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僕は、絵を描くことしかできないから

親愛なるアンベール・ドゥ・フェリエ中尉殿。


君の残すものの素晴らしさに、私は心を奪われた。

君の残すものの素晴らしさを、もっと知りたくなった。


君は、絵を描くことしかできないという。

ならば、私は協力しよう。

君のために、君のためのものを用意しよう。

君がいつまでも、素晴らしい画家であるために。


これを描いてくれ。

1.


 司法警察局庁舎。セルヴァンに呼ばれていた。ちょっとした騒動が起こっているらしい。

 案内されたのは資料室だった。過去の事案報告書を保管してある。警察隊本部でも保管は行っているが、司法警察局の方は、連続殺人やそれに準ずるような、重大な事案が多い。

 見せられたのは、シャルダン一家殺害事件の報告書だった。一昨年発生し、犯人は捕まって、裁判も終了している。

 資料を見ていく中で、違和感はすぐに見つかった。現場検証報告書に添付してある素描である。

「なんだ、これ?」

「これだけではない。いくつもの事件簿で、これをやられている」

 セルヴァンが苦い顔で頭を抱えた。

「論評、いや、感想か。模写までくわえるとは、熱心なファンだな」

 同じように、ダンクルベールは頭を抱えた。

 デッサンことフェリエ。死体画家と揶揄されているが、卓越した状況記録の腕前を持っている、優秀な捜査官だ。どんな酸鼻極まる現場であれ乗り込んでいって、状況を多角的に記録してくれる。

 絵を描く才能、たったそれだけを持って、あらゆる困難に立ち向かい、支えてくれる、縁の下の力持ちだった。

 その彼が残す絵に、長々とした感想が書き加えられていたのだ。

「傾向は?」

「殺しの案件だな。見つかっているだけで十一件。未だ調査中だが、もっと多いかもしれない」

「よくない傾向だ。死体を見たがっているのかもしれん。ここに出入りできる人間は、把握できているかね?」

「記録は取っているが、ほとんど右から左だよ。他部署から来ることも多い。機密文書は、また別の部屋だし」

「うちでもやられているか、確認してみよう。しかし悪趣味だ。デッサンはいやがるだろうな」

「彼の性格上、そうだろうね」

 思いついた一件。探して、手にとってみる。やはりデッサンの素描に、感想が書き連ねられていた。素晴らしい。表情がいい。もっと見たい、など。まるで芸術作品を見たような内容である。

「デッサン君のに対する、明らかな冒涜だ。私はこれほど稚拙で、下劣な行為を見たことがない」

 別件で第三監獄を訪れた際、シェラドゥルーガにもそれを見せた。これ以上ないほど、憤慨した様子を見せた。その様子に、ウトマンも険しい顔で頷いていた。

「司法警察局関係者でよろしいでしょうか?」

 ウトマンが立ち上がった。つられるように、ダンクルベールとシェラドゥルーガも立ち上がる。

「そこは決め打ちでいいだろう。資料室に自由に出入りできる人間だ」

「死体に執着がある?」

「もとからではない。デッサン君の絵で目覚めた。犯人に同意はしたくないが、彼の絵は芸術だ。素描であっても完成されているからね」

「悪感情はない。素直な感情。悪いことをやっている自覚がない」

「肯定。となれば、デッサンと面識がないことでもいいだろう。素描にも事件簿にもデッサンの名前は入れていないから、向こうからすれば、誰がこの絵を描いているかはわかっていないはずだ」

「彼をデッサン、あるいは死体画家と呼ぶのは警察隊隊員。現場にいるものは、彼がどれだけの熱量を持って職務に望んでいるかを知っている。だから、現場を知らない人間」

「肯定。先程の、我が愛しき人の分析もそうだが、ファンレターがないのもある。目覚めたのは最近だろう。今は没頭している。熱に浮かされて、作品を読み漁っている状態だ」

「模写も残している。絵の心得がある?」

「違う、正しくない。これもやはり目覚めた。絵という表現の素晴らしさに気付いた。熱中している。感謝がある。すべて、衝動的な行動だ」

「これからの行動について」

「エスカレートする可能性は大いに有り得る。題材のプレゼントだ。描いてもらいたい死体を作り上げ、それを描かせる」

「自滅的な行動も有り得るかもね。自殺。そしてそれを描かせるというのも、着地点としては考えうる」

 三人、卓の周りを回りながら。ウトマンの問いに対し、ダンクルベールとシェラドゥルーガが見解を述べていく。問いは時に的確であり、時に、意図的に的はずれである。

 これがウトマンのやり方。ダンクルベールの思考を吐き出させ、整理させる紙とペン。

「男。四十代から五十代。職務に勤勉。活動的ではない。娯楽に対する理解が少なかった。デッサンの絵でひらいた。活動は、ここ一ヶ月以内。衝動的な行動。行動がエスカレートする可能性は大いに有り得る」

「第一弾の分析としては、それでいいだろうね、我が愛しき人。公文書改ざんで罰金、重くても諭旨退職。そのあたりが落とし所だから、我々としては腑に落ちない結果に終わるだろうけれど」

「そうですね。司法警察局の内部監査室に依頼します。それでよろしいでしょうか?」

「うむ、デッサンを侮辱することは大いに許せんが、処罰は法に則って行うべきだ」

 注がれたエールビールに口を着けながら、ダンクルベールは答えた。

 絵を描くことしか才覚のない男。自分自身に対する怒りや葛藤を絵に乗せ続ける男。画家を夢見、志し、しかし家系の都合、軍属になった。そういう男。

 庁舎に戻ったとき、ひとつの部屋に寄った。その男はイーゼルの前に座り、カンバスに対して筆をとり続けていた。

 その部屋アトリエは、その男のために、特別に使わせていた。

「この間の案件のかね」

 ダンクルベールは、デッサンの隣に腰掛けながら問いかけた。デッサンは無言で頷いた。

 事件、特に殺しがひとつ片付くと、デッサンはこういうことをする。残された遺族に、絵を描いて渡すのだ。油絵、水彩画。それは存在しない風景であり、存在しない記憶だった。

