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血塗られた名

あかき鱗、あかき翼

灼熱を吹き、血肉を食らう

大地を焼き、怒りに駆り立てられ

今、の底から飛び立つ


龍よ

顕れたまえ

すべてを燃やし

荒廃の園を耕したまえ


あかき瞳

それは宝玉のごとく

死を照らし、炎に揺らめく


リオネル・フェザンディエ、著

“龍たちの宴”より

 あかが、目の前で揺らいでいた。

 歓喜が体の中を駆け抜けていた。目の前で、ヴァーヌが燃えている。その事実が、グラビュージュの脳内を焼き尽くしていた。

 筆は止まらない。あかと黒。そして灰。すべて。すべてが、美しい。

 表現のために、自身の血や尿、そして今流れ出ている涙すらも使った。それでも表現しきれない。

 見せつけたい。広めたい。この美を。

 女神の炎が生む、この美を。


-----


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---


--


--


1.


 ヴァーヌ聖教会施設に対する放火。これで三件目。

 不可解な犯行である。市井に強い発言力を持つとはいえ、政治的立ち位置としては他勢力より遥かに小さいヴァーヌ聖教会を狙う意味は少ない。主要三勢力とも、現在は拮抗状態が続いており、ヴァーヌ聖教会を味方にするならともかく、敵に回すようなことは避けたいはずである。

 政治的意図からの犯行ではない。別の意図がある。

「龍信仰というのが、小さくはありますが広まっております」

 正面に座した老いた司祭は、柔らかな口調でそう言った。

「龍というのは、いわゆるヴァーヌ聖教会でいうところの、あかき瞳の龍でしょうか?」

「はい。そしてその眷属ども。世界のはじまりに荒廃をもたらした存在です」

「神たる父と御使みつかいたるミュザ。それへの反発ですか」

「そうなりますな」

 ビゴーとしては、へえ、としか言えなかった。貧しい生まれであり、ちゃんとした教育を受けてこなかったので、宗教には明るくない。

「世間一般の道徳や教養に対する反発。その象徴としての龍。それは社会常識への反抗であり、それを理念の軸とする国家への反逆に他なりますまい」

「そしてそれは今、思想の範疇であり、表立った組織化はされていないと」

「そういうことです、ビゴーさん」

 思想犯。その言葉を、ビゴーは飲み込んだ。

「組織だった犯行でないならば、散発的に継続します」

 隣りに座っていたビアトリクスが声を上げた。緊張のためか、些か固さが混じっていた。

「それぞれを逮捕、起訴したとして終わりません。また、思想の弾圧は国家の意志に反することから、これを行うことはできません。猊下げいかのお考えが正しければ、ただいたずらに被害が増えることになります」

「そうなりますな。ですので、掃除の仕方は考えなければなりません」

 にこりと、老司祭は微笑んだ。

「部屋中の塵芥ちりあくたを、それぞれに箒をかけたところで、時間ばかりがかかります。一箇所に集めるのが寛容ですな」

「龍信仰者を、組織化させると?」

「口が達者なものをひとり、送り込みましょう。ひと月もあれば、実現できます。警察隊の皆さまで、をかけてもらえれば」

「やはり、相談して正解でした。お手間をおかけしますが、何卒よろしくお願いします。リシュリュー猊下げいか

 ビゴーはそうやって座礼した。リシュリューも穏やかな笑みのまま、礼を返してきた。

「ビアトリクスさんと、おっしゃいましたか」

「はっ。警察隊本部、捜査二課。少尉。サラ・マルゲリット・ビアトリクスと申します」

「凛々しく、そして聡明だ。しっかりとしたものを心のなかに持っておられる。すばらしい捜査官であり、そしてすばらしい女性です」

 言われて、ビアトリクスはどうしていいのかといった表情のまま座礼した。

「ジスカールにね、聞いていたのです。ダンクルベールさんのお隣にいたお嬢さん、最近見ないよねって。ちょっと調子を崩されたと伺って、心配していたのです」

 やはり、微笑んだまま。対してビアトリクスの顔は、ひどく曇っていた。

「私は、ダンクルベールになれませんでしたから」

 それでも、しっかりした口調だった。

「憧れの対象に近づき、それになりたいと思うこと。立派なことです。たとえそれが達成できなかったとしても。今はただ、躓いたときの傷を癒やしているだけ。時間が経てば、また立ち上がり、走り出せることでしょう」

 すっと、リシュリューは立ち上がった。老いてはいるが、背筋はしっかりとしていた。

「何度もやり直し、回り道をし、そうやってたどり着くものです。最短距離に固執せず、立ち止まり、振り返り、足元を確認しながらね。ビゴーさんではありませんが、一歩ずつ、一歩ずつ、です」

「ありがとうございます。悪入道あくにゅうどう、リシュリュー猊下げいか

「大人に、そして人に頼ることです。甘えて、導いてもらうことです。いつか貴女がそうできるように」

 柔らかい言葉だった。それに、ビアトリクスは俯いたままだった。

 ビゴーはただ軽く、背中を叩くだけに留めた。

 二週間ほど前、辞表を出していた。ダンクルベールのもとにいることが難しくなった。だから、捜査二課に異動させたという。かつて、何人もの若者がそうされたように。

 ビゴーはビアトリクスを引き取って、しばらく一緒に歩くことにしていた。

 ダンクルベール。やはり孤高か。だれもあれに追いつけない。ウトマンのようにアプローチをかえなければ、近づくことすら難しい。

 才能が、そして歩んできた道のりが、あれを孤独にした。誰も登ることの叶わない、切り立った岩山にしてしまった。

「容疑者が出ました。ベルジュロン。駆け出しの画家です」

 ふたりで庁舎に戻ったところ、ヴィルピンが駆け寄ってきた。

「聞かない名ですな」

「グラビュージュ、という名で売っているようですね。普段から反ヴァーヌ的な言動を繰り返し、周囲ともトラブルを起こしています」

「決め手は、何でしょうか?」

「先の二件の放火、それをモチーフとしたであろう絵画を発表しています。構図、建築様式に一致が見られますので、犯行現場にいた可能性が高い。令状ができ次第、確保、聴取します」

