第83話 二人の現在地
「……では、始めるか。」
ライデウスの銀眼がゆっくりと細められる。
空気が張り詰め、霊峰全体がわずかに震えた。
「まずは――お前たちの今の力を測らねばなるまい。」
その声が響くたび、足元の岩が微かに鳴る。
龍神の存在そのものが、この山の理を支配しているかのようだった。
「持てるすべての力をもって、挑んでくるがよい。」
その言葉に感情は無く、手合わせというものではもちろんなく、純粋な試しであることを理解し、俺は頷いて深く息を吸い込んだ。
「――龍気よ、呼び起これ。」
全身を巡る龍気が一気に燃え上がり、足元に圧が生まれる。
空気が唸りを上げ、金色の光が周囲を走る。
体の芯まで熱くなり、感覚が研ぎ澄まされていく感覚。
その隣で、イーディスも静かに剣を抜いた。
その瞳には、恐れの代わりに凛とした決意が宿っている。
「剣気――解放。」
薄い水色の光が一瞬にして彼女を包み込み、
足元から風が吹き上がる。
揺らめく剣気が花びらのように舞い、鋭い気流が周囲を裂いた。
ライデウスの銀眼が、わずかに見開かれる。
「……ほう。」
その表情は滅多に見せぬ驚きだった。
龍神が一瞬、沈黙し、次にイーディスへと視線を向ける。
「貴様――その力、まさか……
戦女神の血を引く者か?
それとも、権能を譲り受けし者か?」
「……権能?」
イーディスは一瞬だけ戸惑い、だが真っ直ぐに答える。
「私は……ヴァルキュリアの血を引く者です。」
ライデウスは短く「そうか」と呟き、そしてふっと笑う。
どこか懐かしむような響きがあった。
「名を聞こう。」
「イーディスです。イーディス・ユルド・ヴォン・ヴァルキュリア。」
その名が空気を震わせる。
ライデウスは目を細め、「クク」と低く鼻で笑った。
「……なるほど。面白い巡り合わせだ。」
そして、銀の髪が風に揺れる中で、
再び二人に視線を戻す。
「では――ラインハルト、イーディス。
全力で来るがよい。」
その言葉と同時に、霊峰全体の空気が唸りを上げた。
まるで山そのものが龍神の戦意に呼応しているかのように。
俺は剣を握り直し、隣のイーディスと目を合わせる。
互いに頷き――同時に、踏み込んだ。
空間を裂くような速度で間合いを詰め、剣を振り抜いた。
だが――ライデウスはそれを“見て”から動いた。
たった一度の刃の交差。
それだけで腕に鈍い衝撃が走り、全身が痺れる。
(──重い……!)
続けざまに斬りかかるが、ライデウスは一歩も動かない。
その剣が、流れるように俺の攻撃をいなし、時に弾き返す。
まるで風が意志を持って防いでいるかのようだ。
「ぬるいな。呼吸が合っていない。」
低く響く声と同時に、視界が一閃した。
避ける間もなく――衝撃が走る。
「ぐっ……!」
恐らく掌底を腹部に放たれたのであろう。
腹部と胸部に焼けるような痛み。
気づけば、俺の身体は数メートル先の岩壁へ叩きつけられていた。
石が砕け、息が詰まる。
「ハルトっ!」
イーディスの叫びが響く。
だが、俺はもう立ち上がれない。
足が、震えて言うことを聞かない。
(……速すぎる。何をされたのか、全然……分からない……)
かろうじて目を開けると、
霧の中で二人の光が交錯していた。
剣と剣、光と光がぶつかり合い、残像だけが残る。
“辛うじて見える”――けれど、何をしているのか理解できない。
俺の目にはただ、人間の限界を超えた戦いが映るだけだった。
悔しさに奥歯を噛み締め、地面の土をぐっと握りしめる。
(まだ……こんなにも……届かないのか……!)