 絵の中で、殺された妻は、生き生きとした表情をしていた。まだ小さい子どもを抱きかかえ、夫に寄り添い、広げられたピクニックシートの上に座って笑っていた。

「僕は、絵を描くことしかできませんから」

 決まりごとのように、デッサンはそう言った。それを聞いてから、ダンクルベールは静かに席を立った。

 死者の絵を描くこと。それはデッサンにとっての捜査であり、戦いであり、弔いであった。他の才覚があれば、ダンクルベールやウトマン、ビアトリクスのように戦えるだろう。でもそれがない。だから筆と紙だけで、彼だけの戦場に赴く。腐り果てた肉の塊であれ、切り刻まれた血の海であれ、征くことしか許されていない道に。

 あれは、そういう男なのだ。

「最近になって、何枚か盗まれてもいますな」

 何日かして、内部監査室のダンドローに呼ばれた。報告内容は、剣呑なものだった。

「やはり、すべて殺しです」

「そうですか。ちなみにですが」

 そこまで言って、ダンクルベールは身を乗り出した。

「ここにある、事件簿以外の書籍。過去の殺人事件を題材にしたもの。そういったものは、無事でしょうか?」

 その言葉に、ぴくりとダンドローが動いた。

「まだ、未確認ですな。これから調べます」

「お手数ですが、よろしくお願いいたします」

 そうやって、ダンクルベールは頭を下げた。

 デッサンの絵だけではなく、過去の判例や、殺人を題材とした画集や書籍にも、何かしらが残っているかもしれない。見聞、見識を広めようとしている。死に対するそれを広め、そしてあらためて、デッサンの絵に向き合おうとするのかもしれない。

「恐れ入りますが、フェリエ中尉とは、どのような人物なのでしょう?本官も調査の中でいくつもの事件簿を確認しておりますが、本当に見事な素描であり、心より感服している次第です」

「優秀な捜査官です。事象を多角的に、そして迅速に記録することができる。それは我々の捜査において、ほんとうに役に立つものです」

「絵を描くこと、それだけのことでですか」

「そう。それだけのことが、どれほどにありがたいか」

 言いながら、瞑目した。

「映写機というものが発明され、利用されはじめている」

「存じ上げています」

「ほんとうは、それを導入するべきでしょう。しかし現状の映写機は大きく重く、一枚の絵を投影するのにも時間がかかり、なにより高価です。デッサンはそれ以上のものを、ひとりで表現することができます」

「デッサン、と仰るのですね。彼のことを」

「ええ、そう呼んでいます。彼が士官候補だったころ、士官学校の校長であったアドルフ・コンスタンが名付けたそうです」

「まさしく、名は体を表すというものですな」

 ダンドローが膝を打った。

「あれの、絵を描くということ。絵を残すということ。それを我々は妨げてはなりません。それが彼の捜査のすべてなのです。あの素描たちはすべて、彼の推理であり、犯人に対する追求であり、犠牲者に対する哀悼なのです。これをやったやつの行いは、それをわかっていない」

「素晴らしい。まさしく、純粋な捜査官です。それを見抜いたコンスタン校長も。そしてそれを駆使することもできるダンクルベール長官も」

「恐れ入ります」

 素直に頭を下げ、席を立った。

 庁舎に戻る。執務室。無人かと思ったが、応対席に油合羽あぶらがっぱひとり、座っていた。軍帽を目深に被っており、表情は見えなかった。

「司法警察局内部監査室室長、ダンドロー」

「四十八歳。去年、総局総務課人事部からの異動。これまでの経歴は、すべて事務方だ」

「よし、追ってくれ」

 それだけ告げると、それは立ち去っていった。

 目が輝いていた。それがずっと、引っかかっていた。


2.


 状況開始。政変で追いやられた旧王朝派残党。賊に身をやつし、村ひとつ、乗っ取っているという。

 国防軍では準備が遅い。こういうとき、を開けるのは、勿論ご存知、“錠前屋じょうまえや”である。設立間もないが、荒事とあればいつだって駆り出され、十分以上の成果を上げていた。

 対象はもれなく生死問わずデッドオアアライブ。つまりは遠慮する必要なんて一切ないってわけだ。戦鎚とんかち片手に、ゴフは野蛮な笑みを浮かべていた。

「アングラード班、ガヴォディ班で東側から。俺たちが西側から侵入する。掃討クリアリングしながら、中央に追い詰めるぞ」

 小規模だが、市街戦である。銃は使いづらい。剣やら何やらで白兵戦、遭遇戦となる。肝っ玉の太さが必要となる、大変な仕事だ。まして人質となる村人も残っているだろうから、とかく神経をつかわなければ、やってられない。

 ルキエ。女だてらに肝が強く、目がいい。うち唯一の精密射撃手マークスマンであるアセルマンと組ませて、早めに高所に登らせたい。そのためにも、まずは建物ひとつ、安全を確保したいところだった。

 荷物ひとつ、同じく高所に登らせなきゃならないことだしな。

「ご存知、“錠前屋じょうまえや”のお出ましだ。邪魔するなら、こじ開けるぜっ」

 三階建てのひとつに突入した。いるのはもれなく賊のようだ。

 オーベリソンが身ひとつで五人の前に立ちはだかり、長柄の斧をぶん回した。人間の体が宙を舞う。遅れを取るものかと、ゴフも、戦鎚とんかちを振り回して駆け抜けていく。

 三階。部屋のひとつを確保した。そこにルキエとアセルマン、そして荷物ことデッサンを放り込んだ。

「顔を上げるなよ。眉間に穴が空いたって知らないからな」

「わかった、用心するよ」

 交わした言葉は、それぐらいである。

「ヘルツェンバイン子爵、シュテーグマンと知ってのことか」

 大柄な男ひとり、前に出てきた。手には、身の丈ほどのを担いでいた。

「どしょっぱなから大将のお出ましかい。一応、降伏勧告はしとくけど、どうだい?口を割らなきゃ、額が割れるぜ?」

「抜かせ、小僧。我ら代々の尚武。戦って活路を見出すのが唯一の道なりせば」

「頭蓋骨陥没っていう、名誉の死因を賜りてえってわけだな。承知仕った。相手になるぜ」

 オーベリソンとふたり、並んだ。

 向こうは北方ヴァーヌ剣術か。剣柄リカッソを握り込んで、槍のようにして突いたり、細かく振り抜いたりしてくる。閉所であることを理解した動きだ。こちらは柄の短い戦鎚とんかちと長柄の斧。上手くいなしながら、懐に入り込みたい。

