第23話 神話vs神話
ライデウスが片手を掲げると、空間が裂けるように魔法陣が展開された。
刹那、風が逆巻き、周囲の空気が張り詰める。転移魔術――次元を超える術式が発動する。
光が彼らの視界を覆い、瞬き一つの間に、世界は変わった。
辿り着いたのは、黒々と濁る空と、瘴気に包まれた大地。
湖があったはずの場所は蒸発し、巨大なクレーターと化していた。空は重苦しく、瘴気が風に乗って渦巻いている。
黒く染まった雲の間を雷光が走る。
そしてその中心、禍々しい瘴気を放ちながら、ひときわ巨大な影が佇んでいた。
龍王種、水龍王リヴァイアサン。
かつて清らかな水を司り、海と雨を支配していた偉大なる存在。
その姿は今や醜く変容し、体表は濁った鱗と紫の亀裂に覆われている。
ライデウスは前に出て、足元に幾重もの魔法陣を浮かべた。
そこから現れたのは、空間を裂いて現れるような異形の剣。
刃は黒曜にして深淵、鍔からは霧のように黒い魔力が漏れ出す。
ただそれを握っただけで、大気が重く、空間が軋む。
ラインハルトは、かつて紫炎の黒龍を前にしたときと同じ圧を感じていた。
いや、あのとき以上だ。これは、真に“世界を裂く剣”だ――。
リヴァイアサンの金色の瞳が、ライデウスに向く。
どこか虚ろで、それでいて狂おしい執念だけを湛えたその目が、焦点を結ぶ。
「ウロ……ボロス……」
それは低く、擦れた声だった。
「ウロボロ……ス……」
まるでかつての記憶を掘り起こすように。
そして、喉の奥から瘴気が噴き上がる。
「グオオォォォォ!!!」
絶叫。
それは咆哮ではない。呪詛であり、断末魔であり、
“自分自身すら何かに壊され尽くした”ことを証明するかのような、絶望の爆発だった。
その声を聞きながら、ライデウスは低く呟く。
「哀れなり……龍王と謳われし龍王種の一角が、瘴気に堕ちるとは……」
そして、戦いが始まる。
雷鳴が響く中、剣を構えたライデウスに、リヴァイアサンが突撃する。
世界が軋む。風が引き裂かれる。
ラインハルトは、ただ呆然とそれを見ていた。
その唇から、無意識に声が漏れる。
「……ライデウス様……」
隣で結界を張るセレーネが、それを聞いていた。
彼女は結界の強度をさらに高めながら、小さく笑う。
だがその声には、震えが混じっている。
「……安心なさい。ウロボロスは……最強。誰にも……負けはしないのよ」
その言葉は、誰に向けてでもなく。
ただ、自分自身に言い聞かせるように――。
雷鳴と咆哮がぶつかり合う戦場を遠目に見ながら、結界の中にいるラインハルトは、拳を強く握っていた。
その隣で、セレーネはふと視線を落とし、ぽつりと呟く。
「……ラインハルト。龍神のなり方、知ってる?」
ラインハルトは首を横に振った。
「いえ、知らないです」
セレーネは小さく頷くと、視線を再び戦場へ向ける。
ライデウスの剣が宙を裂き、リヴァイアサンの咆哮が空気を震わせる。
「――龍神になるにはね、先代の龍神を倒さなきゃいけないのよ」
「……え?」
「ただ魔力が強いとか、血筋だとか、そういうのじゃ駄目。
たとえどんなに敬われても、強さで上回らなきゃ、その座には就けない」
セレーネの声は静かだった。だが、その響きは重かった。
「昔の龍神たちは皆、強かった。誇りも、威厳もあったわ。
でも……二百年か三百年。どれだけ頑張っても、だいたいそのくらいで代替わりしていったの」
彼女の金の瞳が、黒き剣を携えるライデウスを見つめる。
「でも……ウロボロスは違う。あの人は、千三百年よ。
この千年以上、一度も“負けなかった”。一度も“座を奪われなかった”。
戦ってきたの。あらゆる龍神候補と、化物じみた敵と、そして……世界とすら」
ラインハルトは目を見開いた。
千三百年。想像もつかない年月が、その一言に詰まっている。
「それはね、紛れもない“最強”の証よ。だから――負けるはずがないの」
セレーネはそう言いながらも、ほんの一瞬だけ、唇を噛んだ。
「……だけど、今回は違う。相手は、かつての龍王。
その上、瘴気に堕ちた最凶の龍王……。何が起きてもおかしくない」
それでも、とセレーネは言葉を強める。
「それでも、私は信じてる。あの人が倒れるところなんて、見たくないし、見たこともないから」