イーディスの剣気が爆ぜ、紅い閃光が空を裂く。
だが、ライデウスは微動だにしない。
一振りでその剣圧を弾き返し、軽く受け流した。
一見すれば無造作に、だがその一撃一撃が絶対の理を持っている。
やがて、イーディスの息が荒くなっていく。
肩が上下し、足元の石が砕け、剣先がわずかに揺れた。
「……はぁっ……はぁ……っ!」
「もうよい。」
ライデウスの声が響いた瞬間、彼の剣が軽く振るわれる。
ただそれだけで、イーディスの剣気がふっと掻き消えた。
光が霧散し、彼女はその場に膝をつく。
「……くっ……!」
手が震え、呼吸が荒く、汗が額を伝う。
それでも、彼女は倒れない。
最後まで、視線だけは逸らさなかった。
一方、ライデウスは息ひとつ乱さず、
静かに剣を地面に突き立てた。
銀の髪が風に揺れ、瞳がわずかに細められる。
「……ふむ。」
ライデウスは、剣を突き立てたまましばらく沈黙していた。
風が霊峰の稜線を撫で、二人の荒い呼吸だけが響いている。
やがて、ゆっくりと銀の瞳がラインハルトへと向けられた。
「……そう悔しがる必要は無い。」
静かだが、確かな温かみを含んだ声だった。
「最後に我自らが修行をつけたのはもう一年ほど前になるか。
その間も、研鑽を積んできたのだな。
お前は確かに……強くなっている。」
その言葉に、胸の奥がふっと軽くなった気がした。
悔しさで握っていた土が指の隙間からこぼれ落ちる。
(強く、なっている……? 本当に……?)
全力を出してなお届かない。
龍神の力を前にすれば、自分などまだ地を這う虫のような存在にしか思えなかった。
けれど、ライデウスの言葉はそれでも心に火を灯す。
まるで“努力が確かに見えている”と、証明してもらえたようで。
「……ありがとうございます、ライデウス様。」
掠れた声でそう言うと、龍神はわずかに目を細めた。
「礼を言うほどのことではない。」
次に、ライデウスの視線がイーディスへと移る。
その銀眼が細められ、彼女を見据える。
「そなたの剣も見事だった。
戦女神の血を継ぐ者の名に恥じぬ力だ。」
イーディスは息を整えながら、静かに頭を下げる。
「恐縮です。」
「だが――剣気の制御がまだ甘い。
力の流れが荒れすぎている。無理に抑えようとすれば刃が鈍り、身体への負担も大きくなるだろう。」
イーディスの瞳が驚きに揺れた。
その指摘は、彼女が密かに感じていた“違和感”そのものだった。
ライデウスはふっと空を見上げ、昔を思い出すように口を開く。
「……千年前、この霊峰にひとりの女が現れた。」
声の調子が、どこか遠くを見つめるように柔らかくなる。
イーディスもラインハルトも、息を呑んで耳を傾けた。
「名を──ヴァルキュリア。
その剣は、人でありながら我と斬り結んだ。」
風が静かに吹き抜け、霊峰の空気が少しだけ暖かく感じた。
「剣の理を極めた者は数あれど……
剣のみで我に届こうとした者は、後にも先にもあの女ひとりだった。
愚直で、真っすぐで、そして……誇り高い女だった。」
銀の瞳が細められる。
ライデウスはその記憶を、まるで昨日のことのように鮮明に思い出していた。
「我らは幾度か剣を交わし、語らい、やがて互いを“友”と呼ぶようになった。
……あれほどの人間は、もう二度と現れぬと思っていたが――」
彼の視線が再びイーディスに戻る。
その銀眼が、今度はわずかに笑みを帯びる。
「まさか、その血を継ぐ者に再び会おうとはな。
剣気の奔流、気の質、そして戦意……まるであの時のヴァルキュリアを見ているようだ。」
イーディスは息を呑む。
胸の奥で、誇りと同時に重圧が膨らんでいく。
「ですが……私は、祖先のようには到底……」
「それでよい。」
ライデウスは静かに言葉を重ねた。
その声は、剣を学ぶ者すべてへの慈しみのようでもあった。
「真似をする必要など無い。
あの女は“己を極めた”からこその剣だった。
そなたもまた、“己の剣”を見つければよい。」
イーディスはその言葉に、深く頭を垂れた。
肩の力が少し抜け、息が整う。
ライデウスは小さく頷き、そしてふっと目を閉じる。
「……やはり面白い。
血というものは、時を超えてもなお、形を変えずに息づくか。」
再び目を開けたとき、その瞳にはかつての友を想う色が垣間見えた。