「かしこまりました。よろしく頼みますよ」

 そう言って、ビゴーは隣りにいたビアトリクスに頷いてみせた。それをみとめて、ビアトリクスはヴィルピンの隣に着く。

 こうやってひとつひとつ、積み重ねていく。そうすることで、きっと自分を取り戻せるだろう。

 ビゴーはその足で、ダンクルベールのもとに向かった。案件自体は二課で追うとして、今後の対策は一課としてもやっておくべきだろう。

「リシュリューさんの見立てでは、思想犯ということでした」

「龍信仰ですか。難しい話ですな」

 言って、ダンクルベールもウトマンも首を捻っていた。ビゴーを含め三人とも、ヴァーヌ聖教の教えには些か疎い。

「リシュリューの爺さんがひとつ骨を折ってくれるとして、それでどうにか、とまではいきますまい。俺の方でも調べてみましょう」

「あたしは引き続き、歩いて稼ぐことにしますよ」

 ダンクルベールの顔は、冴えなかった。

「マギーさんのことは、お気になさらず。二課にはヴィルピンさんもいますし、火災とあれば、マレンツィオ閣下も手助けしてくれることでしょう」

 それで、いくらか綻んだ。

 やはりまだ、心配と後悔が強い。こちらもどうにか解きほぐしていく必要がある。

「火元の特定はできています。前の二件と同様。となれば、同一犯と考えていい」

 国家憲兵消防隊本部の庁舎に赴いた。先ごろ本部長官に就任したマレンツィオが直々に出迎えてくれた。

「しかし、龍信仰。つまりはカルト教団ですか」

「そういうものが続きますね、最近」

「あの、何とかという学生のときもそうだったでしょう。オカルトが人の心を拐っている。それだけ政治がちゃんとしていないという証拠です」

「とはいえ、我々の立場からではどうしようもありますまい」

 確かに、という様子でマレンツィオは葉巻をくわえた。

「閣下がご出馬遊ばせればよろしいかと」

 そんなことを言ったのはマレンツィオの副官、プラスローという士官だった。マレンツィオは表情を変えなかった。

「閣下ほどのお方が国政に携わるとなれば、我ら男爵家臣団、喜び勇んで付き従いましょう」

「馬鹿を言ってないで巡回を強めろ。教会周辺だ。怪しいやつがいたら、片っ端から声をかけるんだぞ」

「はっ、委細承知しました。男爵閣下」

 見事な敬礼ひとつ、プラスローは外に出ていった。

「まったく、口ばかりが達者なのだから」

「はは、早速慕われているようですな」

「面白がっているだけでしょうよ」

 迷惑そうに、マレンツィオが紫煙を吐いた。その様子がなんだかおかしくて、ビゴーは小さく笑っていた。

 ガンズビュールの後、いくらかして、マレンツィオは消防隊本部に異動した。国家憲兵隊の中でも、際立って地味な立ち位置にある部署である。それでも、かのブロスキ男爵が陣頭に来たと盛り上がったのだろう、組織も市井も大歓迎といった様子だった。

 火消しの男爵、フェデリーゴ・マレンツィオ。人の上に立つしか能のない男。プラスローではないが、国政に進出するのも面白いかもしれない。

 龍を題材とすることは、芸術家集団の中で、流行の兆しを見せているようだった。絵画や楽曲など、龍をモチーフにしたものが多く出てきている。

「大抵はポーズです。いわゆるファッション。俺もそうですが、非道徳的であること、反権力的であることに価値を見出している」

 ひとり、会うことにした。フェザンディエという詩人だった。

「政治がよくない。誰かが気に食わない。そういったものを、龍というものに見立てて表現している」

「恐怖や不安を煽るようにも思えます」

「それもひとつ、テーマとしてあります。誰もやってこなかったこと。愛とか恋とかではなく、誰にも受け入れられないであろうものを、あえて主軸に置く。マイノリティのための表現です。ただ、それで何かを啓蒙しようとかいう気持ちはありません」

 自身の詩集をめくりながら、フェザンディエは続けた。

「他者に迎合するためでなく、自分のやりたいことを貫く。そのために龍をテーマにする、というのが実情でしょう」

「なるほど。ならば、例えばヴァーヌの教会に火を放ったりなどは」

「しませんよ。反感はあったとしても、恨みつらみがあるわけではない。それは表現の度を越えている」

 そこまで言って、はっとした表情を見せた。

「あるとすれば、“コンパトリオト”でしょうか」

「それは、そういう集団でしょうか?」

「ええ。龍信仰の中でも、ひときわ過激です。俺も噂程度ですが、実際に被害を受けているものもいると聞く」

 画集ひとつ、持ってきた。戦争や処刑、腐乱した死体、目にするのもおぞましい題材だった。

「いわゆるペイガニズムの一環でしょうか。ヴァーヌ聖教を排斥し、それ以前の価値観を強く望むものたち。その中でも、実際の行動として、他者の表現への積極的な批判、恐喝、暴力行為など。それで廃業に追い込まれた芸術家もいると聞きます」

「あるいは、直接的な行動に出ることも」

「ありうるかもしれません。ヴァーヌの教会を焼くというのは、些かやりすぎではありますが」

「ありがとうございます。ひとつ、取っ掛かりができました」

 そう言って、つとめて笑顔で礼をした。

「あたしゃあ、そこまで強い思いで人を憎んだり恨んだりしたことがない。でも発散の手法としては、大いによいと思います。いわゆるファンタジーとして、受け入れることができるならば」