その声音には、揺るぎない信頼と、微かに混ざる不安。
誰よりもライデウスを見てきたからこその想いが、そこにあった。
ラインハルトは黙って頷き、その背を見つめる。
あの人は、自分の知らないほどの重さと強さを背負って、戦い続けている――。
ーーーーー
まるで世界そのものが震えているかのような轟音。
ライデウスが、わずかに唸りをあげた。
「ぬぅっ……!」
振り抜かれた剣の一閃は、リヴァイアサンの角を掠めながら、その後方の山を丸ごと削り取る。
リヴァイアサンは激昂したかのように、口を開いた。次の瞬間、禁忌級の魔力を纏った水龍を十体も創り出され、咆哮とともにライデウスめがけて放たれた。
ライデウスは異形の剣に魔力を注ぎ込み、水龍の群れに構えを取った。
刹那、水龍たちが唸りを上げながら襲いかかる。
――斬撃が走る。
目にも止まらぬ神速の剣。
一撃、二撃、三撃、四撃……十度目の斬撃が振り抜かれた瞬間、水龍たちはすべて、ライデウスの背後で爆ぜ、霧散していた。
「……魔術を、斬った……!?」
呟きにも似た驚愕が、空気を震わせる。
リヴァイアサンは畏怖とも怒気ともつかぬ声を喉奥に唸らせ、次の瞬間、その全身が蒼き光に包まれる。
――ブレスだ。
龍種にとっての必殺の一撃。空気そのものを押し返すほどの魔力圧が、場を支配する。
ライデウスは剣を構えたまま、一歩も動かない。
そして、光が放たれた。
極太の光線が、一直線にライデウスを貫かんとする。
それは、まるで天の断罪の如き一閃。
だが、ライデウスはそのブレスを正面から迎え、逆行するように歩を進めた。
光が彼の全身を焼くかのように降り注ぐ中、ライデウスの剣が微かに輝く。
その剣が、まるで空間ごとブレスを斬り裂くかのように進んでいく。
そして――リヴァイアサンの喉元まで達した瞬間、鋭く閃く一閃。
咆哮とともに、喉の肉がえぐれ、削げ落ちる。
だが、それで終わりではなかった。
傷口から瘴気が溢れ、数秒後には完全に塞がっていた。
「……再生か」
ライデウスは距離を取り、睨み合う。
その時――リヴァイアサンが再びブレスを放った。
威力は無いがタメの無い光線。
ライデウスは跳躍してこれを回避したが、その瞬間、世界が止まったかのような錯覚が訪れた。
視界が引き伸ばされ、時間が遅延する。
――直感が告げる。「これは、やばい」と。
スローモーションの世界で、リヴァイアサンの尾が、音もなく迫っていた。
次の瞬間、爆音。
ズバンッ! 轟音とともに、ライデウスの身体が弾ける。
右腕が、剣ごと吹き飛ばされていた。
「……っ!」
呆然としていると――
「ウロボロス!!!!」
隣から絶叫が響く。セレーネの声だ。
セレーネは瞳に涙を浮かべ、嗚咽をもらす。
ライデウスは顔をわずかに歪ませると、残った左手で無い右肩に手を当てた。
その掌が、ポッと緑色に淡く光る。
次の瞬間、見る間に右腕が再生される。
手を開き、閉じ、数度。
そして肩をぐるりと回し、感覚を確かめたライデウスは、再びリヴァイアサンを見据える。
その周囲に、突如、百門――いや、二百門もの魔法陣が浮かび上がった。
一瞬後、すべての魔法陣から光線が穿たれる。
まるで天が地を裁くかのような極光の嵐。
リヴァイアサンは回避する間もなく貫かれ、身体が焼け焦げる。
だが、それでもなお瘴気が包み込み、再生が始まった。
「……厄介だ。まことに厄介だ、貴様は……」
感情なき呟きが、ライデウスの口から漏れる。
爆発。
彼の足元から吹き上がった衝撃波が砂塵を巻き起こし、その姿を覆い隠す。
砂煙が収まったとき、現れたのは――
黄金のオーラを纏い、まるで剣そのものと化したようなライデウスの姿だった。
そのまま、彼は消えた。
いや、消えたように“見えた”だけだ。
実際には――目が追いついていないだけだった。
次に聞こえたのは、リヴァイアサンの絶叫。
「オオォォオオオオオオ!!!!グオオォォォォ!!!」
絶叫、そして一拍の沈黙の後、リヴァイアサンの身体が大きく痙攣する。
その瞬間、心臓部から黒紫の濁流が吹き上がるように漏れ出した。
瘴気――それは濃密で、視界を歪ませるほどの悪意を孕んでいた。
「……本当だったか。」
誰にも聞こえぬほど小さく、ライデウスが呟いた。