 オーベリソン。斧の柄を使って、杖術のようにして応戦する。“南蛮北魔なんばんほくま”の北の魔で、あのマンディアルグ伯領を生き抜いた歴戦の猛者である。空いた膝を打ち、腹を蹴り、間合いを自在に作っていく。

 シュテーグマンが、裂帛の気合とともに大上段に構えた。必殺の一撃か。それでも。

 一気に詰め寄った。振り下ろしてくる。威圧感。

 それでも、剣身は下りてこなかった。

を振り下ろそうとすりゃ、そうなるぜ」

 悪態ひとつ。土手っ腹に戦鎚とんかちをぶち込んだ。それで、シュテーグマンの身体がくの字にひん曲がった。

 倒れた巨躯に縄が打たれていく。そこにデッサンが駆け寄って、その人相を絵に起こしていった。

「そなた、何を」

「絵を描いています。最期となるであろう、貴方の姿を」

「それが、貴族に対する行いか。それが、将に対する」

「誰であれ、人を虐げ、脅かしたその行いを、僕は許すことはできません」

 そう言って、憤然とした表情で、デッサンは一枚の絵を見せた。惚れ惚れするほどに威風堂々とした武人の顔が、そこには描かれていた。

「おさらばです」

 そう言って、デッサンはシュテーグマンに背を向けた。

「かたじけない」

 しばらくして、そう、ぽつりとこぼしていた。

 作戦は、滞りなく達成した。死んだ村人はいなかった。

「畜生」

 帰りの馬車。デッサンが、苦み走った顔で言い出した。

「何が貴族だよ。何が将だよ。人を貶め、虐げてきた分際で」

「おい、デッサン」

「聞いていただろう、ゴフ。あいつはそう言ったんだ。人のことなんてなんとも思っちゃあいないんだ、あいつらは」

 荒げていた。立ち上がってすらいた。隣りにいたアンリが怯えるほどに。

 ゴフはまず、その両肩に手を載せることからはじめた。

「よくやった」

 まずは、それだけ。それだけでも、デッサンの、瓶底眼鏡の奥に光る怒りは萎みはじめていた。

「よく耐えた。よく、それを本人に言わなかった。お前は立派な大人だ。だから今、ここで存分に吐き出せ。何たって、お前の言ってることは正しいんだからよ」

 そう言うと、デッサンの体は、わなわなと震えはじめた。そうして小さいながら、言いたかったであろうことを吐き出して、それからしゅんとしたようにして座った。

 大きな怒りを持つやつだった。人にぶつければ傷つけるほどに。それでもそれを制御できる理性がある。それを制御できなくなった時、こうなる。だからその時は、ゴフが受け止めなければならなかった。

「皆が、うらやましいよ」

 落ち込んだデッサンが、ぽつりと漏らした。

「くそったれをやっつける力がある。傷ついた人を癒す力がある。わからないことを紐解く力がある」

「俺は、お前みたいに絵を描けないよ」

「それで、いいのかな。僕にはそれしかないってのに」

「それだけあればここにいられる。長官や局長閣下は、そう判断し、そう評価している」

「うん、そうだよね。そうなんだよね」

 それきり、何も言わなくなった。

「あの」

 撤収が済み、庁舎での片付けが終わったあたり、アンリに声を掛けられた。難しい顔をしていた。

「私、デッサン中尉さまをわかってあげたいのです」

「絵を描くことしかできないやつ。それだけだよ」

「それだけで、よろしいのですか?」

「ああ。いいか悪いかは、捉え方次第だろ。俺はいい方向に捉えているだけさ。ただ、あいつ自身が、どう捉えていいかわかってない」

「私も、素晴らしいものを持っていると捉えています」

「じゃあ、目いっぱい褒めてやってくれよ。真面目にやろうとすれば、あいつのことを受け止めるのは大変だけど、相槌を打つぐらいならできるだろ?それぐらいでいいんだからさ」

「それぐらいで、いいんですね」

「はじめから、色んなことはできないからな」

 そこまで言うと、アンリの顔も明るくなった。

 帰りに、久々に月乃瀬亭に乗り込んだ。女遊びに興じているうちに発見した、ひとりでるには最適な店だった。

 頼むものはだいたい決まっている。黒曜貝の酒蒸しとフリット。今時期なら、にしんの北方ヴァーヌ風なんかもいい。みじん切りにした玉葱をまぶして、尻尾を掴み、天井を睨みながら丸呑みにするやつだ。いずれも白の辛口でいただきながら、フリットが残ったあたりでラガーに移行するのが決まりごとのようになっていた。

「考え事かい?」

「そんなとこだね。友だちが面倒なやつでさ。怒ったっきり、戻ってこれないでやんの」

「はは。そういうこともあるよね。まあ、明日になれば忘れているさ」

 気のいい主人で、ためにならない話をするのが大の得意だった。気が張ったり、頭の中が整理できないときは、ここに来ると楽になる。

 ゴフとデッサン。お互い、士官学校の落ちこぼれだった。大工の三男坊と、代々の尚武のご嫡男。乱暴者と頑固者。そんなちぐはぐな組み合わせ。

 初年度に、デッサンが悪い先輩に絡まれているのを助けたのがはじまりだったと思う。ただあのときも、デッサンは先輩たちに一歩も引かず、むしろ殴り返していた。

 コンスタン校長には、ふたりとも気に入られていた。面白い人だった。学校だというのに酒と煙草を持ち込んで、好き放題やっていた。不良たちに混じって殴り合いの喧嘩だってやるぐらい、破天荒な人だった。

 そういう人と、デッサンとふたりで一緒にいた。喧嘩して、酒盛りをして、デッサンが絵を描く様子を見て。

 ふたりで警察隊本部に入隊して、少しもしないうちに、コンスタンは亡くなった。膵臓だかの病気だったらしい。

 コンスタンは、デッサンのことをほんとうに理解していた。あの、酒に焼けたがらがら声で、歌うように言っていた。

 お前は絵を描くことしかできないんじゃない。絵を描くことしかやりたくないんだよ。だったら、わがまま貫き通しなよ。それだけで、できることって山ほどあるんだぜ。

 今でも、あいつはその言葉通り、絵を描き続けている。それでいい。あいつはあいつのやりたいことをやればいい。

 それを選んだのは、デッサン自身なのだから。

 司法警察局が預かっている資料から、デッサンの素描が盗まれたり、妙な品評が書き加えられているという話を、ダンクルベールから聞いた。まだ、本人には話していないという。

