第84話 剣気と龍気
ライデウスは一度、剣を引き抜いて静かに腰へ戻す。
そして、霧の中で少しだけ息を整えた二人を見渡しながら、
落ち着いた声で言葉を紡ぎ始めた。
「……さて、仕切り直して話そう。」
ライデウスの声音は低く、しかしどこか温かみを帯びていた。
その一言だけで、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「普通、一朝一夕で劇的な強さの向上など望めぬ。
だが――お前たちには“剣気”と“龍気”という、人の理を超えた二つの力が備わっている。
それらを磨き、正しく伸ばすことができれば……
短期間で圧倒的な強さを得ることも、不可能ではあるまい。」
その言葉に、俺もイーディスも自然と目を輝かせた。
ライデウスにほんの少しでも認められた気がしたからだ。
ライデウスはゆっくりとイーディスの方へと歩み寄り、
銀の瞳でまっすぐに見つめる。
「まずは……イーディス。」
「……はい。」
イーディスは息を整え、姿勢を正す。
「お前に足りぬのは、経験だ。」
「経験……ですか?」
問い返す声には、ほんの少しの戸惑いが混じる。
ライデウスは静かに頷き、指先で空をなぞるようにして言葉を続けた。
「そうだ。お前の剣気は荒々しく、純度は高いが……まだ“生きていない”。
お前は力を抑え、制御することばかりを意識している。
だが本来、剣気とは抑えるものではなく、“共に在るもの”だ。」
イーディスの瞳がわずかに揺れる。
それは、彼女自身がずっと感じていた迷いの核心を突かれた瞬間だった。
「気の流れを感じろ。荒れる気を鎮め、無駄に散らしている剣気を減らすことだ。
お前の剣気は、力強いが暴れる。
無理に押さえつければ、いずれ剣も身体も壊れる。」
ライデウスは少し間を置き、柔らかく笑う。
「理想は――寝ている時ですら剣気を纏うほどに無意識に扱うことだ。」
イーディスは思わず息を呑んだ。
その言葉が意味するのは、意識の外でも剣気を“生かす”ということ。
制御ではなく、同調。
それは剣気と己が一体となる“達人の境地”にほかならなかった。
「……寝ている時も……ですか。」
「そうだ。呼吸をするように、自然と剣気が流れている状態。
その域に至れば、お前の剣はさらに冴える。
お前の祖先もそうなっていた。」
ライデウスの瞳が一瞬、遠い昔を思い出すように細められた。
その横顔に、イーディスは息を詰めたまま、ただ見入っていた。
ライデウスはイーディスから視線を外し、
ゆっくりとこちらへと向き直った。
銀の瞳が、今度は俺をまっすぐに射抜く。
「次に――ラインハルト。」
その名を呼ばれただけで、背筋が自然と伸びた。
空気が一段と重くなり、霊峰の風が静まり返る。
「お前の“龍の気”は、まだ拙く……幼い。」
その言葉は厳しくも、どこか優しさを含んでいた。
「通常、龍の気が完全に成長しきるには――百年以上の年月を要する。
肉体と魂が馴染み、気脈が龍の循環へと至るには、それほどの時が必要なのだ。」
ライデウスの声音が、霊峰の岩壁に静かに反響する。
百年――それは人間にとって、ほぼ永遠に等しい歳月だ。
それに、俺の龍の気は生まれ持ったものではなく継承によって得たもの。
しかし彼は言葉をそこで切らなかった。
「……しかし、我の龍気をお前に浴びせ、内より活性化させれば――
その限りではない。」
その一言に、心臓が跳ねた。
胸の奥で、何かが熱く燃え上がる。
(……成長できる。俺の龍気を、もっと強くできる……!)
