第19話 瘴龍との激闘、宿る物
焼け爛れた大地に、足を踏み入れた瞬間──空気の密度が変わった。
「っ……!」
喉奥に鉄錆のような味が広がる。目には見えない、だが確かに感じる圧力。まるで空気そのものが濁っているような、奇妙な感覚だった。
瘴気──それに犯された者はただ純粋に力を高める、同時に理性を削り取っていく。
この地を覆うそれは、まさしく瘴龍が発するものに違いなかった。
「……来る」
その一言と同時に、大地が割れるような咆哮が空を裂いた。
黒い影が、雲の切れ間から急降下してくる。
その身は鋼鉄のごとく硬質で、全身を包む鱗には淡く紫が混じっていた。
ワイバーン。瘴龍と化したその姿は、獣じみた原型をとどめながら、すでに“龍”というより“兵器”だった。
ライデウスとセレーネは、少し離れた岩場の上からこちらを見下ろしていた。セレーネは俺に目を向け、口を開きかけたが──
「手を出すな」
ライデウスの一声に、彼女は微かに眉をひそめながらも、何も言わずに従った。
俺は口の中で息を整える。
その瞬間、足元に魔法陣が浮かび上がり、次の瞬間、一本の杖が現れた。
黒銀の柄に、いくつもの魔石が埋め込まれた導魔杖。
魔力を効率よく増幅し、術者の力を倍加するために鍛えられた、“龍神の秘具”。
「使え。これはお前のために造ったものだ」
ライデウスの声が届く。
俺はすぐに杖を握り、魔力の流れを通した。
……応える。
魔石の一つひとつが微かに脈動を始め、俺の中の魔力と呼応する。
目の前の瘴龍が地を蹴った。
空を裂いて突進してくる。その巨躯に圧倒されそうになるが、俺は杖を突き出した。
魔力を一気に解放し、氷の壁を出現させる。
──しかし、その壁は瘴龍の突進であっさりと砕け散った。
「ッ……!」
間髪入れずに横へ跳躍し、地を転がって間合いを取る。
背後で岩が砕け、瘴龍の尾が空を裂いて追撃してくる。
空気が震える。
頭上からブレスの前兆──膨大な瘴気の集中。
来る。
俺は杖を両手で構え、魔力を凝縮した防壁を編み上げる。
轟音。
放たれた瘴龍のブレスは、黒紫の濁流となって大気を焼いた。
理性のない怒りが形を取ったかのような、破壊そのものの奔流。
それが俺の障壁に衝突する。
瞬間、全身が痺れるような負荷に襲われた。
重い。重すぎる。
だが、退かない。
防御魔術を重ね張りし、衝撃をそらすように細工を施す。
流れを逸らし、正面からは受けず、横へと流す。
ブレスの端が地をえぐり、岩を溶かすが、直撃は免れた。
「はぁ……ッ……!」
肩で息をしながら、俺は続けざまに雷の槍を数発、瘴龍の眼に向けて放った。
だが──通じない。
鱗が厚すぎる。表層を弾くばかりで、致命打にならない。
くそっ──!
その瞬間、瘴龍が地を蹴り、俺へ飛びかかってきた。
巨大な顎が開かれる。
飲み込まれる。
瞬時に足元を氷で滑らせ、逆方向へ跳躍。
そのまま空中で魔力を集中させ、爆裂の魔術を編む。
撃ち込む。瘴龍の口腔内へ。
爆発。
顎が爆ぜ、咆哮が濁る。
俺はその隙に距離を取り、再び杖を構えた。
魔力の消費が激しい。だが、まだいける。
瘴龍が振り向き、次なる咆哮を放つ──
その瞬間、再び瘴気を帯びたブレスが放たれる。
今度は逃げない。
俺は防御と攻撃を同時に構築し、魔力を一点集中させる。
──撃ち落とす。
瘴龍のブレスに、俺の放った魔術がぶつかり、空間が爆ぜた。
相殺。
黒と白の光が衝突し、拮抗し、そして互いに霧散する。
その爆煙の中、俺は全力で駆けた。
杖を構え、瘴龍の腹下へ滑り込む。
そこだけ鱗が薄い。
今しかない。
魔力を杖へと込め、その先端を地面に突き立てる。
すると、足元から氷が這い上がり、瘴龍の動きを止めた。
このまま──!