「奇妙なやつもいるもんですね」

「ほんとうにな。あたりは付けたが、今のところ動きがない」

「燻り出す。死体ひとつでっちあげて、それをデッサンに描かせる。ただ、デッサンはやりたがらない」

「やはり、そういうところはお前だな」

 ダンクルベールは嬉しそうに笑っていた。

「不謹慎だが、次があるまで待つしかないだろう」

「あいつを馬鹿にしてやがる。長官。それだけは、俺は許せないですよ」

「馬鹿にしているのではない。心酔している。ただそれが、相手を傷つける理由になると思っていない。つまりは一番厄介な相手だ」

「それでも、他から見れば、そう見える」

「仰る通り」

 書類ひとつ、渡された。確かにデッサンの素描に、熱に浮かされたようなことが、つらつらと書き連ねられていた。正直に気味が悪くなった。

「最近のあいつは、張り詰めています。やり場のない怒りみたいなもの。それが、爆発寸前です」

「お前には、そう見えるか?」

「たまにあるんです。それが他人に向くと、非常にまずい。本当に暴力的になりますので」

「今までは、お前がそれを引き受けてきた」

「そうでなけりゃ、手に負えませんから。あいつは」

 きっと、ため息が混じっていたと思う。

 翌朝、出勤してきたあたり、庁舎が騒然としていた。ひとつの部屋の前でごった返していた。

「誰かが荒らしやがったんです」

「よりによって、ここをかよ」

 思わず、口の中が苦くなった。

 デッサンのアトリエ。物置だったそこを、ダンクルベールが貸し与えていた。時間が空いたときなど、デッサンはそこで絵を描く。

 そこが、滅茶苦茶になっていた。引き裂かれたカンバスの山。塗りつぶされた絵。

 デッサンはそこで、ぽつんと突っ立っていた。

「“錠前屋じょうまえや”、全員招集」

「疑ってるんですか?俺たちを」

「疑いを晴らすためだ」

 それだけ言って、ゴフはデッサンの隣に向かった。

 デッサンは、目はしっかりしていた。震えもしていない。顔色も赤かったり青かったりもしていない。目の前にある光景が、さも当然のようにしている。

 それが、噴火直前の状態だということは、ゴフが一番知っていたことだった。

「怒りの矛先を間違えんなって話、よくしてたよな?」

「うん」

「お前が怒るべきは、あくまでこれをやったやつだ。お前自身にじゃない。それは、わかるな?」

「わかる。大丈夫だ」

「死体画家が。調子に乗っているからだよ」

 後ろから声が飛んできた。

 振り向いた。捜査二課のモーリアックとゴルチエが、へらへらと笑っていた。

「絵描きが絵を描けないんじゃあ、商売上がったりだな」

「おい、お前ら」

「お前もお前で、“錠前屋じょうまえや”だかなんだか知らないが、喧嘩しか能のないやつが威張り散らかしてよ。調子こきふたりに天罰が下ったんだ。いい気味だぜ」

 怒りが込み上げてきた。こいつらか。やったのは。

 憤然と踏み込もうとしたとき、横を何かが通り過ぎていった。それは、にやにや笑いのモーリアックの顔面に、とんでもない速さの拳をぶち込んでいた。

「デッサン、やめろ」

 抑えようとしたが、駄目だった。倒れ込もうとするモーリアックに蹴りをかまし、そうして馬乗りになって、滅茶苦茶に拳を振り下ろしていた。言葉になっていない言葉を叫びながら、ずうっとそうしていた。

「馬鹿野郎っ」

 それを、横から蹴っ飛ばした。倒れ込むデッサンを踏みつけようとしたゴルチエをぶん殴って、立ち上がろうとしたデッサンの顎に向かって拳を振り出した。それを払いのけられ、胸ぐらを掴まれた。

 頭突き。それで、離れる。もう一回、顎狙いで。

「アンリ。それと、ウトマン少佐だ。俺が全部やった」

 肩を上下させながら、それだけ言った。

 ふたりはすぐにやってきた。くわえてオーベリソンも来てくれたので、担げる分の人間を担がせて、医務室まで連れて行った。

「アルシェに、モーリアックとゴルチエを尋問させろ。損害の程度によるが、即刻、処断する」

「少佐。俺がやったんです。デッサンの野郎、俺のこと馬鹿にしやがって、それで頭にきて」

「下手な嘘を付くんじゃない」

 胸ぐらを掴まれた。おっかない目。怯んじゃあ駄目だ。

「俺です。なあ、皆。俺が全部やったの、見てただろう?俺、馬鹿で乱暴だから」

「そうか。ならまず、口を慎め。順番で確認していく。お前の順番は一番最後だ、ゴフ」

 ウトマンは、それしか言ってはくれなかった。

 モーリアックとゴルチエは、損壊には加わっていなかった。しかし隊員に対して侮辱的な行動をとったとして、減給の上、二ヶ月の謹慎。デッサンはモーリアックを怪我させたことに対し、三日間の謹慎処分。

 ゴフは、何も咎められなかった。

 帰り道。声をかけられた。振り向くと、小柄な胡麻塩頭がにこにこしていた。

「おやじさん」

「一杯、付き合ってくれませんかね?」

 頷くしか、やることはなかった。

 月乃瀬亭。めしは頼まず、酒だけにした。それもほとんど、腹には入っていかなかった。

「これは、年寄りの繰り言ですがね」

 ビゴーがそう言うとき、必ず含蓄のあることを言う。それは短い付き合いでもわかっていた。

「あんた、優しいからね。やらなくてもいいことまで、やっちまうんです」

 目を見て、そういうことを言われた。それが一番に堪えた。

「フェリエさんはね、あんたを馬鹿にされたことに怒ったんですよ」

「わかっているつもりです」

「怒らせときゃよかったんです。フェリエさんを守ろうとしたあんたを、フェリエさんは守ろうとした。いいんです。友だちのために怒ってるんですから、それでいい」

 レイニーマンの十二年。付き合いで、同じものを飲んでいた。強く、甘みのある味。

「あいつは、怒ったら止まらない。手加減を知らない。自分も相手も血まみれになるまでやっちまう」

「だから、怒り方を覚えさせましょう。そのためには、抑えつけないこと。大きなものでも小さなものでも、怒らせるんです。あんたが宥めるのは、怒ってからでも遅くないから」