希望という名の光が差し込んだような気がした。
だが、その直後――ライデウスの口調が一変する。
「――だが、それには“死を超えるほどの苦痛”が付きまとう。」
空気が一瞬で凍りついた。
ライデウスの銀眼が、まるで氷のように冷たく光る。
「龍気を限界以上に活性化させるということは、すなわち“己の魂を龍へと晒す”こと。
肉体も精神も、焼かれ、砕かれ、再び形を成す。
それに耐えられぬ者は、魂ごと霧散する。」
ぞくりと背筋が震える。
まるでその言葉だけで、炎の中に放り込まれたような錯覚を覚えた。
喉が渇く。
胸が高鳴る。
恐怖と興奮が入り混じり、何も言えなくなる。
ライデウスの視線が、静かに問いかけてくる。
「……それでも、やるか?」
一瞬、心が揺れた。
死を超えるほどの苦痛――
それがどれほどのものか、想像すらできない。
けれど――
(逃げる理由は、もう無い。)
拳を握りしめ、深く息を吸い込む。
そして、迷いを断ち切るように答えた。
「……やります。今すぐにでも、お願いします!」
一切のためらいもなく、声が響く。
それを聞いたライデウスの表情がわずかに緩む。
「……ふっ。」
ほんの一瞬だけ、口元が笑みに変わった。
それは“よくぞ言った”という、誇らしげな師の顔だった。
「ならば――覚悟を決めよ。
龍の気を燃やし尽くすほどの試練、始めるとしよう。」
霊峰の風がざわめき、空が唸りを上げる。
まるで山そのものが、これから始まる儀式を察したかのようだった。
「――では、始めるぞ。」
ライデウスが一歩前へ進む。
その瞬間、霊峰の空気が震えた。
風が止み、音が消える。
ただ、龍神の気だけが世界を満たしていく。
「ハルト、待って!」
イーディスが思わず声を上げ、一歩前へ出る。
その瞳には明確な不安が宿っていた。
「死を超える苦痛」という言葉が、彼女の胸を刺して離れない。
けれど、俺は微笑んで首を振った。
「……大丈夫。イーディス。」
「でも――!」
「大丈夫だから。……信じててくれ。」
その一言で、イーディスは唇を噛み、拳を握りしめた。
もう何も言えなかった。
俺はライデウスの前に立ち、
胸に手を当てて深く息を吸う。
「――お願いします。」
ライデウスの掌が胸に触れた───瞬間。
世界が、裏返った。
金色の光が一気に吹き出し、
全身の血管が破裂するかのような衝撃が走る。
「……っがあああああああああああああああッ!!」
耳の奥で龍の咆哮のような音が響き、視界が白に染まった。
その白の中に、赤が滲む。
目から血がにじみ出し、頬を伝って滴り落ちる。
(な、んだ……これ……っ!?)
頭の奥で何かが爆ぜ、
鼓膜が焼け切れるような痛みと共に、
世界の音が遠のいていく。
鼻からは熱を帯びた血が流れ出し、
呼吸をするたび、肺の奥から鉄の味が込み上げた。
だが、それすら意識の端にしかない。
痛みと熱と轟音が、すべてを塗りつぶしていく。
自分の体がどこまで“自分”なのかすら分からなくなる。
その時、
雷鳴のような声が脳を貫いた。
「――抗え!! 抗わねば死ぬぞ、ラインハルト!!」
その一喝が、飛びかけていた意識を現実へと引き戻す。
握り潰されるような心臓の鼓動に合わせて、
龍気が暴れ狂う。
「ぐ……ああああああああああああああッ!!!」
金色の光がさらに強く燃え上がり、
今度はその光が、血を押し返すように体の中を駆け抜ける。
焼ける肉体。
爆ぜる血流。
それでも、龍気がそれを“喰い破って”進んでいく。
そして――
「うおぉぉぉ!!」
咆哮とともに光が弾け、
流れ出ていた血が一瞬にして蒸発した。
全身を覆うのは、痛みではなく圧倒的な“生”の熱。
金色の光が弾け、世界を包み込んだ。
荒れ狂っていた龍気が、やがて静かに収束していく。
焦げた空気の中、俺は膝をつき、荒い息を吐いた。
痛みは――もう、無い。
代わりに胸の奥で、金色の脈動がゆっくりと鼓動を刻んでいた。
ライデウスが近づき、俺を一瞥する。
その表情に、確かな称賛が混じっていた。
「……よくぞ、死を超えた。」
それだけを告げて、龍神は再び瞼を閉じる。
それが、この試練の成功を意味していた。
「ハルトっ!」
声と同時に、イーディスが駆け寄ってきた。
まだ手が震えている。
それでも俺の手を強く握りしめ、その温もりを確かめるように息を整えた。
「……信じてろ、って……言ったろ?」
無理やり笑みを作って言うと、イーディスは眉を寄せ、少し睨むようにして言った。
「……心配かけすぎだよ……本当に……」
そのまま顔を覗き込み――そして、息を呑む。
「……ハルト……眼が……」
「眼?」
「銀色になってる……!」
イーディスの声が、風よりも静かに響いた。
指先でそっと瞼を触れると、微かな熱が残っていた。
視界の端に、淡く光る世界の輪郭が見える。
俺の中の何かが、確かに変わったのだと――そう、分かった。




