第2話 剣と魔術の世界
「旦那様、お生まれになりました! 元気な男の子です!」
「ライラ……ありがとう。本当に、よくやってくれた……!」
「ふふ……見て、あなた……こんなに元気に泣いて……。私たちの子、きっと……優しく、強く育ってくれるわ」
温かな光に包まれていた。
耳に入ってくる言葉の意味はなぜか理解できた。けれど、目に映るものすべてがぼやけている。体は動かず、口を開こうにも、声はただの赤ん坊の泣き声にしかならなかった。
(……本当に。俺……生まれ変わったのか……?)
さっきまで、俺はトラックに轢かれて死んだはずだ。
でも今、俺は誰かに抱かれ、優しく名前を呼ばれている。
「──ラインハルト。あなたの名前は、ラインハルトよ」
ライラと呼ばれたその女の人は、柔らかく微笑んでいた。
もう一人の──たぶん“父親”──の男も、涙を浮かべて赤子の俺を見つめている。
(ラインハルト……)
聞いたこともない名前だ。でも不思議としっくりくる。
それが、俺の名前なんだと、すぐに理解した。
それにしても──
あの赤髪の女は言った。
「剣と魔術の……血塗られた世界」だと。
けれど目の前にあるのは、あまりに穏やかで優しい世界だった。
赤ん坊の俺を包む布の肌触り、窓の外に見える緑の丘、風の匂い。
すべてが、現実以上に“生きている”感覚を与えてくれる。
(血塗られた?……どこがだよ)
平和で、あたたかくて、誰かが泣いて喜んでくれて。
そんな世界に、あの言葉はあまりに不釣り合いだった。
ただ静かに目を閉じる。
眠気が波のように襲ってきた。
温もりの中で、俺は生まれて初めて安堵の中に沈んでいった。
(──生まれ変わったんだ、俺は)
剣と魔術の世界、そんな世界に生きたいと思っていたんだ。
今度は本気で生きる──
***
……数日が過ぎた。
赤子の体に慣れるのは想像以上に大変だった。
泣くことしかできないのに、五感だけは妙に鋭い。
眠くもないのに目を閉じていないといけない時間が長く、精神的にはなかなかに過酷だ。
でも、そんな中でも分かったことがひとつある。
この家族は──とても、優しい。
“母親”のライラは、細い体に似合わないほどタフで明るい。
俺が少し泣くだけで飛んできて、歌を歌いながら抱きしめてくれる。
どうやらかつては冒険者だったらしく、杖の手入れをしている姿を何度か見かけた。
“父親”のジェスターは、無骨だが不器用な優しさを持った男だった。
昼間は村の見回りをしているらしく、帰ってくると決まって俺の小さな手を握って「ただいま」と言ってくれる。
それに、ファーレスというメイドの女性もいて、彼女は家事のほとんどを任されているらしい。
いつも忙しそうだけど、俺に対しては優しい笑みを忘れたことがない。
(……なんだよ、みんな普通に、あったかいじゃないか)
これが“血塗られた世界”だなんて、どう考えてもおかしい。
剣も魔術も、確かにこの家にはある。
でもそれは、かつて冒険した証であり、今を守る手段でしかないように見えた。
戦争も殺しも、この小さな村には存在しない。
風は穏やかで、鳥は鳴き、子どもたちの笑い声が窓の外から聞こえてくる。
“あなたが望んだ、剣と魔術の血塗られた世界”
そう、彼女は言った。
(それとも、これは……まだ“始まってすらない”ってことなのか?)
そんな考えがよぎったとき、不意に窓の外で小さな爆音が鳴った。
「わっ……また誰か、魔術の暴発かしら?」
「この時期は、子どもたちが初めて魔術を覚える頃ですからね。ご安心を、奥様」
ファーレスの落ち着いた声と、ライラの笑い声が聞こえる。
(魔術……)
そういえば、俺はこの世界で魔術が使えるんだろうか。
いや、それ以前に、いつになったら話せるようになるんだろう。
この世界で、俺は何を目指すべきなんだ?
……道はまだ、どこにもない。
誰かが用意したストーリーを追う必要もない。
ここは、現実だ。
俺自身の意志で、この世界を“生きていく”んだ。
それが、ラインハルトとしての、第一歩だった。
──ーそしてさらに、三年が経った。
剣と魔術もこの目で見た。ジェスターは昼間に剣を振り鍛錬をしている。
ライラは俺が怪我をした時に治癒魔術を唱えてくれる。
赤髪の女が言っていた通りの世界。
“あなたが望む、剣と魔術の血塗られた世界”──
そしてこの村は平和だ。
人々は穏やかに暮らし、争いもなく、子どもたちの笑い声が毎日聞こえる。
父さんも母さんも優しくて、俺は今、誰にも否定されずに、あたたかな時間を過ごしている。
……それなのに。
(なぜ“血塗られた世界”なんて言葉を残したんだ?)