 そう言って、少しだけ恥ずかしそうに、ビゴーは笑っていた。

 三日後、デッサンが復帰した。見た感じは、いつも通りだった。

「何してたよ?」

「子どもと遊んで、絵を描いてた」

「リフレッシュできたか?」

「うん」

「じゃあ、それで終わりだ」

 拳を突き出す。それに、デッサンは応えてくれた。

「早速、仕事だ。今朝、死体ひとつ上がったらしい」

「わかった。行こう」

 ひとことだけ。それで、デッサンは仕事道具を持って駆け出していった。ゴフはその姿に、頼もしさを覚えていた。


3.


 雨の通り外れ。排水溝に女ひとり、詰め込まれていた。喉には馬上刀サーベルが突き刺さっていた。

 何より、握っていた手紙だった。

「ラブレターとプレゼントの両方ってわけか」

 それを見たウトマンは、思わず毒づいていた。隣りにいたダンクルベールは、天を仰いでいた。

 ご指名を食らったデッサンは、戦慄わなないていた。震え、罵倒し、それでも筆を執り続けていた。

「これをやったやつは、アトリエを壊したやつだ」

 ぽつりと、デッサンがこぼした。雨音に紛れるぐらいに小さかったはずだ。だが、確かにそれは、ウトマンにも聞こえるぐらいだった。

 ダンクルベールを見る。瞳の青が、深まっている。

「僕の絵を知っている。そして、アトリエで描いているような絵が気に食わない。だから壊した。僕に、死体の絵だけを描いて欲しがっている」

 駆け出していた。ダンクルベールとふたり。そうやって、歯を食いしばりながら絵を描くデッサンの隣に並んだ。

 あのデッサンが、見立てをしていた。

「デッサン、死体画家。僕はそう呼ばれている。どこからか、それを見つけ出した。現場検証報告書。そうだ、過去の事件簿だ。だから、司法警察局か警察隊本部の人間」

「いいぞ、デッサン。吐き出していけ。絵でも、言葉でもいい。思いついたことを出力しなさい」

「女性の死体。死んだ女性。なんで狙った?弱者?それとも美意識?」

「執着というのはどうだろう、デッサン。もとより女性の美に対して敏感だった。それが、お前の絵を見たことで変質した」

「違う、正しくない。構図。そうだ、構図だ。押し込められた死体です、ウトマン少佐殿。それが見たかった。平行線と異物です。それは過去の素描にはなかった。定規を使わせたいんです。直線。新鮮な要素として」

 湧き出てくる。アイデア。ひとつひとつ、噛みしめるように。急かしてはいけない。ゆっくりと、表現させなければ。

 才能が萌芽しかけている。デッサンが、絵ではないものを描きつつある。

「排水溝。小柄か細身。そうなると、女性。もしくは子ども」

 そこで、ウトマンははっとした。

「デッサン、そこまで。そこまででいい」

「女性か、子ども。子どもだ。次は、子ども。ああ」

 そこまでで、デッサンはかがみ込んでしまった。そうして顔を両手で押さえて、嗚咽してしまった。

「マルク。マルクが死んじゃうよお」

 それを見て、ウトマンはを噛んでいた。

 何人かで、これを見たことがあった。高い感受性。共感する力。それが、自分に向く。自分に当てはめてしまう。そうすれば最後、精神に変調をきたしてしまう。

 自分の思い描いたものに怯え、溺れてしまう。

「立て、デッサン。マルクは無事だ。マルクもペラジーも、お前の家にいる。ミレーヌさんがいる。だから大丈夫だ」

「助けて下さい、長官。あいつが、あいつが僕のマルクとペラジーを。そして愛するミレーヌ」

「大丈夫だ。守ってみせる。だから、戻ってこい、デッサン。絵を描くんだ。いつも通り、いつも通りだ」

「あいつが来るよ。あいつは、僕の家族を、題材にする気なんだ。助けて、少佐殿。ああ、ウトマン少佐殿。僕は」

「フェリエ中尉。姿勢、正せ」

 怒声。ゴフの声だった。

「指導一回、用意」

「ゴフ、助けてくれ。こいつは、僕を狙ってるんだ。僕の家族を」

「指導っ」

 本気の拳だった。デッサンの瓶底眼鏡が吹っ飛ぶほどに。

「馬鹿やってんじゃねえ。折角いい線いってたのによ。お前の名推理、全部台無しになっちまったじゃねえか」

「ゴフ、やめなさい。デッサンは、感情が先に出てしまっている」

「ほら、描けよ。そして思いついたまんま、口に出せよ。お前は今、絵を描く事以外のことができかけてたんだからよ」

 ゴフは声を荒げながら、地面に這いつくばったデッサンの襟首を掴んで、無理くりに立ち上がらせた。そうして散らばった筆や紙を拾って、デッサンに叩きつけた。

「僕の家族がどうなってもいいってのかよっ」

 今度殴りかかったのは、デッサンだった。

 そこからはもう、止まらなかった。ふたり、一歩も引かずに殴り合っていた。顔が腫れ、切れた唇から血を流しても倒れず、罵りあい、ぶつかりあっていた。

 オーべリソンとダンクルベールのふたりで割って入って、思いっきりぶん殴った。それでようやく収まったほどだった。

「まったく、何をやっているんだか」

 収拾がついたあたり、ダンクルベールとふたり、馬車に乗り込んだ。ダンクルベールも随分、困憊した様子だった。

「デッサンが、ひらきかけた」

 深い声と青い瞳で、ダンクルベールがそう言った。それを思い出して、ウトマンも身を乗り出していた。

「でも、あれは危険です。自己を投影してしまいました。感受性が豊かだからこそ、ああなってしまう」

「それでも、どこか理論立っていた。心が平静な時に、あれができれば」

「忘れましょう、長官。デッサンに負担を強いてしまう。あれはきっと、長官のそれより強力で、そして危険です」

「表現、いや、絵画そのものだ。枠組みを描き、輪郭を浮き出させ、それに色を乗せる。構図にたどり着いたのが、まさしくそれだ」

 そこまで言って、ダンクルベールは雨に濡れた額を押さえた。

「あれが、ただの感情の発露であるはずがない」

 それは、ウトマンも同じ意見だった。

 はじめて見るものだった。ダンクルベールのものとはまた違う。もっとプリミティブなもの。デッサンだけの、見立て。

 あれが確立すれば、デッサンは警察隊の最終兵器になれる。

 だが一方で、あれはもう、おそらく見ることができないだろう。それも、ウトマンは直感としてあった。爆発した感情と死体。それが組み合うことがなければ、あれは起こり得ない。

