデウスの銀の双眸が、俺の全身を見通すように見つめてくる。すべてを見られている気がして、思わず息を呑む。
「強くなったようだな」
「……はい。まだまだですが、以前よりも、確実に」
俺は背から包みを下ろし、ローブと本を取り出した。
「この二つ……遺跡の奥で見つけました。どちらも、持ち帰る価値があると判断しました。ライデウス様に、お渡しします」
革装丁の古い書物と、深青と銀のローブ。どちらも、魔力の気配を残している。ライデウス様は静かに本を手に取ると、指先をすっと表紙の上に滑らせた。
「……これは、面白い」
目を細めるその様子に、俺は改めてその知識と深さを思い知らされた。だが、次の瞬間、ローブに手を伸ばしかけたライデウスが、ふと動きを止めた。
「……いや、これは貴様が使うといい。力を感じる。おそらく貴様との相性も悪くないはずだ」
「え……いえ、しかし……」
思わず言葉を濁す。俺が使うには、あまりに格式と重厚さを備えた品だった。
「戦利品は、持ち帰った者のものだろう? それに、ローブは使われてこそ意味がある」
「……ありがとうございます。ですが、せめて何か、お返しを――」
そう口にしたとき、ライデウスはわずかに口元を緩めた。
「――では、修行初日に貴様にやったあのコート。返してもらおうか」
「……っ」
一瞬、言葉に詰まった。あの黒のコートは、ライデウスから初めて受け取ったもの。霊峰の冷気を防ぎ、共に修行を歩んできた証でもある。
けれど――
「……分かりました。お預かりしていたものを、お返しします」
俺は丁寧に、そのコートを脱いで折りたたみ、両手で差し出した。
ライデウスはそれを静かに受け取り、ふと視線を逸らして、セレーネに目をやった。
「セレーネ。どうだった? ラインハルトは」
「まあ、死にかける場面は何度かあったけど……最終的にはちゃんと乗り越えたわ。文句なし。少なくとも、私が手を出す隙はなかった」
セレーネは少し肩をすくめ、そう言ってから、わずかに笑った。
「ラインハルト、よく頑張ったと思うわよ」
「……ありがとうございます、セレーネさん、おかげさまで、何とか........」
風が静かに吹き抜ける。雲を越えた、遥かな高み――霊峰の頂きにて。
約束された修行の期間、三十日のうちの半分。十五日が、確かに過ぎていた。
ライデウスは手に取った書物のページを数枚めくり、沈黙の中で目を通していた。古代龍族語――今では解する者すら稀なその文を、まるで日常の読書のように滑らかに目で追う。
やがて、一度ページを閉じると、彼は静かに口を開いた。
「――では、次の修行だ」
その言葉はいつも通り淡々としていた。けれど、それでも胸の奥がざわつく。
次の修行。
その響きには、まだ見ぬ何かが待っている気配がある。
「次の三日間は、ただひたすらに瞑想をしろ。夕刻になったら眠れ。眠れるだけ眠れ。そして目が覚めたら、また瞑想だ。己の中にある龍の気と魔力――それを感じ、見つめ、確かめることだ」
「……分かりました」
短く返したものの、胸の内にはさまざまな思いが渦巻いていた。
――この修行で、龍の気を感じ取ることができたら。
――その先には、“龍の術”という未知の力が待っているのかもしれない。
そんな期待と高鳴りを抱えたまま、俺は新たな修行へと身を投じた。
ただ座り、ただ意識を内側に沈める。
風の音すら遠ざかり、自分という存在が、輪郭を失っていくような感覚に沈む。
静寂。沈黙。眠りと覚醒の繰り返し――
その日の夜、焚き火の炎が小さく揺れるなか、ラインハルトは黙して瞑想を続けていた。
その背を遠巻きに眺めながら、セレーネは隣に腰を下ろしているライデウスに目を向けた。
「……ねえ、あれ。あんなの、本当に意味あるの?」
低く、吐き捨てるように言う。
「三日間、座って寝て……また座って。魔物と戦わせるでもなく、山を登らせるでもなく。ただ瞑想? 正直、退屈を教えてるようにしか見えないけど」
ライデウスはすぐには答えず、少しだけ目を細めて書物を見つめた。
「……三日後には、分かる」
「ふうん」
セレーネは肩をすくめ、関心があるのかないのか、曖昧な声を漏らす。
だが、その金の瞳は、焚き火の奥に揺らめくラインハルトの背を、じっと見据えていた。
やがて、時は過ぎ――
あっという間に、三日間が過ぎていった。
――三日間の瞑想が終わった。
時間の流れが曖昧になるような静寂の中、ひたすらに意識を内に沈め続けた。眠っては目覚め、また沈み、己の中にある“何か”を見つめようとし続けた。
だが。
「……龍の気は感じれたか?」
背後から聞こえた声は、感情の色をほとんど帯びていなかった。無機質で、淡々としていて、期待も失望もそこにない。
それでも俺はすぐに答える。