「そう言っていただけると、本当にありがたい。まだまだ理解者の少ない分野ですから」

「少数のための手法なんでしょう?顧客は少ないはずでしょうよ」

「ああ、そうでしたね。高説を述べておきながら、そこに気づかないとは。まだまだですな」

 そうやって、フェザンディエは気恥ずかしそうに頭をかいた。その顔はほんとうに、どこにでもいるような人のそれだった。

 龍信仰そのものは、悪ではない。弱いもの、少ないもののための娯楽。そう捉えるならば、むしろ悪党のそれに近い考え方だった。

 それを自分自身の都合のいいように解釈し、他者を攻撃するための手段として活用する連中がいるだけだ。

 庁舎へ戻る途中、ひとつの路地に寄っていた。それはやはりフェルト帽を押さえながら待っていた。

「どんな感じだい?親父」

「まだなんとも、ですね」

 正面から歩いてきた、影のようなもの。同じようにして近づいた。顔も眼も、体すらも合わせず、並ぶ。

 それが、この黒い影の悪魔とのやり方。

「“コンパトリオト”ってのが、いるらしいです」

 紙一枚、渡す。

「龍信仰だろう?厄介だね」

「それでも、表現の自由は守らなきゃあなりません」

「そんなもんかねえ」

 それもまた、紙一枚渡してきた。内容を見て、背筋に冷たいものを感じた。

「感づいたか。あるいは、関係なくそれに至ったかはわからない。とにかく、それを崇拝する集団が存在する」

「それが“コンパトリオト”かもしれないですね」

「それならそれ、さね。くそったれに変わりはないが」

 そうやって、影は離れていった。

 何日かはぐれてから庁舎に戻ると、ウトマンが慌てたように駆け寄ってきた。何かが起きたようだ。

「死人ですって?」

「以前仰っていた、“コンパトリオト”のひとりのようでして。そして、その現場なんです」

「保全は?」

「万全です。いつでも見れます」

 庁舎から二十分ほどの距離にある、仮住まいのひとつだった。

 猟銃をくわえて死んだ男。手首や胸に、深い切り傷がある。

 どこもかしこも血だらけ、肉片だらけ。異様な光景だった。

「生きている」

 思わず、それを読んでいた。壁に書かれていた血文字。

 “シェラドゥルーガは、生きている”。


2.


 黒いカーテンと鉄格子。

 ダンクルベールは既に、懐のものに手をかけている様子だった。それはウトマンも同じだった。そうやってふたり、書架の林を抜けていく。

 それは応対席の片隅で、のんびりと本を読んでいた。

「やあ、我が愛しき人。何だか物騒だね」

 ボドリエール夫人。またの名を、あかき瞳のシェラドゥルーガ。

「そうだな。火急の要件だから、手早くいく」

「何なりと」

「画家ひとり、死んだ。壁に“シェラドゥルーガは、生きている”と書き殴られていた」

「へえ、それはそれは、迷惑な話だ」

 着座を促しながら、夫人はこちらを向いた。ふたり、それには応えなかった。

「つまりは、私が関わっているかどうかを知りたいと?」

「そうだな」

「そして、その答えによっては、か」

 ため息ひとつ。そうやって、夫人は本を閉じた。

「無関係。ただ、そうは言っても信用はしてくれまい」

「そうだな。お互い、出せるものを出そう」

 ダンクルベール。言いながら、夫人の正面に座した。懐からは手を抜いている。ウトマンも合わせて、懐から手を抜いて着座した。

 麗しき、そして恐ろしきあか。人ならざる魔性、人でなし。ガンズビュール地方でその牙を向いた、人喰らい。

「“コンパトリオト”という集団、あるいは龍信仰というのに覚えはあるかね?」

「後者にはいくらか。昨今の流行りだよ。社会悪を龍に見立て、その横暴を説くムーブメントだ。私は作風の都合、使うことはないがね」

 夫人は言いながら、ダンクルベールに緑の瓶を用意していた。タンブラーに注ぐ。黄金と泡の層が綺麗に別れた、いい注ぎ方だった。

「龍信仰、あるいはペイガニズムの一環で、お伽噺の悪魔である“シェラドゥルーガ”を題材にする、というのは、有り得る話だと思うよ」

「そうか。なら合点がいく。今の今更、お前が外に出たがる理由もないと思っていた」

「それでも、銃に手をかけていた。やはりお前だ。そうでなくては」

 夫人は、爛々らんらんとした瞳でダンクルベールを眺めていた。恍惚とも言えなくもない表情である。

「つまりは、あの画家の描いた“シェラドゥルーガ”は、夫人ではなく、正真正銘、お伽噺の“シェラドゥルーガ”ということになるのでしょうかね」

「そうだね、ウトマン君。この現場検証報告書を見る限り、とても私の趣味ではない。私なら、もうちょっと可愛げのあることをするよ。人が死なない程度に、面白おかしくね」

「どちらにしろ、俺たちの迷惑であることには変わりない」

 悪態ひとつ。

 ウトマンの前には、ジンジャーティーが用意された。前々から酒癖が悪く、夫人にも一度迷惑をかけたことがあったからだろう。あれきり、人前で酒を飲むのにはためらいがある。

「あれは、作品だな?」

「そうなるね。そして連作だ。自身や他者の死をモチーフとした作品が、いくつか生まれることになる。“シェラドゥルーガ”という、死神をモチーフとしたものが」

「どれほど非道徳か、あるいはどれほど邪悪か。つまりは、どれほど“シェラドゥルーガ”に近しいか。それが美意識になっているわけですか。その最上級の表現が、人の死になる」

「宗教建築、宗教家への攻撃には留まらないだろう。無軌道、無規律。一種のテロリズムだと言ってもいいね」

「公安にも動いてもらおう。セルヴァン経由で情報を渡す」

 ダンクルベールの言葉に、ウトマンは頷いた。紙一枚、宙に掲げる。それはすぐに、誰かの手に渡ってなくなった。

 “あし”。ダンクルベールの密偵である。

「止める手段は、コミュニティそのものの破壊だけですか」

「その通り。そしてそれは最も困難なことだ。アイデアとは、存在する限りコミュニティを産むものだ。今あるものを駆除したとしても、感化されたものが同じものを作り上げるということは大いに有り得る」