 今後、デッサンは、心の何処かを押し殺して絵を描くはずだ。絵に激情が乗るとしても、その余剰が見立てとして発露することはきっとない。

 あの時、見てしまったのだ。襲われ、殺される家族の姿を。それはきっと、デッサンにとっては恐怖になるだろう。

 庁舎に戻ってから、あらためてふたり、冷静になって見立てをやっていくことにした。

「あの馬上刀サーベルは、将校用のもの。刃物は持ち主の身分を表す」

「わざとやった。見つけてほしいという欲がある。デッサンに会いたがっている」

「アトリエを荒らしたのは、やはり死体画家としてのデッサンに惚れ込んでいるから?」

「それでいいだろうな。小さな失望だ。お前の魅力は死体を描くことにあるいう、メッセージだ」

「デッサンに会いたがる。となれば、次はデッサンの家族を狙うかもしれない」

「有り得る話ではある。デッサンが見てしまったものがなら、次の狙いはマルクやペラジー、ミレーヌさんなど、デッサンの家族になる」

 そこで、ダンクルベールが二度ほど手を叩いた。少しもしないうちに、ひとり入ってきた。油合羽あぶらがっぱを羽織った軍警の格好をしているが、誰かはすぐにわかった。

「どこまで掴んだ?」

「アトリエ荒らしと殺しは見た。それに、馬上刀サーベルを買い直しているのも」

「排水溝に押し込めたのは?」

「確認済」

「よし、目撃情報として上げておいてくれ。令状を用意している間、デッサンを守る必要がある」

「自分で守らせましょう、長官。恐怖を克服させる。デッサンは今、見えてしまったものに怯えてしまっています」

 ウトマンの言葉に、ダンクルベールはいくらかの迷いを見せた。そうして顎髭を撫でながら、しばらく考え込んでいた。

「“錠前屋じょうまえや”もだな。人選はゴフに任せる。向こうに動きがあるまで、厳戒態勢だ」

「かしこまりました。頭目は引き続き、対象の監視を。次を狙うとなったら、すぐに伝えて下さい」

「お安い御用」

 それだけ言って、その油合羽あぶらがっぱは去っていった。

 デッサンを射撃訓練場に呼び出した。アンリが手当したようで、顔は腫れているが、大した怪我ではなさそうだった。

 パーカッション・リボルバーを差し出した。デッサンの身体は、びくりと跳ねた。

「お前の家族は、お前が守れ」

「僕は、絵を描くことしか」

「お前がやるんだ、デッサン」

 無理やり、握らせた。デッサンの手は、震えていた。

「右手で銃を握るなら、左手に注意しろ。親指を交差するように、銃を握った右手を左手で握り込め」

 震える身体で、標的に狙いを定める。奥歯が軋む音が、ここまで聞こえた。

「右足を半歩引く。右腕を伸ばす。左腕の肘は曲げていい。それで半身で構えることができる」

 デッサンは言う通りに構えた。そのあたりで、身体の震えは収まった。ただ、呼吸は荒いままだった。

「撃鉄を起こすことで、照準が露出する。それで狙いを定める。ただ、小さな場所、動く場所を狙う必要はない。動かず、大きな箇所。つまりは胴体だ。それならお前の視力でも狙いやすいだろう」