瘴気は、吹き出した勢いのまま空へ舞い上がり、天に裂け目を残すかのように霧散していく。
しばらくして、空気が澄み、音が戻る。あれほど濃く漂っていた瘴気の気配は、もはや微塵も感じられなかった。
その様子を見届けてから、ライデウスは静かに歩み寄り、左手を傷口に当てる。
緑の光が、彼の掌からふわりと溢れ、リヴァイアサンの胸へと染み渡る。
光は脈動しながら心臓の奥へと吸い込まれ――やがて、傷口は滑らかに再生していった。
「……あれは、治癒……? でもさっきまでは……」
セレーネの声が微かに震える。ラインハルトも、唇を噛んだまま言葉を出せずにいた。
そして――リヴァイアサンが動いた。
再生した胸を、信じられないというように前脚で触れる。
ゆっくりと瞳を開くと、そこには、かつての狂気の色はなかった。
目の奥に灯るのは、思考と、迷いと、困惑――理性だった。
「……ウロボロス……? ナゼ、我ハ、ココニ……」
その声は、かすれてはいたが、確かに“言葉”だった。
さっきまでの怒りと破壊衝動の塊とは、まるで別人のように響いた。
「瘴気は、もう消えた。今は正気に戻っている」
ライデウスのその言葉に、リヴァイアサンの瞳が大きく見開かれる。
彼の中にあった混濁が、確信とともに揺らいだ。
「……我ノ中ニ……瘴気ガ……? アレハ、夢、ナノカ……否、違ウ。確カニ、我ハ……」
リヴァイアサンはしばらく口を閉じて思索に沈み――やがて、低く呟いた。
「……声ガ、響イタ。“憎イ”ト、……ウロボロス、オマエガ……」
ライデウスは黙って頷くと、ただ一言だけ告げた。
「詳しくは、また後日聞こう」
そう言って背を向けたその姿に、セレーネもラインハルトも、言葉をかけられなかった。
「……瘴気の“根”は、奴の心臓だった」
ライデウスは呟くように言いながら、異形の剣を淡く光る魔法陣の中へと放り込む。
衣は焼け焦げ、所々に血の滲んだ布が揺れていたが、その背筋はぴんと伸び、疲労をものともしていない。
後ろから続くセレーネは、その姿を横目に見て、内心で小さく息を吐く。
(ほんと、化け物じみてるわね)
口には出さず、ただ静かに並び立つ。
沈黙を保っているラインハルトの様子も確認しつつ、セレーネは一歩前へ出て、ライデウスと肩を並べた。
「ねぇ、霊峰まで戻ろう」
「……そうだな」
ライデウスは淡々と応じた。声に無理はない。呼吸も整っており、疲労の色はあっても、それ以上の損耗は感じさせない。だがセレーネは、あえて言葉を重ねた。
「疲れた時は、早く帰って休むのが一番。……ラインハルトが気絶でもしたら、面倒だしね」
「僕ですか!?」
思わず声を上げた俺に、セレーネは軽く肩をすくめて返す。
「まあね。誰かさんが気を張りすぎて、いきなり倒れられても困るから」
「……僕、まだ普通に立ってますよ?」
「その“まだ”が危ないのよ」
そう言うと、セレーネは足元に転移陣を展開させた。淡い光の輪が幾重にも広がり、風の流れが変わる。魔力が空気の密度を変え、まるで空間そのものが膨張し始めたかのような感覚が周囲を包む。
ライデウスはその光景に目を細め、一拍の間を置いて小さく頷いた。
「……気が利くな、セレーネ」
「当然でしょ。私って、優しいんだから」
その声音はいつも通り淡々としていたが、どこか照れたようにも聞こえる。
「準備完了。乗って」
セレーネが軽く右手を掲げると、三人の足元に転移の紋が浮かび上がる。魔法陣は微かに脈打ち、まるで次の鼓動のように転移の瞬間を待っていた。
「じゃ、帰ろうか」
そう言ったセレーネの横顔は、霊峰の澄み渡る空と同じ、凛とした静けさを湛えていた。
光が弾け、三人の姿は風と共に掻き消える。
──転移先、霊峰の頂。
風の匂いが変わり、澄んだ空気とともに、見慣れた光景が広がっていく。あの修行の日々を過ごした場所。緑と岩肌、神聖な静けさに包まれた山頂。
ライデウスは深く静かに息を吐いた。
「……やはり、ここは静かだな」
それは安堵というより、戻るべき場所に立っていることへの確認のようだった。
隣に立つセレーネは、彼の横顔を一瞥すると、何も言わず空を見上げた。
霊峰の頂に吹く風は、どこまでも澄んでいた。
ほんのしばらく、三人は言葉を交わさずに空を見上げていたが、やがてライデウスが口を開いた。
「……ラインハルト、セレーネ」