杖を手放し、氷の剣を魔力で生み出し、魔力を注ぐと氷の刃が、光を帯びて震える。
そして──跳躍。
俺は瘴龍の胸元へと飛び込み、鱗の隙間に剣を突き立てた。
ぶぅん──という重い手応え。
剣が深くまで入り込んだ瞬間、魔力を解放。
その瞬間、瘴龍の体内を氷の槍が貫いた。
中から凍てつく音が響き、次第に瘴龍の動きが止まる。
咆哮は途切れ、巨体が崩れ落ちた。
息を切らせながら、俺は剣を手にしたまま、膝をついた。
瘴龍は──動かない。
ほんのわずかの間、戦場に静寂が戻った。
岩場の上では、ライデウスが目を細め、静かにうなずいた。
セレーネは小さく息を吐いたが、何も言わなかった。
俺は、ようやく実感する。
──勝った、と。
「……終わった、か……」
導魔杖を拾い上げ、俺はゆっくりと立ち上がった。
焼け焦げた瘴龍の骸から、ライデウスが静かに歩み寄る。
その表情に喜怒哀楽はない。ただ淡々と、役目を果たすような動きで、瘴龍の腹部に手を添えた。
「終わったな、ラインハルト。……見事だった」
そう言うと、彼は片腕を深く瘴龍の体内へと突っ込む。生温く濡れた音が響き、血と臓物を掻き分けるようにして、やがて拳を引き抜く。
その手にあったのは──紫紺に輝く、拳大の結晶。
「……これが、龍玉」
ライデウスが掴んでいたのは、瘴龍の核とも言える結晶体だった。脈打つように鈍く輝き、瘴気が消えた今は静かに力を宿している。
セレーネが、岩陰から姿を現した。
その視線が、龍玉ではなく、俺に向けられている。
「人族の子供が、瘴龍を倒すなんてね……」
その口調は冷静だが、瞳の奥に確かに宿っているのは──驚きと、興味。
「ウロボロスが何故、お前のような子供に“教え”を授けるのか。ようやく理解できた気がするわ」
俺は、理解が追いつかないまま、呼吸を整えることに必死だった。
足元がまだふらついている。瘴龍との戦いの中で使い果たした魔力と、全身に残る火傷のような感覚が、思考を鈍らせている。
そんな俺に、ライデウスは歩み寄り、淡々と龍玉を掲げた。
「これは貴様の戦利品だ。遠慮などするな」
そう言ったその次の瞬間──
「……っ、え?」
彼のもう片方の手が、音もなく俺の胸を突き破った。
「がっ──ぁあッ!!」
全身が強制的に逆流するような衝撃。
空気を飲み込む余裕もない。肺が焼けるように痛い。何が起こったのか理解できず、ただ、視界が白く染まった。
ぐちゃり、と骨が砕ける音。心臓の奥が凍りつくような痛み。
理解が、追いつかない。
──なんで。なんで、ライデウスが……?
彼は、無言のまま龍玉をそのまま俺の胸腔へと押し込み、ぐっと拳を握った。
音もなく、龍玉が砕ける。
その瞬間、爆発的な熱と光が体内を駆け巡った。
「が……あ、あッ、が、ァ……ッッ!!」
焼かれる。中から焼き尽くされるような感覚。
魔力でも、炎でもない。もっと根源的な──命そのものを塗り替えられていくような恐怖。
どこかで誰かが叫んでいる気がした。俺自身かもしれない。分からない。
だが次の瞬間──
その熱が、急激に冷めていった。
焼けた内臓が再生し、砕けた骨が繋がり、貫かれた胸がゆっくりと、元通りになっていく。
だが、痛みはまだ脳裏に焼き付いていた。
全身に残った違和感。心臓の奥に、何か別のものが脈打っている。
息をするたび、何かが身体の奥から震えている。
これは──俺の力じゃない。
何か、異質なものが、俺の中に宿っている。
ゆっくりと目を開けると、ライデウスが静かに手を引いていた。胸元には、裂けた痕すらなく、痛みももうない。
「……人の身に、龍の力を宿すなど──正気の沙汰ではないわ」
そう言ったのは、セレーネだった。
だが、彼女の声音には非難ではなく、困惑と、好奇心が入り混じっていた。
「龍玉を“人間”に与えるなんて、聞いたことがない。……面白い」
ライデウスは、そんな彼女の言葉に応えることなく、ただ俺を見つめて言った。
「貴様は、確かにこの試練を超えた。これはその証。……誇れ、ラインハルト」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
焼け爛れた大地を、風が静かに吹き抜けていた。