 荒い呼吸のまま、撃鉄を起こした。右肩が上がりすぎている。対して左肘は下がりすぎていた。ウトマンはそれを、手で直していった。

「一発につき五秒。はじめ」

 銃撃音。ゆっくりと、六発。標的には、しっかりと当たっていた。

「いい感じだ」

「どうしても、やらなきゃ駄目ですか?」

「駄目だ。お前は、お前を克服する必要がある」

「僕は、こわいです。見えてしまったものも、これから起こることも」

「それを乗り越えろ。もう一度、絵を描くために」

 それで、デッサンの目が震えた。それが収まるまで、ウトマンはゆっくりと時間を使った。

「わかりました。やります。やれます」

「それでいい。ゴフたちも待機させる。何より、杞憂であればそれが一番だ」

 そうやって、肩を叩いた。

「今、ここで銃殺して構わん。刑罰としても、それが妥当だろう」

 セルヴァンに、ことの経緯を伝えた。表情は変わらないが、声は憤然としていた。

「人間と環境の管理に長けていると聞いて引っ張ってきたが、とんだ外れくじだったようだ」

「仕方あるまい。人間、何がきっかけで変質するかなどわからんよ」

「逮捕、及び家宅捜査の令状までおよそ二日。この間で何をやらかすか、です、閣下。デッサンの心をかき乱し、死体まで作り上げた」

「今すぐ拘束したまえ」

「可能ですが、デッサンの、心の恐れを乗り越えさせる機会を失います」

「俺は、デッサンを失いたくない。わかってくれ、セルヴァン」

「難しいことを言う」

 表情は変わらないまま、眉間にいくらかの皺だけが寄った。

「私に見立ての素質がないのもあるが、デッサン中尉は、それほど恐ろしいものを見たというのかね?」

「家族。子どもふたりと、奥さん。それが、絵画の題材のためだけに死ぬという光景。到底、受け止められまい」

「なるほど。私にとっての、ガンズビュールだ」

 それだけ、セルヴァンは自嘲するように言った。

 セルヴァンにとってのガンズビュール。それは、心の籠城戦。誰が狙われるかわからない状況で、重責に耐え、ダンクルベールを信じ抜くという戦い。

 そして、その果てにあった、壊れた愛。

「わかった、好きにやりたまえ。しかし貴様、部下をわざわざ危険にさらすとあらば、準備はできているのだな?」

 それを言ったあと、セルヴァンはちらと、部屋の入口を見た。ウトマンもダンクルベールも、それには気付いていたので、同じ場所をちらとだけ見て、また目線を戻した。

「本当は“スーリ”を使わせてほしいのだが、無理だろう?」

「無理だな。危険が過ぎる。未だ未知数だ」

「ならば、知りうる限りで最も強固なものを使う。今、俺にとってのそれは、ゴフとデッサンの心と絆だ」

 そう言って、ダンクルベールは軽く杖を鳴らした。合わせるように、セルヴァンも鼻を鳴らしていた。

「問題児の飛車角だ。貴様とて御しきれまい」

「無理に制御する必要はない。それだけのものを、あいつらは備えている。促し、導けばいいだけだ」

「人は育てなければ育たんと言う貴様にしては、珍しい」

「持論は変わらんよ。育て方にもそれぞれある、というだけだ」

「そうかい。まあ、しくじったとて骨は拾うさ。ダンドローに、馬鹿な真似をした報いを受けさせてやれるなら、私はそれでいい」

「必ず果たす」

「頼むぞ」

 そうやって、セルヴァンは拳を突き出した。少しの逡巡もなく、ダンクルベールはその拳に、拳を合わせていた。

 これもまた、知りうる中で最も強固な心と絆のひとつ。

 準備は整った。さあ、どう動くか。何を見たい。何を見せたい。デッサンに一体、何をさせたい。

「神妙にすれば、それでよし」

 執務室の椅子。背もたれに、その巨躯を預けながら。

「そうでないなら、ここでかばねを晒すことになるぞ」

 ダンクルベールの青い瞳は、澄み渡っていた。


4.