その静かな呼びかけに、二人の視線が彼に向けられる。
ライデウスは、何かを思い出すように目を伏せ、小さく頷いてから言葉を続けた。
「お前たちが遺跡から持ち帰った書物には……」
ラインハルトが目を丸くし、セレーネも僅かに眉を上げる。
「瘴龍について、いくつか重要な記述があった」
そのまま、ライデウスは淡々と語り始める。
「瘴龍は、自我を失うほどの瘴気を……心臓に蓄える。
その根を潰し、瘴気が霧散した段階で再生させれば、まだ“戻れる”可能性がある。
あのリヴァイアサンの一件は、記述と完全に一致していた」
セレーネが小さく息を吐く。「なるほどね」と呟いた後、視線だけを彼に送る。
「つまり、心臓を潰してから再生させたのは――」
「龍王は殺すには惜しい……」
ライデウスは頷いた。その目には疲労が残るが、確かな光も宿っていた。
「お前たちが見つけた書だ。あれがなければ、我もあの選択はできなかっただろう。……感謝する」
その言葉に、ラインハルトは目を瞬かせてから、照れたように頭をかく。
「い、いえっ、僕は本を持ってきただけで……あとはセレーネさんがほとんど――」
「は?」
「あ、いえ、僕たちで頑張りました!」
セレーネはため息をつきながらも、否定はしなかった。
「まあ……暇潰しに見つけたものが役に立ったなら、よかったわ」
その言葉はぶっきらぼうだが、わずかに口元が緩んでいる。
その様子を見て、ライデウスもまた微かに笑んだ。
「他にも、瘴龍が“瘴気に呑まれる条件”や“理性を取り戻せる可能性”についても断片的な記述があった」
その声に、静かな熱が宿る。
希望と、確かな一歩を踏み出したという実感。
「……なら、私たちもまた行くべきね、あの遺跡」
セレーネが空を見たまま、ぽつりと呟いた。
ライデウスは肯定も否定もせず、ただ「そうだな」と小さく返す。
風が、三人の間を抜けていく。
瘴気に満ちた闇をひとつ切り裂き、新たな理解が芽吹いた瞬間だった。
少し経ったあと、ライデウスはゆっくりと踵を返し、背を向けたまま口を開いた。
「……今日は休む。貴様も、今の限界の魔術を使用したのだ。早めに休むとよい」
その声はいつものように淡々としていたが、どこか柔らかさが滲んでいた。
気遣いを言葉にするのは、彼にしては珍しいことだった。
ラインハルトは一瞬、目を瞬かせたが、返事を返すより早く、ライデウスは静かに歩き出していた。
「また翌日、修行については伝えよう……」
それだけを残して、彼の姿は頂の奥へと消えていく。
続くように、セレーネも歩き出す。
振り返りもせず、手をひらひらと振りながら一言だけ。
「おやすみ〜」
あっさりしたその調子が妙に心地よく、ラインハルトは小さく息を吐いた。
その後ろ姿を見送りながら、ようやく自分の体に異変を感じ取る。
肩が重く、腕が鉛のようにだるい。思考もどこか霞がかっていた。
「……あれ。気が張ってただけ、だったのか」
戦いの最中は感じなかった。いや、感じる余裕すらなかったのだろう。
極限の緊張と集中――そのすべてが、今になって一気に身体へとのしかかってくる。
「……はぁ、休めって言われてよかった……」
小さく呟きながら、ラインハルトはふらふらと歩き出す。
階段を降り、辿り着いたのは――温泉だった。
湯けむりが立ちこめる岩風呂。
夜の静寂の中、月明かりが水面に揺れていた。
衣を脱ぎ、湯に身を沈めた瞬間――全身がじわりと、溶けていくような心地に包まれる。
「っ、ああ……これ、染みるな……」
思わず、声が漏れた。
緊張した筋肉も、張り詰めた神経も、湯の中へと少しずつ溶けていく。
ふと、霊峰での修行の日々が頭をよぎった。
セレーネの冷ややかな視線、ライデウスの鋭い指摘、何度も繰り返した剣の素振りと魔術の制御。
そして、今日の死闘――。
「……やっぱり、俺……すごい人の弟子になったんだな……」
誰に聞かせるでもない独り言。
けれど、その声に後悔も、恐れもなかった。
しばらく湯に浸かり、体の芯まで温まってから、ようやく体を拭いて部屋へ戻る。
布団に入ると、もう何も考える余力はなかった。
「明日……どんな修行だろ……」
その呟きを最後に、ラインハルトは静かに、深く眠りへと沈んでいった。
外では風が、霊峰の頂を静かに撫でていた。