「世間に異常性を認識させる。非道徳的であること、人道に反することを知らしめる。つまりは需要がないことを。そうすることで止められる」

「流石はウトマン君だ。基本に忠実な思考回路だからこそ、普遍的な発想に至ることができる」

 夫人は、格別の笑みをウトマンに投げて寄越した。それでも心は動かなかった。

「少なくとも、あと二件ほど起きるだろうね。うち一件は中心人物だ」

「金銭、いや、思想面で衝突がある」

「あるいは思想に殉じているからこそ」

「コミュニティそのものの自己破壊。それを至上の価値とするか」

「警察隊の理念に反するだろうが、犯人を捉えるのはそれからでも遅くはないだろう。理解されず、構成員もいなくなれば、コミュニティは自壊の一途を辿るはずだ」

 ダンクルベールと夫人とのやり取り。夫人は言いながら、どこか寂しそうだった。

「シェラドゥルーガ、か」

「言うなよ。お前が悪いわけではない」

「それでも、呪われた名だ。そしてそれを戴いたのが私だ。どうしても考えてしまう」

「血の一滴すら残さん。処断し、まとめて更地にする。だからどうか、気に病むことだけはしないでおくれ」

「ありがとう、我が愛しき人」

 寂しさが残ったまま、夫人は笑った。自嘲のような笑みだった。

 いつだって、奇妙な関係だった。ガンズビュールを経た今、ふたりの間にあるのは親愛なのか、あるいは敵愾心なのか。何度見てもわからなかった。

 ただ、信頼だけはある。それだけはわかった。それが捜査官とその協力者としてのものなのか、男と女のそれなのか、それともまた別のものなのかは、わからなかったが。

「匂いが変わった」

 ダンクルベールのタンブラーに何度かめの酌をしながら、夫人はそんなことを言い出した。

「若い娘。以前は、そんな匂いがした。それがなくなった」

「育てていた部下ひとり、手放した。それだろうな」

 少しだけ、苦い顔だった。

「ダンクルベールになりたいと言ってくれた。だから張り切りすぎたのだろう。それがいけなかった。心を挫いてしまったよ」

「お前のようになること。それは生半なまなかなことではない。お前のそれは、半ば先天的なものだ。基礎を学ばせ、ゆっくり時間を掛けて培わせても、どうにか、というところだろうな」

 赤の芳醇な香り。夫人はそれを、ゆっくりと味わっていた。

「今はヴィルピンとビゴー先輩に預けている」

「二課主任になったんだっけ?ヴィルピン君」

「ああ。マレンツィオ課長のお陰で、ひとり立ちした。育てることも率いることもできる。立ち直すことも。いずれは二課課長か、あるいは支部署で一国一城の主をやらせるのもいいかもしれない」

「早くよくなるといいね、そのこ。お前のためにも」

「そればかりだよ」

 そうやって、ダンクルベールは杯を煽った。

「ベルジュロンが容疑を認めた。“コンパトリオト”の一員であることも。それと」

 庁舎に戻ってきた時、渋い顔をしたヴィルピンが寄ってきた。

「“シェラドゥルーガ”崇拝の件も」

「やはりか」

「先ごろ死亡したフォーコネとも交流があったそうだ」

「これもリシュリュー猊下げいかの言っていた、箒の話なのかね」

「それがどうやら別種らしい。俺の方でも確認したけれど、向こうは最近入れたばっかりだとさ。ジスカールの親分も、前からそういうのはいたって話してた」

「なるほどな。そのあたり、まとめて課長には伝えておくよ」

「あと、できればなんだけど」

 神妙な面持ち。

「この案件、うちに回してくれないかな?」

「二課でか?」

「マギーちゃんを忙しくさせたい。そうやって歩かせて動かせて、取り戻させたい」

 頼む、と言って、ヴィルピンは最敬礼してしまった。それを見て、ウトマンはなんだか嬉しくなっていた。

「やっぱり、お前に任せてよかったよ。私と課長だと、きっとうまくいかなかった」

「ありがとう、ウトマン。うちのジョフロワ課長には、俺から言っておく」

「早めに調書をまとめて、引き継ぎできるようにしておくよ。お前とマギーのためだもの」

「やっぱり、ウトマンだなあ」

 そうやってふたり、笑った。

 ほんとうに、お節介が大好きなやつだった。心根の優しさがそうさせるのだろう。困った人を見ているとほうっておけないのだ。そのくせ、自分ではなんにもできないといって、人に頼るのだから。

 ビアトリクスのため、というならば、もうひとり頼るべきか。

 町外れの、寂れた探偵事務所。予約は前もって入れていた。

「時間を作ってくれてすまないね、カトーさん」

「ウトマン兄さんが来るっていうのも珍しいね。特別な用事だろうさに」

「そう。お節介という、特別に大事な用事だよ」

 カトー。ダンクルベールがビアトリクスにつけたである。

 事案報告書を含めたいくつかの資料を渡した。カトーはウトマンに背を向けて、それを読んでいった。

「マギーちゃんが、これを担当すると?」

「まだまだ不調だろうからね。カトーさんの方からも世話を焼いて欲しいんだ」

「まったく、警察隊ってのも心配性が多いね。こないだヴィルピン兄さんも、同じようなことを言いにきたよ」

「そうだったか。私としたことが、気が逸っちまったなあ」

「可愛い妹のためだもの。皆でどうにかしてやりたいって気持ちはわかるけどね」

 事務のひとりが珈琲コーヒーを持ってきてくれた。香りが落ち着きを招き入れてくれる。

「ウトマン兄さんは、ダンクルベールにはならなかった」

「私は、恐怖のほうが強かったからね。なにせガンズビュールのときのダンクルベールが、私にとってのはじめてのダンクルベールだ」

「それほどまでだったのかい?」

「ガンズビュールに来たときには、すでにたどり着いていた。そして、ほぼ初手でボドリエール夫人を追い詰めていた。あとはどう落とすか、というぐらいだったよ。ほんとうに恐ろしかった。あれに憧れることなんて、できないよ」