あれは、過去の記憶か? それとも未来の予言?
何かが引っかかっている。けれど、それが何なのか、まだ俺には分からない。
そして──三歳にもなれば、親の目を盗んで家を探索することなど、造作もなくなってくる。
昼間のジェスターは、外で剣の修練に勤しんでおり、
ライラとファーレスは、近頃はふたりで食材の買い出しに出かけるのが習慣になっていた。
──これも、俺が“大人しくいい子ちゃん”を演じてきた成果だろう。
ようやく鍵を外す技術を身につけ、リビングと寝室だけだった行動範囲が、ようやく広がった。
リビングと寝室には、特に面白いものはない。せいぜい、絵本で文字の読み方を学習するくらいだった。
そんな日々に、ついに終止符を打つときが来た。
未踏の領域──その扉を、俺は今、開く。
木箱を慎重に扉の前まで運び、足場にして鍵を外す。
ドアノブに手をかけ、ぐっと力を込めて捻る。
ここまでで、すでにかなりの重労働だったが……扉の先に広がる新天地に、疲労感など一瞬で吹き飛んだ。
突き当たりには、大きくて重厚な扉がある。あれが、きっと玄関なのだろう。
その威圧感に、“まだ外には出られない”という現実を悟り、
左手にある階段へと向きを変え、一段ずつ、慎重に登っていく。
階段を登り切ると、目の前に三つの扉が現れた。
そのうち、両端の扉は閉ざされており、真ん中だけがわずかに開いていた。
吸い寄せられるように、その隙間へと足を踏み入れる。
どうやらそこは、物置部屋のようだった。
少し埃っぽいが、箱や棚に物が詰まっており、まさに探索のしがいがある空間。
綺麗に整頓された箱をひとつずつ開け、中身を確認しては丁寧に戻していく。
そうして、いくつかの箱を渡り歩いた先に──ようやく、目を引く一冊の本を見つけた。
「……魔術、教本?」
厚手の革で装丁されたその表紙は、見るからに高価で、重厚な雰囲気を漂わせていた。
おそるおそるページをめくると、そこには魔術の基礎知識や修練法が、丁寧な筆致で記されている。
文字の読みはまだ完璧ではないが……概ねの内容は理解できた。
どうやらこの世界の魔術は、大きく五つの属性に分類されるらしい。
──火。
──水。
──風。
──土。
──そして、生命の魔術。
さらに、属性の枠に収まらない派生系の魔術や、異種族に伝わる固有の魔法も存在するという。
また、それぞれの魔術には強さの段階が存在し、
初級 → 中級 → 上級 → 伝説級 → 禁忌級
と、順を追うごとに、威力も効果範囲も桁違いになっていくらしい。
ただし──例外もある。
生命魔術だけは、禁忌級の存在が確認されていないという。
伝説級ですら、“欠損した四肢を再生する”ほどの治癒力を持つ。
もしそれ以上の回復があるとするなら、それは──死者を蘇らせる、まさに神の領域なのだと、教本は語っていた。
また、魔術の発動には原則として詠唱が必要であり、魔力の総量は年齢、そして魔力の使用量とともに増加するという。
ゆえに、寿命の長い魔族は、魔術において優位に立つのだとも記されていた。
……この本のおかげで魔術を知れる。
実は、二歳半の頃。ライラに“魔術の使い方”を尋ねたことがあった。
だが、その時はうまくはぐらかされてしまった。
そんな俺が、今こうして初めて触れる“魔術”という力。
わくわくしないはずがない。
もちろん、最大限の注意は払う。
もしも手違いがあっても、被害が少なそうな水魔術を選ぶ。
そっと目を閉じ、魔術の言葉を口にする。
「滴り流れよ、水精の涙!──《アクア・ドロップ》」
心臓の奥から、血管を通って、手のひらにかけて。
熱を帯びた、何か──“力”のようなものが流れ込んでくるのを感じる。
おそらく、これが“魔力”というやつだろう。
やがて、手のひらの上に、ぽたり、ぽたりと水が浮かびはじめ、
やがて、それはひとつの球体となって静かに宙に浮かんだ。
それ以上は魔力が集まらず、魔法が完成したことを直感する。
空いている窓の方に手を向け、そっと射出する。
「──!」
水球は“バシャリ”と音を立てて飛び出し、
窓の外、地面へと落ちていき、わずかに水飛沫がはじける音が聞こえた。
……攻撃には使えそうにない。威力は、ほとんどない。
だが、それでもいい。
初めて魔術を成功させたという事実に、心が震える。
バクバクと高鳴る心臓の音が、耳の奥で響いている。
俺は今、たしかに──剣と魔法の世界で、魔法の第一歩を踏み出したのだ。
生前には無かった、未知の感覚。
心臓から、血管を伝って流れる、あたたかい“ちから”。
たしかに──これが魔力なのだと、実感する。
(これが……魔術、これが……魔力なのか……!!)
