第18話 龍神の試練
霊峰の静寂を破るように、銀のベルの音が澄んだ空に響いた。
チリン──
その音は、まるで空気そのものを震わせるように、霊峰の隅々にまで広がっていく。
次の瞬間、霊峰の頂を囲む空気がわずかに揺らいだ。
風が止み、雲が裂ける。
目の前の空間が、ゆっくりと歪む。
まるで水面に一滴の水が落ちたように、その歪みの中心から、光が差し込んできた。
そして──
光の中から、ひとりの男が現れる。
長身で、白銀の髪を風になびかせ、瞳もまた髪色と同じ銀。
身にまとう衣は龍鱗を織り込んだような紺の法衣。背に負う剣は、抜かずとも只者ではないとわかる威圧を放っている。
彼──龍神ライデウスは、静かに岩場に降り立った。
その姿は、まさに神秘と威厳の象徴だった。
「七日……か。もう少しかかると思うたが……よく、やったな」
彼はそう言うと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その足音はほとんど音を立てず、だが確かに地を踏みしめる重さを感じさせた。
「……見ていたんですか?」
俺が問うと、ライデウスは小さく目を細め、わずかに笑みを浮かべた。
「見ていたとも。お前の敗北も、成長も、あの一太刀もな」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「……俺、勝ちました。自分の力で、魔道人形に」
拳を握りしめて告げると、ライデウスはふっと息を吐いた。
「うむ。確かに、お前の力で勝った」
「……!」
「だが──これで満足したなら、それまでだ」
一瞬、言葉に詰まる。
だがそのあとに続いた声は、かつてないほど優しく、そして静かだった。
「だが……誇れ。この七日間は、確かな足跡だ。お前が、自分の力で超えた、過去の自分だ」
ライデウスはそう言って、俺の肩に手を置く。
その手は、あたたかかった。
「よくやったな」
再びかけられたその言葉は、胸にしみるように響いた。
風が再び吹き始める。
霊峰の空に、光が差し込む。
俺は、あの七日間が無駄ではなかったことを、確かに実感していた。
そして──次の段階が、今まさに始まろうとしていた。
「では、次の修行を……む?」
ライデウスが言葉を切り、虚空に目をやる。
その瞬間、空間が軋むような音を立てた。
目には見えぬ圧力が辺りに満ち、やがて一つの魔法陣が空中に浮かび上がる。
紫紺と金で描かれた、荘厳な紋様。
ただの転移術式ではない。それは、威厳と血統の権威を象徴するような魔力の構成だった。
「……セレーネか。どうした」
重々しい声に応じるように、魔法陣の光が収束する。
そして姿を現したのは、一人の女性。
黒曜のごとき艶やかな長髪をなびかせ、夜を纏うような黒衣をまとったその姿。
片膝をつき、片手を胸に当て、礼を捧げる。
黄金の双眸が伏せられたまま、彼女は静かに告げる。
「──ウロボロス。瘴龍が再び現れた……」
その声は静かでありながら、空気を震わせるほどの存在感を持っていた。
ただの使いではない。
……いや、すぐに分かった。
その気配。体内に渦巻く気。存在の奥から滲み出る“質”──
この女もまた、龍族だ。
人間に似た姿をしていながら、その身体には龍の血が宿っている。
霊峰に漂う龍気が、彼女の存在に呼応するように微かに揺らいだ。
「瘴龍、か……」
ライデウスが低く呟く。
続いて、彼の背後に浮かび上がる別の魔法陣。
そこから抜き放たれた一振りの剣は、見る者の神経を直接刺すような気配を放っていた。
刃そのものが、世界の“理”を裂くような、異様な存在感。
(……なんだ、この剣は……?)