「だからやり方を変えた。追いかけず、しがみつかず、受け流す方向に」

「私であること。それが、ダンクルベールとやり合う唯一の方法だということを編み出した」

「誰に対しても、そうだろうさに」

 苦笑しながら、カトーは紙巻をふかしていた。

「自分の身を守ることには全力を尽くす。それが兄さんの根本原理だろうかな」

「そうかもしれないね」

「誰もがダンクルベールになれないように、誰もがウトマンにはなれないだろうさね。兄さんが、その必要性を感じていないだけ、幸福かもしれないが」

「いらないよ。こんな面倒な仕事をする人間は、私ひとりでいい」

「そうかい。勿体ないふたりだ」

「それでいい。私たちは、異端の存在だから」

 自嘲するように、ウトマンは笑っていた。

「フォーコネの自殺現場に、あとふたりいました」

 何日かしてから業務を引き継ぎする際、ビアトリクスがそんなことを言い出した。

「足跡がありました。大きいものと、小さいもの」

「子どもか?見せたのか?」

「おそらく」

「儀式的な意味合いかもしれんな。過度なストレスを与えて、トランス状態に陥らせる」

 横合いから、ダンクルベールがそう言った。ビアトリクスとヴィルピンが頷く。

「御神体を作ろうとしている、ということですか」

「話が変わってきた。自殺、他殺含め、何件もやるだろう。子どもが巻き込まれているとなれば、早めに尻尾を掴みたいな」

「表現者集団」

 ビアトリクスだった。しっかりとした表情である。

「もはやアンダーグラウンドな活動ではありません。大胆な行動に出ます。場所も、目立った場所にいるかと」

「発想、着眼点、大いによしだ、ビアトリクス君。とはいえ、やることは変わらない。おやじさんと皆で、足で稼いでやっていこう。ダンクルベール課長、あとはこちらで」

「お願いします。ジョフロワ課長」

 ダンクルベールの言葉に、ジョフロワがかたち程度の敬礼で応えた。

 帰りしな、ダンクルベールに前饗アペロでもと誘われた。ヴィルピンとふたり、ビストロ・オーブに連れて行ってもらった。

「マギーが、いきいきしていた」

 瞑目しながら、ダンクルベールがこぼした。

「恐れなく、勇気がある。表情にも自信が見て取れる」

「はい。マギーちゃんは、自分の考えを発言できています」

「そうか。そうだよな、ヴィルピン」

 グラスに注いだエールを、ひと息に。そうして、また項垂れた。

「あれで、よかったんだよな」

 ほんとうに、つらそうな表情だった。ウトマンも、つられるようにして、胸が苦しくなった。

 ビアトリクス。ダンクルベールになりたいと言ってくれた。だからふたり、熱心に育て続けた。何度くじけても、何度泣いても、叱り飛ばし、励まし、共に居続けた。

 それが、きっと駄目だった。

 今のビアトリクスは、きっとのびのびと仕事ができている。ダンクルベールという枷から解き放たれて。それがいい。それが本人のためだから。そう、言い聞かせてきた。

 それでも、ビアトリクスに見捨てられたというような思いは、確かにあった。

「マギーちゃんは」

 鼻にかかった声。

「マギーちゃんに、なろうとしています」

 ヴィルピン。既に、涙目になっていた。

「憧れのダンクルベールじゃない。もとからそこにあった、そしてようやく見つけたマギーという在り方になろうとしています。だからきっと、よりよい道です。ご本人を眼の前にして言うのは失礼かと思いますが、あのこはダンクルベールである前に、マギーになるべきです」

 どもりながら、つっかえながら言った言葉。どうしてか、その涙につられた。

「そうだよな、ヴィルピン。お前の言う通りだよ。マギーは、マギーであるべきなんだ」

「そうですよ、課長。課長だって、ここでそう言ったじゃないですか。ダンクルベールでなく、マギーになろうって」

「そうだったな、ウトマン。俺ばかりが、引きずっていたようだ。情けない話だよ」

「私も、引きずっていました。マギーとヴィルピンに教えられましたね」

「何やってるんですか、ふたりとも。泣くのは俺の仕事ですよ。だから、ぱあっとやりましょう。マギーちゃん、元気になれたんですから」

 ぽろぽろと泣きながら、ヴィルピンは笑顔だった。つられて、ダンクルベールとふたり、笑っていた。

 泣き虫ヴィルピン。素朴なカリスマ。頼りなくって、頼りがいのある男。

 こいつのおかげで、どんなにつらくたって、やっていける。

「しかし、子どもを人身御供ひとみごくうに使うとは、なかなか」

「芸術品としての“シェラドゥルーガ”を作る。道徳と倫理を破壊された存在。となれば、子どもが手っ取り早いだろう。そしてそれは、人としては許されない行いだ。俺たちの手で、それを食い止めなければならない」

 言って、ダンクルベールが紙巻をくわえる。その表情は、引き締まっていた。

「何より、あいつのためにな」

 強い言葉だった。

 やはり、わからなかった。ダンクルベールと夫人。それでも、わからなくていいのかもしれない。

 ふたりの間のこと。それは、ふたりだけのことだから。


3.


 叫び。そして血飛沫。それが、心地よかった。ドゥラーはそれらを浴びながら、いまだ身悶える男に短剣を振り下ろし続けた。遂に喉に突き刺したそれを抜く時は、性的絶頂すら覚えていた。