先ほど使った、水の初級魔術を思い出す。
魔力を、心臓から血管へ、そして手のひらへ──意識して流し込む。
すると、いつの間にか。
たぷ、たぷと音を立てながら、手のひらに水球が浮かび上がった。
ズキンッ──!
脳が揺れる。
まるで、頭を鈍器で殴られたかのような激痛が走る。
心臓は、不規則に跳ね、視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「う……ぐ、ぁ……!」
思わず膝をつき、地面に手をつく。
額からは冷や汗が垂れ落ち、心臓の鼓動は、もはや暴走寸前だった。
痛みに耐えながら、魔術教本に記されていた一文が、脳裏に蘇る。
──魔力切れ。
その症状は段階的に現れ、
軽度ならば頭痛や吐き気、
重症となれば気絶、
最悪の場合──死。
「っつ……これが、魔力切れ……か……?」
初級魔術の水球を、わずかにふたつ。
それだけでこの有様。
自分の魔力の少なさを、思い知る。
……もし最初から、上級魔術なんかを使っていたら。
──間違いなく、死んでいた。
寒気を覚えながら、さっき起こったことを振り返る。
水魔術を発動させたときの、あの感覚。
魔力の流れを意識し、手のひらに集め、
水球を──イメージした、ただそれだけで。
(……あれ? 俺……詠唱……してなくね?)
思い出せば、声は出していなかった。
頭の中で思い浮かべた“イメージ”だけで、魔術は発動していた。
教本には、こうあったはずだ。
──魔術の発動には、原則として詠唱が必要である。
だが、俺は。
確かに。
詠唱なしで、魔術を使えてしまった。
頭痛の残る額を押さえながら、それでも胸は高鳴っていた。
高鳴りが止まらない。
もっと試したい、知りたい、使いたい。
……とはいえ、今日はもう限界だ。
ふらつく足取りでリビングへ戻ると、すぐに鋭い睡魔が襲ってきた。
そのまま寝室のベッドに潜り込み、抗うことなく、眠りに落ちた。
***
「ルト……ハルト。夕飯が出来てるわよ。一緒にいただきましょう」
ライラの声に揺り起こされ、鼻先に漂う、食欲をそそる香り。
夕食の匂いに誘われる頃には、魔力切れによる頭痛はすっかり引いていた。
***
翌日の昼。
懲りもせず、俺はまた水魔術を使っていた。
詠唱なしで、三回、四回、五回。
台所の流し場に向かって、水球を放っても──昨日のような症状は、出ない。
(……おかしいな)
教本には、魔力は年齢と共に増え、使用量に応じて増えると書いてあったが、使用量の方は劇的な上昇量は見込めないと記されていた。
だが、今の魔力総量は倍、いや三倍にも四倍にもなっているだろう。
(あの本……結構テキトー書いてあるんじゃないか?)
疑いが湧く。
その日から、俺は家族の目を盗みながら、魔術の訓練を重ねていった。
魔術教本を読み耽り、魔力の流れをイメージし、ひたすら実験する。
そして、一ヶ月──。
分かったことがある。
まず第一に、魔術を使えば使うほど、魔力総量が増加する。
日を重ねるたびに、使える魔術の回数が増えていった。
もしかしたら成長期、いや、普通は魔術を使えないような歳だけ飛躍的に上昇する、とかかもしれない。
第二に、無詠唱で魔術を構築すれば、制御力が飛躍的に上昇する。
たとえば、詠唱で水の初級魔術を発動した場合、
手のひらに水球が現れるものの、それを射出するしかできない。
それだけだ。
だが──無詠唱なら話は違う。
水球の形を自在に変え、魔力を多く込めれば巨大化も可能だった。
指先に浮かべたり、腕や頬を伝わせたりと、まるで意思を持つかのように動かせる。
(どうして……こんなにも便利な無詠唱魔術が主流じゃないんだ?)
ふと、ひとつの仮説が浮かぶ。
──詠唱とは、“誰にでも魔術を使わせるための仕組み”なのではないか?
魔力の流れやイメージを知らずとも、定型の言葉さえ覚えれば発動できる。
それなら、教えるのも簡単だ。
だからこそ、やがてそれが「常識」として根付いていった。
「詠唱こそが魔術の絶対条件」
──そう信じられるようになったのだろう。
詠唱が当たり前とされるこの世界で。
俺は今、魔術の常識を壊しつつある。
前世で渇望していた"特別な力"がこの人生ではある。
この力を無駄にしないために、後悔しないように、俺は努力をし始めた。