第20話 新しい力と次の修行
ライデウスが去り、セレーネもまた静かに霊峰を後にした。
その場に残された俺は、ひとり無言のまま、山肌に刻まれた仮の住居へと戻る。
……といっても、そこに誰かがいるわけではない。ただ風の音と、山に生きる魔物の遠吠えが時折聞こえるだけだ。
俺は疲れた体を癒すため温泉に浸かる。
身体を包む温もりに目を閉じ、今日の出来事を思い返す。
(……本当に、宿ったんだな。あの瘴龍の、核が……)
胸の奥で、何かが微かに脈打つ。熱のような、圧のような。
完全に自分のものとは言い切れないそれは、肌の内側に張り付くように、じわじわと存在を主張していた。
(慣れるのに、どれだけかかるか……)
湯から上がると、俺は布団へと潜り込んだ。
だが、身体の芯から湧いてくるような熱は収まらず、浅い眠りを繰り返すばかりだった。
そして──朝。
まだ日も昇り切らぬ時間、俺は魔術で作った冷水を桶に張り、そのまま顔を突っ込んだ。
「っ、く……!」
冷たい水が一瞬で眠気を吹き飛ばす。バシャバシャと乱暴に顔を洗いながら、自分の頬を軽く叩いた。
「……よし」
息を整え、静かに目を閉じる。
意識を集中させ、魔力を纏う。
“纏っている状態”を、常に当たり前にしていくこと。それが、まず第一歩だ。
(……あれ?)
纏い始めた瞬間、違和感に気付く。
普段のそれよりも、明らかに魔力の出力が高い。より濃密で、より重く──そして、どこか野性的な“気”を孕んでいた。
(これが……龍の力……?)
俺がその変化に戸惑っていた、まさにその時だった。
「休めたか?」
空間がゆがみ、光と魔術陣が走る。
転移魔法によって現れたのは──ウロボロスの名を持つ男、ライデウスだった。
その声は変わらず無機質でありながら、どこか温かさを含んでいた。
「はい。とはいっても、あまり良くは眠れなかったですが……」
俺は素直に答えた。
「ふむ、そうか」
ライデウスは俺の様子を一瞥し、少し目を細めた。
そして、静かに告げる。
「貴様に宿ったその力は──龍の力。我らと同種の、深き力だ」
「龍の……力、ですか」
あの瘴龍との戦い。
その末に、俺の胸に埋め込まれた龍玉。それが、今なお脈動している。
「今ならば、貴様にも“龍気”が使えるだろう」
「でも……使い方を、知りません」
正直に、そう答えるしかなかった。
力はある。だが、何をどうすればいいのか、まったく見当もつかない。
「使い方、か……まずは、“感じる”ことだ」
ライデウスはそう言い、俺に向かって静かに右手をかざした。
「視ろ。己の内にある“龍”を。聴け。血を巡る鼓動の中にある、異質な流れを」
その言葉に、俺は目を閉じる。
……視えない。
けれど、確かに“ある”。
まるで異国の地に踏み込んだ時のような、言語も文化も違うのに、肌で伝わるなにか──そんな“気”が、そこにはあった。
(これが……俺の中に宿った、龍の……)
「龍の気は、身体能力に直接作用する。鍛錬すれば反応速度も、筋力も、回復力すら底上げされるだろう」
ライデウスの声が静かに重なった。
「焦る必要はない。ゆっくりと、慣れていけばいい」
「……はい」
ラインハルトが静かにうなずいた瞬間、ライデウスは一歩引いて言った。
「では、次の修行だ」
その言葉に、ラインハルトの表情が引き締まる。
「……次の修行、というと」
「この霊峰の麓で、五日間――生き抜け」
「……それだけ、ですか?」
思わず漏れた問いに、ライデウスは肩越しに振り返る。
「……生きるとは、簡単ではない。霊峰の麓は未踏の領域。獰猛な魔獣どもも徘徊している。貴様にとっては、容易な試練ではないはずだ」
ラインハルトは静かに息を呑み、そして頷いた。
「わかりました……やってみせます」
霊峰の麓へと下山していくラインハルトの背が、やがて木々の影に紛れて見えなくなった。
静寂が訪れる。
その沈黙を切り裂くように、ライデウスがふと口を開いた。
「……いつまで隠れているつもりだ、セレーネ」
岩陰がわずかに揺れ、黒衣の少女が現れる。漆黒の髪を風に揺らしながら、セレーネは少し気まずそうな顔でこちらに歩み寄ってきた。
「……バレてたのね」
「我の眼をごまかすのは、容易ではない」
ライデウスはそう言って、彼女の方を見やる。表情に変化はないが、その声にはわずかに和らいだ響きがあった。
「見届けてやれ。暇を持て余しているのならな」
何気なく投げかけられたその言葉に、セレーネのまなじりがわずかに動いた。ウロボロス――ライデウスが、わざわざそんなことを言うのは珍しい。
つまり、それだけ“彼”のことを――ラインハルトのことを、気にかけているということだ。
だがセレーネは、黙ってうなずいた。それ以上の言葉は必要ない。
「……ふうん。まあ、暇だし。ちょっとくらい付き合ってあげるわ」
その声音には、どこか気だるげで、いつも通りの調子があった。
だがライデウスの背を見送るその金の瞳には、確かに静かな決意が灯っていた。
(魔物程度なら、わたしが本気を出すまでもないしね……)
風が吹いた。霊峰の麓へ向かう一人の影を追いかけるように、漆黒の影がその場を後にした。
霊峰の麓で、一人静かに呼吸を整えながら歩いていたラインハルトは、ふと気配に気づき振り返った。