 人の死。ここまで美しいか。死者とは、ここまで尊いか。

 倒れ込んだ男の顔に、遺灰を塗りたくった。自分の顔にしているように。

「これが、死だ。“シェラドゥルーガ”」

 振り向き、そう告げた。その少女に。

「死が、死を呼ぶ。灰の山から現れた、我ら生ける死者どもが、それを為す」

 “シェラドゥルーガ”は、ただ茫洋とそれを眺めていた。

 ヴァーヌを焼き滅ぼす。その象徴として、お伽噺で細々と語り紡がれてきた“シェラドゥルーガ”を用いる。人を喰らい、心を拐う魔女。

 それを、顕現させる。この手で。

 酒場では、主人であるクリーが待っていた。表情は曇っている。

「グラビュージュが釈放された」

 吐き捨てるような言い方だった。

「容疑は認めたが、証拠不十分だそうだよ。起訴猶予だとか、その辺りだと思う」

「へえ」

「俺たちのことを吐いている。何もかも、明るみになった。これ以上は、何もかもが危なくなる」

「好都合だ。俺たちの作品を世に知らしめる、絶好の機会だ」

 ラガーを煽りながら、ドゥラーは言った。クリーは、いやなものを見るような顔だった。

「狂ってるよ、お前は」

「俺は正常だ。俺の道徳の範囲内でな。他者の道徳から外れているならば、狂っているといっていい」

「お前もエペ・ロイエも、正気じゃない。俺たちのやりたいことは表現だ。ひとごろしなんかじゃない。“シェラドゥルーガ”もまた、回帰表現のひとつにすぎない」

「これが“シェラドゥルーガ”だ。俺の芸術作品だ」

「そうかい。勝手にしな。俺はするよ」

 クリーは、背を向けてしまった。それでいい、そう思った。

 こいつは偽物だ。偽物の“シェラドゥルーガ”だ。それでいい。こいつにとっては。

 だが、俺にとっては、それは許容できない。

 後ろから喉を裂く。それだけで、用事は済んだ。

 “シェラドゥルーガ”を連れて、エペ・ロイエのもとへ向かった。こいつだけは、知りうる限り、心底に“シェラドゥルーガ”だった。

「ひとり、駄目にした。また連れてこなければならない」

 部屋の奥に吊るされた女。血を流している。いや、流しすぎているだろう。ぴくりとも動かなかった。

「楽譜の半分にも満たなかった。新たな音色が必要だ」

「それでこそ、お前の“シェラドゥルーガ”だ」

 楽譜は、血で綴られていた。音楽の素養はないが、それだけで震えるほどに素晴らしいものだと感じることができた。

 クリーの血。ワインに入れて飲んだ。これでクリーの理念は本物になるだろう。怯懦もない、純粋なものに。

「グラビューシュは、俺が裁く」

 食事をともにしながら、ドゥラーは告げていた。

「あれも、偽物の“シェラドゥルーガ”だ。血ではなく、火だけに魅入られた。ただの龍信者にすぎない」

「血肉を啜らねば、“シェラドゥルーガ”ではない」

「そうだ。俺たちの瞳は、あかくあるべきなのだ」

 エペ・ロイエの目は、血走っていた。

 遺灰を顔に塗りたくる。死の体現。死にながらに生きる、“シェラドゥルーガ”の眷属たる証。

 パトリシア・ドゥ・ボドリエール。ガンズビュールの人喰らい。“シェラドゥルーガ”の再臨。彼女にできたならば、俺にもできるはずだ。

 グラビュージュのアトリエ。“シェラドゥルーガ”とともに訪れた。何度かのノックで、彼は現れた。

「どうしたよ、その格好」

「いいものを、思いついたんだ」

「そうか、まあ、入れよ」

「その必要はない」

 グラビュージュが、何かを察した。それより先に、扉の端に足を掛けていた。

 短剣。まず、腹に。叫びはなかった。物足りない。胸。何度も。それで叫びが上がった。倒れ込む。追い込むように、馬乗りになった。腿と上腕。そして、目。短剣を差し込むごとに、身体がびくんと跳ね上がる。あかが、吹き出る。

 グラビュージュが動かなくなった頃には、血と精でどろどろになっていた。

「これが、あかだ。“シェラドゥルーガ”。お前の、瞳の色だ」

 “シェラドゥルーガ”は、ぼうっと突っ立っていた。血で濡れた手で、その頬を塗った。

「“シェラドゥルーガ”は、生きている。俺が、生き返らせてみせる」

 壁に、文字を。

 これで、成る。これを、為す。“シェラドゥルーガ”。我らが女神。

 残るは、あとひとり。


4.