「いえ、正直……あるのは分かるんです。ただ、感じるというほどには……」
悔しさが滲む。自分の中にあるものが、手の届かない霧の向こうにあるような感覚。確かに“在る”のに、掴めない。
そのとき、脇からふてぶてしい声が挟まった。
「ほら、やっぱり。意味のない修行だったんじゃない」
セレーネが半眼でライデウスを見る。声にとげはあるが、完全な批判というよりは――いつものからかいにも近い調子だった。
ライデウスは顎に手を当て、しばし考えるような仕草をした。
「……そんなにすぐには感じれぬ。感じようと思うことこそが、肝要なのだ」
その言葉に、セレーネは小さく笑った。
「……言い訳じゃない」
苦笑とも皮肉ともつかない調子でそう返す。
ライデウスは少しムッとした表情を浮かべ、わずかに眉間に皺を寄せた。
だが、それ以上セレーネに言い返すことはなく、視線を俺へと戻す。
「……ラインハルトよ」
声の調子が変わった。今度は明確に、指導者としてのそれだった。
「立て。杖を持ち、こっちに来るといい」
その言葉に、俺は反射的に立ち上がり、傍らに置いていた導魔杖を手に取った。まだ手に馴染むとは言い難いが、この杖と共に戦った日々が脳裏をよぎる。
俺は、ライデウスの元へと、歩を進めた。
ライデウスの隣に立った俺は、恐る恐る上目遣いで彼の顔を見た。とてもいかめしい顔だった。冷静で厳しい師匠の表情に、自然と身が引き締まる。ビビりながらも、次の動きをじっと待つ。
すると、ライデウスは霊峰の頂きに広がる広場の端に手をかざした。大地が震え、岩が割れ、土と石でできた巨大な巨像がゆっくりと現れた。
「セレーネよ、よく見ていろ。そして感想を言え」
セレーネは一瞬戸惑いの色を浮かべたが、淡々と口を開いた。
「立派な像ね……」
しかし、ライデウスは静かに否定した。
「像ではない。これから起こることを……だ」
俺に向き直り、声は重みを増す。
「ラインハルトよ。貴様の全ての魔力を注ぎ、全力の魔術をあの像に撃つがよい」
その言葉に、俺は一瞬考えた。思い返すのは、二度の全力魔術だ。
一度目はイーディスを守るため、魔獣に撃った炎の魔術。
二度目はスミカ村を襲った紫炎の黒龍のブレスを相殺した氷の魔術。
迷ったが、俺は炎の魔術を選んだ。敵を灰に帰したあの炎の力に全ての魔力を注ぐと決めた。
掌に魔力が渦巻き、やがて極小の太陽のような炎球が現れる。それは赤、緑、青、紫と輝きを変え、最後には純白の光となった。
しかし魔力はまだ尽きる気配を見せず、俺は限界を超えてさらに注ぎ込む。
すると純白の炎球はゆっくりと焦げつき始め、みるみるうちに漆黒の太陽へと姿を変えた。
漆黒の炎球に赤い稲妻が纏い始め、魔力の残量が底をつき始めているのを俺は感じ取った。
だが、もう止められない。
全てを注ぎ込み、魔力が空になったその瞬間、俺は巨像に向けて漆黒の炎球を叩きつけた。
炎球が巨像に触れた瞬間、凄まじい爆風が吹き荒れた。大地が震え、空気が裂けるような轟音が霊峰の頂きを揺るがす。
しかし、すぐにライデウスは手を掲げて無色透明の結界を展開し、炎球を包み込んだ。
結界は時間を止め、炎球の動きを完全に封じ込める。
宙に浮かぶ結界ごと炎球を移動させたライデウスは、静かにその場を定め、結界を解放した。
轟音とともに炎球は爆発し、辺り一帯に広大な火の海が広がる。
厚く垂れ込めていた雲は燃え上がり、煙と炎の向こうに透き通る青空が広がった。
瞬く間に空は晴れ渡り、霊峰の頂きは一面の快晴となった。
「どうだ、セレーネ」
ライデウスの問いに、セレーネはしばし無言で空を見上げていた。燃え尽きた雲の切れ間から、晴れ渡る青空が覗いている。
「……あれは、まさに神域の力。禁忌級のさらに先にある、そういう魔術だと思う」
いつもより素直で、そして褒めてくれる言葉に嘘はない。
「……最初に見たときは、魔力はそこそこあるし、魔術の精度も悪くない。まあ、人間の子にしては頑張ってる方、って思ったけど」
セレーネは視線をラインハルトに移し、ゆっくりと瞬きをする。
「……どうやら、私の見る目が少し甘かったみたい。ちゃんと“届く”場所にいるんだね。あの力が出せるなら」
その声には、驚きと同時に、ひとつの認識の更新が滲んでいた。
「……え、でも……三ヶ月くらい前にも、同じ魔術を全力で撃ったんです。そのときは、あそこまでの威力にはならなくて」
戸惑いながらそう答えると、ライデウスが静かに問いかけてくる。
「貴様は、これまでに休息を取ったことがあるか?」
「……あまり、というか……ほとんど無いです」
「ふむ……」
ライデウスは深く目を閉じ、言葉を続けた。
「力とは、万全でなければ真の威力など出せぬ。休むこともまた、修行なのだ」
