第82話 霊峰
転移の光が消えると、そこは再び霊峰の頂上だった。
吹き抜ける風は冷たくも澄んでいて、どこか懐かしい。
「……戻ってきたんだね」
イーディスが小さく呟く。
その横顔には、ほんのりとした安堵と静けさがあった。
俺は深く息を吸い込み、胸の奥を満たすこの空気を味わう。
本当なら、このまま実家へ戻り、休暇をゆっくり楽しむつもりだった。
――けれど。
「……俺、少し修行するよ」
その言葉に、イーディスが驚いたように振り向いた。
「修行? まさかここで……?」
俺は霊峰の奥、神聖な光が淡く揺らめく方角を見つめる。
「ライデウス様のところで。もう少し自分の限界を越えたいんだ。」
セレーネさんが、静かにその言葉を受け止めた。
「……好きにすれば?」
イーディスは一瞬だけ迷ったように唇を噛んだが、すぐに顔を上げた。
「……私も行く。ハルトが修行するなら、私も一緒に受けたい」
「イーディス……」
「だって、今はひとりになりたくないから……」
その小さな声には、照れくささと本音が混ざっていた。
セレーネさんはそんな二人を見て、肩をすくめながらも微笑む。
「……じゃあ私も行くわ」
そう言ってセレーネさんは霊峰の奥を指し示す
「あっちから気配を感じる」
俺とイーディスは顔を見合わせ、頷き合った。
冷たい風が頬を撫で、雲の切れ間から光が差し込む。
「行こう、イーディス」
「うん」
三人の影が、白く輝く霊峰の奥へと伸びていく。
霊峰の奥へと進むにつれ、空気が張り詰めていくのが分かった。
白く霞む霧の向こう、岩壁の前に静かに座する一人の男――銀髪銀眼の龍人、ライデウスがいた。
瞑想するように目を閉じ、まるでこの山そのものと同化しているかのように静謐な気配を放っている。
俺たちはその威圧とも言える静寂に自然と足を止めた。
――やがて、風がひと筋流れ、ライデウスのまぶたがゆっくりと開く。
銀の瞳がこちらを見据えた瞬間、霊気が震える。
「……ラインハルト」
低く響く声が、山にこだまする。
そして、口の端がわずかに上がった。
「新しい定石を思いついたのだが……一局、打ってみぬか?」
その声音には、どこか楽しげな余裕があった。
俺は思わず小さく笑い、軽く頭を下げた。
「ライデウス様、一局……打ったあとに修行をつけてくださいませんか?」
ライデウスは目を細め、しばし沈黙する。
その沈黙が、まるで心の奥を覗き込まれているように感じられた。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、背を伸ばして問いかける。
「問おう、ラインハルト。
貴様は――何故にさらなる力を願う?
お前には我が一度修行をつけたのだ。人族という枠組でならかなりの強者だが?」
その声音は厳しくも静かで、嘘を許さぬ重みを持っていた。
俺は一呼吸置き、拳を握る。
「……ドワーフの里で、魔族の男と戦いました。
でも……俺は何も出来なかったんです。
敵の姿を追うことすらできなかった。
ただ無力で――悔しくて。」
拳を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だからせめて……自分の大事な人くらいは、守れるように強くなりたいんです。」
「ふむ」と言ったライデウスの瞳がわずかに細められる。
視線がイーディスへと流れた。
「……貴様も、修行を望むか?」
イーディスはその視線を真っ直ぐ受け止め、静かに頷いた。
紅の瞳には迷いがなかった。
「はい。
私も、ハルトと同じです。
大事な人を守れるくらいに――強くなりたい。」
その言葉に、ライデウスはふっと口元を綻ばせた。
「……人間というのは実に……」
ゆっくりと歩み出し、二人の前に立つ。
金の髪が光を受け、風に揺れた。
「将棋は――また次の機会に打とう。
今は、その願いに応えるとしよう。」
その瞬間、霊峰の空気が変わる。
空が微かに鳴り、足元の岩が震えた。
「……では、始めるか。」
その言葉に、俺とイーディスは同時に頷いた。
冷たい風が吹き抜け、白い霧の中で、龍神の修行が幕を開けた。