 カトーから、ひとつ見つけたという話が来た。ビアトリクスはすぐさまカトーの事務所に向かっていた。

 紙一枚、渡された。

「このこが、“シェラドゥルーガ”にされるというわけね」

「ドゥラーことユルバン。人売りから少女ひとり、買っている。それが、そのこだ」

「今のご時世、人売りだなんて」

「いるんだよ、それが」

 苦い顔で、カトーがこぼした。

「口減らしだけじゃない。親の借金のだとか、そういうのでも売られていく。ほんとうに、可愛そうなもんだよ」

「カトーさんのとこも、まだ小さい」

「ふたつだよ。だから余計に、な」

 心底に、つらそうなため息だった。

 カトーがよき夫であり、よき父親であるのは、ビアトリクスも知っていた。よく話に出してくれる。奥さまとも何度か会わせてもらった。

 悪党であれ、こういう話題はつらいのだろう。

「保護したあとは、ジスカールさんに頼むといい。孤児院とか療養所をいくつか持っている」

「わかった。ありがとう」

「他のメンバーについても、進んでいるようだね?」

「エペ・ロイエことトリブイヤール。寝どこが見つかった。女を拐って拷問を掛けている。ウトマン主任の方で、今日明日にでも」

「となると、あとはドゥラーだけか」

「リシュリュー猊下げいかが潜り込ませた人員が見つけてくれた。これも、用意が整い次第いけるわ」

「そりゃあいい。大詰めだな」

 “コンパトリオト”の構成員。他の面々は、死体で見つかっていた。“シェラドゥルーガは、生きている”の血文字とともに。

「マギーちゃん」

 席を立とうとした時、カトーが声をかけてきた。そうして、奥からロゼとグラスを持って、注いだものを渡してきた。

「景気づけ、というより、リラックスだ」

「うん」

「気が張り詰めている。こういうときこそ、肩の力を抜いて、ゆっくりのんびりと、さに」

「ありがとう、カトーさん」

 受け取って、ひと息で飲もうとした。口につけた時、芳醇な甘さに驚いた。

「美味しい、これ」

あなたのためにケルクショーズプルヴ。今日、誕生日だろう?終わったら、ゆっくりやろう」

「嬉しい。本当に、ありがとう」

 そうやって、お互いの頬にベーゼをした。

 寝ぐらは捉えた。証拠も十分。令状も上がっている。だから失敗はできない。そのためにも、準備は入念にしたかった。

 ヴィルピンと向かったのは、消防隊本部庁舎だった。横にも縦にも大きい身体が出迎えてくれた。

「追い詰められ、火を放つ可能性があります。マレンツィオ長官率いる消防隊には、これに備えて後詰をお願いしたく思います」

「ほう。少尉風情が、この俺に指図をするか」

「シャルロットさまに、ご一献差し上げますゆえ、何卒」

 そう返すと、マレンツィオは呵々と笑った。ちょっとした決まり事である。

「構わん、構わん。婦人会に顔を出す程度でよい。シャルロットが心配していたよ。ビアトリクス君が最近、顔を出さないとね」

「シャルロットさまには、ほんとうによくしてもらっています。」

「ダンクルベールから、二課に移動になったとも聞いていた。ダンクルベールになれなかったと言っていたこともね」

 言われて、心がずきりと傷んだ。いまだ、傷口は開いたままだった。

「誰しもが、あの山の頂を夢見る」

 珈琲コーヒーを口にしながら、マレンツィオは感慨深げにはじめた。

「メタモーフ。ガンズビュール。褐色の英傑、オーブリー・ダンクルベール。それに夢を重ね、恋い焦がれ、真髄に至ろうとするもの。それを愚かと笑うことはしないよ。俺もかつては、名提督ニコラ・ペルグランに同じものを抱いていたからね」

 優しい、微笑みだった。

「滑落するものがいる。山の中腹で食い物がなくなり、そこで息絶えるものがいる。君は幸運だ。足をくじいただけだからね。だからきっと、また登れる。何がよくなかったか、今度はどうすべきかを考える時間を与えられた状態でだ。だから気に病まず、ただ職務に邁進したまえよ」

「ありがとうございます、マレンツィオ長官」

「まあ、俺がとやかく言わずとも、警察隊には物好きと世話焼きは山程にいる。隣に座るヴィルピンなどもな。だから、大いに頼りたまえよ。大人はそのために、大人をやっているのだからね」

 隣を見る。ヴィルピンが涙ぐんでいた。それでも凛々しい表情だった。

「泣くんじゃねえぞ、ヴィルピン。泣くのは転んだときと、手柄を立てたときだ」

「はい、師匠」

「子どものために骨を折るのが大人の仕事だ。そして、女の前で格好をつけるのが、男の仕事だ。一発、ばちんと決めてこい。俺が後ろについている。できるまで、何度でもそのに蹴りを入れてやるからな」

「はい。お願いします、マレンツィオ師匠」

「まったく、いつまで経っても世話の焼ける連中だぜ。警察隊本部ってのはよお」

 ヴィルピンの涙はこぼれなかった。それで、マレンツィオも笑った。

 令状ができあがった。突入の手筈も整った。一個小隊。これで、乗り込む。

 羽織るのは油合羽あぶらがっぱではなく、ダック地のジャケット。消防隊から貸与されたものだった。万が一、火が回っていても、火が燃え移ることはない。

 ひさしぶりの突入。震えていた。それでも、陣頭を切らなければ。

 これを乗り越えて、私はマギーになるのだから。

 庁舎入口で、エチエンヌが待っていた。後方支援部隊の隊長を任されていた。

「ビアトリクス少尉。姿勢、正せ」

「はっ」

「指導」

 ほんとうに軽く、肩を小突かれた。

「緊張しすぎ。大丈夫。ヴィルピン君も、私も、マレンツィオ閣下だっている。こわいものは全部、私たちに預けて頂戴」

「わかりました、ありがとうございます」

 敬礼、ひとつ。それでエチエンヌも綻んだ。

 現場までは、馬車で三十分ほど。町外れの、小さな小屋だった。到着したときには、日が傾きかけていた。

 建物や、傍らに積まれた秣には、消防隊が水を掛けていった。ユルバンが火を放とうと、大きくは広がらないだろう。

「突入まで五秒。五、四、三」

 ヴィルピンの声。鼓動が、高鳴る。

「突入」

 開け放たれる扉。ビアトリクスは我先に、そこに飛び込んだ。

「警察隊だ、動くなっ」

 小銃。突きつける。顔に灰を塗りたくった、痩躯の男。そして年端もない少女。

 これが“コンパトリオト”、そして、“シェラドゥルーガ”。

 部屋には、秣と、おそらくは爆薬が積まれていた。そしてユルバンの手には、油入りの瓶。

 自爆するつもりか。

「殺人、および児童虐待の疑い。確保する。手に持ったものを床に置いて、両手を上げなさい」

油合羽あぶらがっぱども。よく見るがいい。これが“シェラドゥルーガ”だ。ここで俺が死ぬことで、こいつの瞳はあかくなる」

 ユルバン。笑っていた。気持ちの悪い形相だった。

「“シェラドゥルーガ”。“シェラドゥルーガ”だ。それこそは血塗られた名。血と炎のあかを以て顕現する悪鬼。パトリシア・ドゥ・ボドリエールは自らでそれを成した。ならば俺は、こいつを以てそうするだけだ」