その言葉を聞いて、俺は少し目を見開く。するとセレーネが口を挟むように言った。
「言ったでしょ、無茶ばっかしてたら、魔力も鈍るし、頭も回らなくなるって」
少し目を細めて俺を見つめた後、彼女はわずかに口角を上げる。
「……でもまあ、休んだらこの威力になるなら、素直に認めるしかないか。──あんた、天才だよ」
感情を抑えた声の中に、確かな評価が滲んでいた。
「力を持つことは、別にすごいことじゃない。でも、正しく使えるなら……少しだけ、誇っていいと思う」
そう言ってセレーネは背筋を伸ばし、柔らかくも厳しい視線をラインハルトに向ける。
「これから先、ちゃんと使えるかどうかは……自分次第だけどね」
ライデウスはゆっくりとラインハルトから視線を外し、ちらりと横に立つセレーネを見やった。
「……“この修行、意味あるの。だったか”?」
静かだが、じわりと重みのある声音。まるで何でもない一言のように聞こえるのに、それは確かに問い詰める色を帯びていた。
セレーネは一瞬だけぴくりと眉を動かし、曖昧に視線を逸らす。
「……うん、まあ、ちょっと言ったかもね。だって、最初はほんとに何も感じてなかったし」
ライデウスは無言のまま、ただその場に立っている。沈黙が、ゆっくりと場を満たしていく。
セレーネは小さくため息をつき、肩をすくめた。
「……悪かったって。ちゃんと見た今は、意味あったと思ってる。……というか、あったんでしょ、間違いなく」
少し頬をかくようにして、ぽつりと続ける。
「……まさかここまで力引き出されるとは、思わなかったし。ウロボロスの見立て、やっぱすごいんだね」
その声には、認めざるを得ない素直さと、少しだけ負けを認めたような悔しさが滲んでいた。
ライデウスはそこでようやくふっと表情を緩めた。
「……ならばよい」
たったそれだけを言い残し、再び視線を遠くに向ける。
セレーネは、気まずそうに髪をかきあげながら、ぼそっと呟いた。
「詰めるとこだけ容赦ないんだから……ほんと、弟子も師も厄介すぎるわ」
セレーネが軽口を叩いた……
その時だった。
天空に、重く沈むような気配が走る。空気が一瞬だけ凍りついたかのように、風すらも止まる。
「……ふむ。」
ライデウスがわずかに視線を上げたその刹那、空に一体の龍が姿を現した。
銀の鱗を纏い、尾を引くようにして旋回しながら、頂きの広場へと降下してくる。どこか焦燥を孕んだ飛行だった。
「ディファナ……? どうしたのよ、あんた」
セレーネが声を上げると、龍は滑るように地へと着地し、光の中でその姿を変えた。
次の瞬間、そこに立っていたのは、細身の銀髪の少女。蒼い鱗のような装飾が肩を覆い、膝をついて右手を胸に添えると、深々と頭を垂れた。
「――ウロボロス様!」
緊張に震える声。その瞳には、焦りと恐怖が滲んでいた。
「瘴龍が……! 瘴龍が、現れました!!」
その一言に、場の空気が一変する。
ライデウスの表情が、静かに、だが確実に厳しさを帯びていく。
「……龍種は、なんだ?」
重みのある問いかけに、少女――ディファナは肩を震わせながら答えた。
「……龍王種が、一角……水龍王、リヴァイアサンです」
名を聞いた瞬間、セレーネの目つきが鋭くなり、やがて青ざめる。
そして、ライデウスの背に、圧倒的な威圧が立ち昇った。
ディファナの報告を聞き終えると、ライデウスは空を仰ぎ見る。焦げた雲が割れ、蒼穹がその姿を現している。
その空の向こうに、かつて同胞であったものが、今や瘴気に堕ちた龍王として蠢いているのだ。
静かに、しかし確かな決意を込めて、ライデウスは呟いた。
「……我が行くしかあるまい」
その言葉に、すぐさま反応したのはセレーネだった。
「ウロボロス! 私も、お供します!」
普段の気だるげな声音が、どこか緊張を帯びていた。だがライデウスは首を横に振る。
「……よい。死にに行くようなものだぞ」
低く、重く響く言葉。その目はすでに覚悟を決めている者のものだった。
だが、セレーネは一歩前に出て、凛とした声で言い放つ。
「それでも、お供いたしましょう。私は、ウロボロスの従者なのですから」
そう言って、彼女は片膝をつき、胸に片手を添えて深々と頭を垂れる。
さきほどのディファナの礼が荒削りな誠意だったとすれば、セレーネのそれは――研ぎ澄まされた忠誠そのものだった。気品と格式、すべてが完璧だった。
その様を見て、ライデウスはほんのわずかに目を細める。
「……よい。我は負けぬ。だが――頼みがある……」
「……なんなりと」
「ラインハルトを――結界を張り守りながら、我とリヴァイアサンの闘争を見学させてやれ」
わずかに沈黙が走る。
セレーネは、もう一度だけ深く頭を垂れ、静かに応じた。
「承りました、ウロボロス……」
その声は、敬意と誓いに満ちていた。