 何枚も、描いた。それを見ながら。そしてたどり着けないことを悟った。それが、快感だった。

 ああ、これこそが美なのだ。凡百ではたどり着けない、美の領域。アンベール・ドゥ・フェリエ。それを生み出してくれる巨匠。

 頼み込んだもの。きっと描いてくれている。楽しみだ。いや、それより前にきっと、暴かれるだろう。

 向こうも準備は入念にしてくる。だが、崩すのは簡単だろう。それほど作品を通じて、心を通わせた。思いを交わらせた。

 もはや君のことなら、手に取るようにわかる。

 警察隊本部から司法警察局まで、先の殺しの現場検証報告書が上がってきた。監査の名目で、担当に渡る前にそれを見た。

 排水溝に押し込められた女。二本の線と、それを歪める異物。白の中に浮かんだ美醜。

 これだ。これを見たかった。それも、何枚もある。きっと雨の中、描いてくれた。紙がひどくている。ありがとう、フェリエ。私は今、幸せの只中ただなかにいる。

 さあ、次は大作だ。きっと大変だろう。でも君ならきっと、描ききってくれるはずだ。

 夜、十二時。皆が寝静まった頃。屋敷の明かりは消えていた。

 玄関の鍵は、複製を作っていた。だからすぐに、そして静かに入ることができた。

 二階に上がる。寝室。これも鍵は複製を作ってある。静かに入る。

 懐からは、既に拳銃を引き抜いていた。

 寝台。大人ふたりと子どもふたり、並んで寝ていた。ほんとうに静かに、寝息も立てていない。

「ここまで、用意してくれたのだね」

 寝台の横に立ち、思わず笑みがこぼれていた。

「ええ。ここまで用意しました」

 つぶやきに、部屋の隅から返答があった。それと光も。

「ここまでです、ダンドロー少佐殿」

 振り向いた。瓶底眼鏡の、下膨れの顔。震える腕で、パーカッション・リボルバーを突きつけてくれている。

「待っていてくれたのだね、フェリエ中尉」

「令状ができあがりました。これより、あなたを殺人の疑いで確保します」

 頷いていた。何度も、噛みしめるように。

「神妙にすれば、それでよし」

「そうでないなら?」

「ここでかばねを晒すことになる」

 撃鉄の起きる音。

 腹を抱えていた。いくらでも笑いが込み上げてきた。ずっとずっとそうやって、銃を突きつける男の前で笑っていた。

「君に、私は撃てないよ」

 自分でも思うほど、きっと冷たい声。

「君は、絵を描くことしかできない。私の望むものを描くことしか」

「そうだ。僕は、絵を描くことしかできない。あなたの望む、くそったれな絵を描くことしかできない。それでも」

「それを方便に、私を撃てるとでも?」

 その言葉に、フェリエの体が明らかにこわばった。

「私を撃ち殺して、それを描くかね?素晴らしい。そのために私を殺してくれるのだね。新しい題材として、私を使ってくれるのだね?そうだろう?」

「違う、正しくない。僕は、僕は」

「それとも」

 拳銃。寝ている四人のかたちに突きつけた。

「君の仲間を、題材にしようか?」

 返答は、荒い息の音だった。それに、また笑った。

「私がこれのいずれかを撃ち、逆上した君が私を撃つ?素晴らしい。題材ふたつだ。いずれにせよ、私は君の役に立つことができる。これほど嬉しいことはないなあ」

「やれるもんなら、やってみろ」

「それに」

 手にした拳銃。それを、自分の顎の下に向けた。

「私は、こういう選択も取れるよ、フェリエ中尉」

 フェリエ。固まっている。目が泳いでいる。

 また、笑っていた。最高だ。これが、人の死。人の心の死。どれを選んでも、フェリエを壊すことができる。そして、見ることができる。

 遺作。心の壊れたフェリエの残すであろう、最高の美を。

 選びたまえよ、中尉。撃つか、撃たせるか、死なせるか。

「くそくらえ、だ」

 フェリエが、微笑んだように見えた。

 閃光、破裂音。身が震える。しかし、痛みはない。

 外したか、この距離で。いや、待て。

 空砲。

「でかしたっ、馬鹿野郎」

 声は、寝台の下から聞こえた。

 視界が、一気にぐらついた。足首。取られた。床に叩きつけられる。何人かが体の上に乗っかっている。拳銃の引き金を引こうにも、拳銃ごと手を踏みつけられている。

 動くのは、目だけ。

「器物損壊、および殺人の疑い。確保」

 はっきりと、聞こえてしまった。

 体に、縄が打たれていく。上体を起こされる。光。眩しい。何人もいる。囲まれて、銃を突きつけられている。

 フェリエはまだ、構えたままだった。

「描いてやるもんか」

 その声は、震えていなかった。

「誰がお前なんか、描いてやるもんか。勝手にしやがれ。お前なんか、誰からも忘れられて、そうして死んじまえばいいんだ」

「そんな、中尉。私に対して、そんなひどいことをするのか?」

「僕は、絵を描くことしかできない。だから、絵を描かないことを選べるんだよ、くそったれ」

 そうしてフェリエは構えを解き、踵を返してしまった。

「待ってくれ、中尉。私を、描いてくれ。お願いだ」

 縄の打たれた体でもがいた。必死に。それでも、どうにもならなかった。舌を噛もうとすれば布を噛まされ、そのうちに麻の袋か何かを被せられた。

 そうやって、荷物か何かのように、引きずられていった。

 おそらく、どこか広いところに連れて行かれたのだと思う。そうして無理矢理に起こされて、椅子か何かに縛り付けられた。

 視界が開けた。褐色の大男が目の前にいた。

 ダンクルベールの、お殿さま。

「ダンドロー少佐。すべての容疑を認めるな?」

 威容。威圧感。何も考えることもできず、頭は頷いていた。

 ダンクルベールが向き直り、敬礼した。その奥から、痩躯の男ひとり、現れた。

 国家憲兵総監閣下。その顔は、ひどく疲れたように見えた。

「貴官は、国家憲兵でありながら、民衆を脅かし、害する行動を取った。我々、国家憲兵は、それを許容することはできない」

 書類ひとつ、突きつけられた。

「これより軍法に基づき、銃殺刑を執行する。貴官に軍法会議、及び裁判への出席を希望する権利はない。ここまで、よろしいな?」

 震えていた。返答は、できなかった。

 見渡す。黒い肌の将校。それを筆頭に、何人かが小銃を担いで並んでいる。ダンクルベールは総監とともに、そこから離れたところに陣取った。

 そこに、フェリエの姿はいなかった。

 視界が、暗くなる。また、麻袋を被せられたようだった。

「最後に、何かあるか?」

「フェリエ中尉。フェリエ中尉は?」

「ここにはいない」

 傲然と告げられた。

「ひどい」

 きっと、涙を流していた。

 どうして、どうしてこんなことに。どうして、こんなことで。

 どうしてこんなことで、彼の絵が見れなくなるんだ。


5.


 あれから何度か、殺しがあった。デッサンはいつもどおり、雨の日だろうと、人に傘を差させてまでして、絵を描き続けていた。

 あの日、ひらきかけたものは、ついぞ見えなくなった。

「絵の本質は変わっていない。やはり線に感情が乗っている。ああ、素晴らしい。濃厚であり、繊細。これほど酒に迷う酒肴もあるまい」

 あのあとの絵を持って、第三監獄に訪れていた。シェラドゥルーガは満足げに、デッサンの絵を眺めていた。

「忘れたまえ。それがお互いのためだろう。絵を描いていたいデッサン君としても、他の才覚がひらくのは、本意ではあるまい」

「そういうものなのかね」

「忘れなければ、お前が第二の愚者になりかねん」

「ああ、なるほどな。それはいやだな。忘れることにするよ」

 そうやって、ダンクルベールは瞳を閉じた。

「ダンドローの遺族に、絵を描いて渡したそうだ」

 言葉に、シェラドゥルーガがぴくりと。

「父親としての、夫としての、立派な姿の絵だったそうだよ」

「なぜ、そうする必要があるのだい?」

「俺にもよくわからん。怒りにより、そいつの絵を描かない選択をした。それでも、残されたもののために、そいつの絵を描く選択もした。矛盾を孕んでいる」

「割り切れていないのかな?でも、この絵を見る限り、乗り越えてはいる」

「あるいは、デッサンからすれば、それは矛盾していないのかもしれない」

 シェラドゥルーガは、しばらく考え込む様子を見せた。そうして書架の林に行って、何冊かの本を読んでみたり。夷波唐府いはとうぶごしらえの煙管パイプをふかしたり。あるいは、お気に入りのワインを嗜んだりしていた。

「やっぱり、今度連れてきてくれたまえ」

「よしなさい。お前が第二の愚者にもなりかねん」

「ちぇっ。他人の褌で気取りやがって」

「引用と仰っていただけませんかね、作家先生」

 そうやってふたり、鼻を鳴らした。

 あらためて、司法警察局資料室や警察隊本部資料室、そしてダンドロー宅の捜査が行われた。感想が書き加えられていたのはデッサンの素描だけだったし、盗まれた素描は、すべてダンドロー宅で見つかった。

 家族に話を聞いた。これまでは仕事人間で、趣味がなかった。ここ一年で絵画に目覚め、美術館や博物館に通うようになったとのことだった。

 家族や報道には、確保の際に抵抗したため銃殺、とだけ伝えた。

 デッサンのアトリエ。すっかり元通りになった。寄ってみると、何人かいた。

 デッサンとアンリ、そして“錠前屋じょうまえや”たち。

「この間の調練の様子を描いたやつが、すげえよかったんですよ。だから仕上げてくれって頼んだんです」

 ゴフが喜色満面で言っていた。

「ちょっと、あたしの顔、必死過ぎません?もっと美人に描いてくださいよ」

「いいじゃん、ルキエ。この顔、かっこいいよ」

「ルキエは十分、美人だよ」

「またそうやって、おだててさあ」

 そうやって皆、わいわいと騒いでいた。

 絵の中で、誰も彼もが活き活きとしていた。それを見るものもまた、喜びに満ちた顔をしていた。

「僕は、絵を描くことしかできませんから」

 気恥ずかしそうに、デッサンは笑っていた。

 それだけでいい。それだけで、できることというのは、山のようにあるのだから。


(つづく)

Reference & Keyword

・Hi-Standard

・Amuse-Bouche / ハンニバル(ドラマ版)

・レッド・ドラゴン(映画版) / トマス・ハリス


改版履歴

・24.11.20:初版

・24.11.25:4章 加筆修正

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