瘴龍の骸は動かず、空に渦巻いていた瘴気も、いまはもう跡形もない。ただ胸の奥で、異物のように脈打つ力だけが、静かにそこにあった。
立ち尽くす俺に、ライデウスが短く告げた。
「……戻るぞ」
そう言って、彼はすぐに魔術の構築を始める。言葉も詠唱もない。ただ杖を軽く振るだけで、足元に転移魔法陣が展開された。
セレーネも無言でその円陣の中へと入っていく。俺も遅れてその中心へ足を踏み入れた。
空間が揺れる。ほんの一瞬、視界が反転したかのような感覚。
──しばらくして、俺たちは霊峰の頂にいた。
魔力の静寂が戻ったその場には、見慣れた岩場と、訓練の名残がそこかしこにあり、ここが“戻るべき場所”であることを思い出させてくれる。
だが、すべてが、以前とは少し違って見えた。
俺の身体の内側に、もはや“ただの人間”ではない何かが、確かにある。
その実感に言葉が出ないまま、ライデウスの声が背後から届いた。
「今日は……よくやった。今夜は、ゆっくり休め」
その口調は淡々としていて、どこか疲れているようにも思えた。
「明日、また来る」
それだけ言い残し、彼は魔法陣の中央へ歩を進めた。
無言のまま杖を振ると、再び魔術陣が輝き出す。
光に包まれ、ライデウスの姿は音もなく消えていった。
風が一度だけ、円陣の跡をなぞるように吹き抜ける。
──残されたのは、俺と、セレーネの二人だけだった。
山の夜は冷たい。星の明かりは薄く、風は静かで、どこか現実感が薄い。
セレーネは俺の少し後ろに立ち、何も言わずにこちらを見ていた。
その視線が、痛いくらいにまっすぐで──何かを量るような鋭さを帯びている。
俺はまだ、自分の鼓動すら制御できていなかった。
内側に宿った“龍”の気配。
それが、俺のものなのか、それとも──まだ、異物のままなのか。
言葉が、出なかった。
ただ、霊峰の夜が静かに、二人を包んでいた。
「……その錫杖」
セレーネが口を開く。ラインハルトは振り返り、静かにうなずいた。
「ライデウス様から、戦いの前に託されました」
「見てたわよ。あれを“与えた”ことが、どういう意味か――あなた、わかってる?」
ラインハルトは少しだけ目を伏せ、答えに迷う。
「……まだ、すべてを理解できているわけではありません。でも……あの方が僕に力を託してくださった。その想いには、応えたいと思っています」
セレーネは小さく笑った。冷たい風の中で、その笑みはどこか鋭い。
「ウロボロスが、誰かになにかを“与える”。それ自体が、尋常じゃないわ。龍族なら誰でも理解する。それは、“見込まれた証”。力を託すに足ると判断された、特別な存在ってことよ」
「……そんな重い意味があるんですね」
「本来、ああいう杖は“授かる”もの。手にするには、何重もの試練と、血筋と、才能と、忠誠が必要なの。あなたがそれを無条件で与えられたのは――それだけで奇跡ね」
ラインハルトは導魔杖を見つめ、指を静かに添えた。冷たく、しかし確かな温もりを宿すそれは、彼の手に自然と馴染んでいた。
「……光栄です。本当に」
「なら、ちゃんと感謝しなさい。言葉でじゃなく、力で示すの。あの人に“託してよかった”って思わせるくらいにね」
セレーネはそう言うと、ラインハルトの胸元に目をやった。そこにはまだ何かと分からない力が確かに鼓動していた。
「それに……龍玉から力を抽出して、それを人の身に宿すなんて――ウロボロス以外にはできないわよ、あんなこと」
「……危険な力ですか?」
「もちろん危険よ。しかも人間に託すなんてありえないわね。」
ラインハルトは微かに息を吐き、目を伏せた。
「……それでも、僕は使いこなしてみせます。この力を、意味のあるものに」
セレーネは静かにうなずくと、ほんの少しだけ――微笑んだように見えた。
「なら、見せてちょうだい。その覚悟の“形”を。私が、しっかり見届けてあげる」
そして、風がまた、霊峰を撫でていった。
少しの沈黙の後、セレーネが踵を返しながら、そっと言葉を落とす。
「……とはいえ、今は無理をしても仕方ないわ。まずは、明日に備えて寝ることね」
ラインハルトはその背中を見送りながら、穏やかにうなずいた。
「……はい。おやすみなさい、セレーネさん」
返事はなかったが、セレーネの歩みはどこか柔らかかった。
霊峰の静寂が、夜の帳とともに二人を包み込んでいく――。