「……セレーネさん?」
驚きを隠せなかった。
「一人で生きる修行では……?」
セレーネは涼やかな声で答える。
「ウロボロスに心配だから、ついて行けって言われたのよ」
ラインハルトは戸惑いながらも、その言葉にどこかほっとした。
「ライデウス様がですか?」
「本人は直接言ってないけど、言ってるようなものよ」
セレーネの表情はいつも通りクールだが、その声にはほんの少し優しさが混じっていた。
「驚いたけど、正直嬉しいです。ありがとうございます」
俺の顔に自然と笑みが広がる。
「まあ、見守るだけよ。」
「頼もしいです」
二人は並んで歩き出した。
開けた林の中、露を帯びた草が風に揺れている。
ラインハルトは静かに呼吸を整えながら、導魔杖を軽く構えていた。隣にはセレーネ。だが彼女は木陰にもたれ、相変わらず涼しげな顔で腕を組んでいる。
と、その時だった。
獣の唸り声――地を擦るような低い咆哮が森の奥から響き、直後、一本の大木が鈍い音を立てて倒れ込んだ。
「……来たか」
ラインハルトは視線を前に向ける。現れたのは、体躯の大きな魔獣。角の折れた獣のような姿に、ただならぬ魔力の濁りを纏っている。
足元の草が枯れ、空気が緊張を帯びる。
ラインハルトは導魔杖をしっかり握りしめた。
一瞬、横目でセレーネを見る。
彼女は無表情のまま、指で黒髪の一房を弄んでいるだけで動く気配はない。
だが、その視線は確かに――こちらを見ていた。
魔獣が唸り声をあげて突進する。ラインハルトの足が自然と止まる。
(いや、でも……セレーネが動くかもしれない。ここで無理に前に出るのは……)
――その時だった。
「……あのね」
セレーネがゆっくりと首を傾け、金色の瞳で彼を射抜いた。
「何をもたもたしてるの? あんたの修行でしょ?」
「っ……!」
その言葉に、ラインハルトの心が一気に定まる。甘えも迷いも、吹き飛んだ。
「――はい!」
叫ぶと同時に地を蹴り、導魔杖に魔力を通す。杖の先端から氷の魔力が奔流のように放たれ、地面を凍てつかせる。
魔獣は怯まず突進するが、ラインハルトは一切退かない。冷気を纏った障壁を展開し、動きを止める。そして、杖を振り抜いた。
氷の杭が幾本も地面から突き上がり、魔獣の脚を貫いた。
咆哮と共に、獣は倒れ伏す。ラインハルトは慎重に距離を取り、息を整える。
静寂が戻った森で、セレーネがポツリと呟いた。
「……ま、悪くないわね。初動がちょっと鈍かったけど」
ラインハルトは汗を拭いながら笑う。
「すみません……一瞬、動くかなと思って」
「ふーん? 私がやると思ったわけ?」
「……いえ、でも、いてくださると、やっぱり心強いです」
セレーネは鼻で笑って、木の根元に腰を下ろした。
「しっかりしなさい。ウロボロスが選んだのは、そういう甘えた男じゃないんだから」
「肝に銘じます」
ラインハルトはうなずき、魔獣の死骸に視線を移す。これもまた、彼の修行の一環だ。
横でセレーネが静かに見守る中、ラインハルトは一歩ずつ、自らの力を確かなものへと変えていく。
日が沈み、森の中は漆黒の帳に包まれていく。
ラインハルトは開けた一角で風の刃を走らせ、草を刈り取り整地を済ませると、土魔術で簡素な小屋を作り上げた。天井には通気の工夫も施されており、寝泊まりには十分すぎる造りだ。
「……案外、手慣れてるのね」
セレーネが腕を組んだまま、整った小屋を眺めながら言った。
「キャンプとか、してたの?」
「いえ、あまりしたことは無いです。……ただ昔、幼なじみと遊んでた時に、急な雨に降られて。雨宿りのために、こんな家を作った時があって」
ラインハルトは少し照れたように笑う。
「それが思ったより上手くいって……それ以来、時々思い出して練習してたんです」
「……ふうん」
セレーネは興味なさそうな顔をしつつも、ほんのわずかに目を細める。その視線には、どこか優しいものが宿っていた。
小屋の裏手には、土と石で作られた簡易風呂が湯気を立てていた。火の魔術で温めた湯は、蒸気を静かに夜気へと昇らせている。
「あの……お風呂、用意できたんですけど。セレーネさんも、よかったら」
「ふふっ、気が利くじゃない」
セレーネが軽く口元を緩める。滅多に見せない柔らかな表情だった。
「先でも後でも、どちらでも大丈夫ですけど……」
「じゃあ、先にいただくわ」
そう言ってセレーネはラインハルトに一歩近づき、じっとその顔を見上げるようにして言った。
「……覗いたら、殺すわよ?」
「も、もちろん! 絶対にそんなことしません!」
ラインハルトが慌てて顔を真っ赤にして首を振ると、セレーネはほんの少し――いたずらっぽく口元を緩めて、微笑んだ。
それはあまりに自然で、どこか楽しげでもあった。
「……いい子ね」
小さくそう呟いて、セレーネは湯気の立ち上る風呂の方へと向かっていった。
その背中を見送りながら、ラインハルトはまだ少し顔の熱が引かないまま、そっと肩の力を抜いた。
蒸気が月明かりに溶けていく夜、静けさの中で、俺はもう一度だけ深く息を吸った。
――こんな風に、誰かと日常を分かち合える日が来るなんて、きっと昔の俺じゃ想像もしなかっただろう。
けれど今、確かにここにある。
この時間も、想いも、全部――俺自身の歩みに、少しずつ、変わっていく。