俺の背筋が無意識に震える。
一目で分かる。この剣は、もはや“武器”ではない。
「龍種はなんだ?」
興味を含んだ声音で、ライデウスが問いかけた。
すると、セレーネは迷いなく応じた。
「──飛龍よ」
その瞬間。
ライデウスの表情から、一気に興味の色が消えた。
「ふむ、ワイバーンか」
と、まるで飽きた玩具を手放すかのように、先ほどの剣を無造作に魔法陣へと戻す。
空間が閉じ、異様な気配もすっと消えた。
「では、セレーネ。貴様が──」
言いかけて、彼の金色の瞳がふと俺に向けられる。
静かに、けれど明確に、俺を見据えていた。
「いや……そうだな」
口元が、ゆっくりと釣り上がる。
何かを思いついたときの、愉悦に満ちた笑み。
「ラインハルトよ」
俺の名を、確かな響きで呼ぶ。
「──死ぬ覚悟はあるか?」
その言葉は、まるで試すように、深く、重く、響いてきた。
セレーネがわずかに目を見開く。
その視線が、俺とライデウスの間に注がれる。
死ぬのは怖い、でもこのまま竦んで動けないのはもっと怖かった。
胸の奥で、七日間の痛みが、剣の熱が、今も燃えている。
「……あると言えば、嘘になります……でも、やります。」
俺は、本音をもらしつつ、しかし強く答えた。
その言葉に、ライデウスの目が細められる。
満足そうな、そして少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべて、彼は言う。
「ならば──来い、ラインハルト」
ライデウスが指をひと振りすると、空間がうねり、足元に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
空間転移陣──ただの移動魔法ではない。
座標ごと転移させる高位転送陣。まさに神域の術式。
セレーネが一歩前に出て、片手を軽く掲げると、魔法陣の縁に刻まれたルーンが一斉に光を帯びる。
「……目を閉じずともよい。すぐ終わる」
ライデウスがそう言った瞬間、視界が反転した。
次の瞬間、俺たちは虚空の中を滑るように移動していた。
身体の感覚は確かにあるのに、足元の感触も、空気の流れすらも存在しない。
まるで世界の隙間を落ちていくような感覚。
感覚が宙に浮いたように失われていく中で、俺の隣にはライデウスと、漆黒の髪をたなびかせるセレーネがいた。
だが、二人ともまるで動じていない。空間を越えるこの感覚に慣れているのか、どこまでも静かで、確固たる存在感を放っていた。
やがて、そんな沈黙の中で、ライデウスの低く重厚な声が響いた。
「ラインハルト。貴様がスミカ村で相対した黒き竜……あれも、瘴龍だった」
「……!」
脳裏に蘇るのは、あのとき見上げた、紫炎を纏う黒き巨影。
目の前で崩れた家々。そして何より、死が目の前に迫ったあの絶望。
「……あれも、瘴龍……だったんですか……」
思わず呟いたその声は、自分でも驚くほど小さかった。
「驚くのも無理はない。瘴龍とは、龍気を持つ“龍種”が瘴気を纏い、変異した存在。理性を失い、目に映るすべてを敵と見なす。例え、それが同族であっても、な」
「同族すら……」
「龍は元来、理性は薄いが無意味に争う種ではない。だが瘴龍となれば話は別だ。龍の強靭な肉体と、瘴気の毒性が融合し、純粋な殺戮兵器と化す」
ライデウスの声には怒りや恐怖はなかった。ただ、静かに事実を語るような響き。
だが、それゆえに重かった。
「……そんな化け物と……俺が……」
不安が、無意識に口から漏れ出る。
確かに、七日間の修行を経て強くなったと感じている。だが、あのときスミカ村で見た黒き竜の恐怖は、そう簡単に拭えるものではなかった。
その時だった。
「だが――」
ライデウスが、俺の肩に軽く手を置く。
「瘴龍といっても、今回現れたのはワイバーン。龍種の中でも下位に属する」
その瞳は、まっすぐに俺を見据えていた。
「貴様でも、勝てぬ相手ではない。恐れは捨てろ、ラインハルト。恐れが剣を鈍らせる」
「……!」
その言葉に、胸の奥に冷たく刺さっていた棘が、少しだけ消えていく。
「お前はもう、七日前のおのれではない。その証明を──今こそする時だ」
静かに、だが力強くそう告げるライデウスの言葉に、俺は小さくうなずいた。
「……はい」
すると、隣で沈黙を保っていたセレーネが口を開いた。
その声は落ち着いていて、淡々としているが、冷たいわけではない。むしろ、感情を必要以上に交えない、極めて理性的な声音だった。
「瘴龍の正体は、龍種が瘴気に汚染され変異したもの。その瘴気は命の穢れ、魔の濁流……根源は不明だが、古くからこの世界に潜んでいたとされている」
そう語る横顔には、感情は見えない。
「理性を失い、あらゆるものに襲いかかるようになる。瘴龍が現れるたび、龍族の一部はそれを“病”のように捉え、駆逐してきた」
「……病……?」
「ええ。狂気に呑まれた同胞を、元に戻す術はない。ならば、倒すしかない」
その言葉に、冷酷さよりも哀しさを感じたのは、俺の思い違いだろうか。
「瘴龍化した時点で、もう元の龍ではない。ただの“殻”よ。中身は空虚で、暴走する本能だけが残ってる」
「……」
俺は、言葉を失った。
同族すらも喰らう存在。元に戻れない病。理解を超えた瘴気という存在。
だが――。
そんな相手を、倒せると言ってくれた者がいる。
俺ならできると、信じてくれた者がいる。
「……やります。俺、絶対に」
再び言葉を発したとき、ライデウスは目を細め、セレーネは無言のまま視線を逸らした。
そして、次の瞬間。
ふ、と空気の密度が変わった。
「着くぞ」
ライデウスの声と同時に、足元の光が収束し、視界が一気に明るくなる。
まるで霧が晴れるように、目の前の景色が開けた。
ごうっ──
熱風。焼けた大地の匂い。そして、空を裂くような、凶悪な咆哮。
俺たちは、瘴龍のいる戦場へと到達していた。