 高笑い。そうして、胸元からマッチを取り出す。

「さあ、“シェラドゥルーガ”。血を為せ。あかを撒け。俺とこいつらの死を以て、現世に顕現せよ」

 少女。手には短剣。

 その足が二歩、進んだ。

「シルヴィ」

 ビアトリクスがそう呼んだ名に、少女は、はっとした表情を見せた。

「おいで」

 小銃を捨て、手を広げた。やったのは、それだけだった。

 少女は短剣を投げ捨て、ビアトリクスの方に駆け寄ってきた。ビアトリクスはそれを、しっかりと抱きとめた。

 こわかったでしょう。もう、大丈夫だからね。

「なぜだっ」

 叫び。ユルバンだった。

「なぜだ、“シェラドゥルーガ”。なぜ、そいつを殺さない。俺はさんざん、見せてきただろう。人の死を、人に潜むあかをっ」

「御託はそこまでにしやがれ」

 ビアトリクスの横を、何かが掛けていった。巨躯。それがユルバンの身体にぶつかり、殴り飛ばしていた。

「はっ、ざまあみやがれってんだよっ」

 マレンツィオだった。そうして、倒れ込んだユルバンに、他の隊員が群がっていく。消防隊が、部屋に積まれた秣や爆薬らしきものに水を掛け、早々に撤去していった。

「“シェラドゥルーガ”。答えろ、“シェラドゥルーガ”。お前は、どうして」

「違う、正しくない」

 見据えて、言ってみせた。

「このこは、シルヴィ。“シェラドゥルーガ”でも、あなたの傀儡おもちゃでもない。ただひとりの女の子よ」

 そうやって、ビアトリクスは踵を返した。

 外では、エチエンヌたちが待っていた。その中に、ひときわの巨躯が佇んでいる。威容、としか表現できない容貌。

 “一家”頭目、ジスカールである。

「このこを、どうか」

 その言葉に、そのひとは静かで厳かな礼を以て答えた。

「おねえちゃん」

 振り向いたあたりで。

「ありがとう」

 小さな、それでもしっかりした声だった。

 もう一度、振り向いた。灰や煤で汚れた、可憐な顔。それをハンカチーフで拭った。固いが、微笑んでくれた。

「こちらこそ、ありがとう」

 そうやって、その頬にベーゼを。

 これが麓。私がマギーになるための、はじめの一歩。


5.


 “コンパトリオト”は、ドゥラーことユルバン以外の死亡を以て壊滅となった。他の龍信仰のコミュニティも、“コンパトリオト”の事件を通じて、その活動規模を小さくしていった。

 “シェラドゥルーガ”ことシルヴィという女の子は、ジスカールに預けた。過度のストレスから、いくつかの症状が出ているそうだが、知り合いの精神科医や小児科医に頼んで、経過を見ているそうだった。親に捨てられたもの、いじめられたものなどを保護している孤児院にいるそうで、理解者には困らないだろうということだった。

 そのユルバンも、留置所で舌を噛んで死んだ。壁には、“シェラドゥルーガは、もういない”と刻まれていた。

「私の名を騙った。死んで贖ってもらうことにしたよ」

「やはり、お前か」

「少しぐらいは、鬱憤を晴らさないとね」

 第三監獄。ダンクルベールは、事件の終結を伝えにやってきていた。あかいそれは、平静だった。

「あのこ、昇進したって?」

「功績を認められた。何より、自信をつけるためのいいステップになった」

「それはよかった。育ちきったあたりで連れてきてくれたまえよ。お前の愛弟子とあらば、いい女なのだろうから」

「あまり、いじめないでおくれよ。繊細なこなんだ。ヴィルピンほどではないが、よく泣くこでね」

「女は強くなるために泣くものさ。だから蹴躓いた程度でも泣いてしまう」

 はにかみながら、シェラドゥルーガは答えていた。

 ビアトリクス。強くなった。ダンクルベールというものから離れ、ビゴーとともに歩き、ヴィルピンとともに泣いた。そうして人を頼りながらでも、ひとつの事件を解決してみせた。

 サラ・マルゲリット・ビアトリクス中尉。これからも大きくなるだろう。俺の手元を離れたことにより、あれはダンクルベールではなく、マギーになるのだから。

 しばらくして、ビアトリクスから相談があると言われた。できれば内密にしてほしいとも。

 それだけで、嬉しかった。ビアトリクスに見捨てられていなかったのだと、舞い上がるほどだった。

 個室。ダンクルベールとウトマン、ジョフロワ。対面に、ビアトリクスとエチエンヌ、そしてヴィルピンがいた。

「相談事だと聞いたのだが」

「あの、その、報告することがありまして」

 そう言いながらのビアトリクスの顔は、どこかもどかしそうだった。

「できたんです」

「できたって、何が?」

「好きな人が、できました」

 ビアトリクスの真っ赤な顔。

 ウトマンを見る。目が飛び出ていた。ヴィルピンは既に潤んでいた。エチエンヌは満面の笑みだった。

 次第に、それがほんとうのことだと感じはじめると、嬉しさと、何か別のものが込み上げてきた。

「シルヴィを預けた孤児院の、職員さん。すごく感じのいいひとで、何でも聞いてくれて。好きだって、言ってくれたんです。それで、結婚を前提にお付き合いをすることにしました」

「ほんとうかね?マギー」

「はい。ジスカールの親分にも、ご了承をいただきました」

「でかしたぞ、マギー」

 ダンクルベールは立ち上がり、ビアトリクスを抱きしめていた。杖なんて放り捨てて、飛び上がっていた。

「おめでとう、そしてよかった。ほんとうによかった」

「ありがとうございます、課長。そして、痛い。痛いです。課長」

「最初、私に相談しに来たの。オーブリーに報告したいけど、気恥ずかしいからって。だからヴィルピン君とウトマン君、ジョフロワ課長も含めて報告しようって」

「ああ、アニー。本当に、何から何まで」

「まるで自分の娘みたいじゃないですか、ダンクルベール課長。まあ確かに、気持ちはわからなくもないですがね」

「娘みたいなものですよ、ジョフロワ課長。ああ、本当に嬉しい。お前は俺の手を離れて、ほんとうにマギーになってくれたんだね」

「はい。私はマギー。サラ・マルゲリット・ビアトリクスです。そしてきっと、ビアトリクス・ロパルツになれます」

「課長。私は嬉しいです。マギーが、妹が立派になってくれた。そして幸せを掴んでくれたって」

 あのウトマンが、肩を震わせていた。ヴィルピンがぼろぼろ泣きながら、ウトマンの隣りにいてくれた。

「いやあ、大変だったわ。覚悟を決めれなくって、何回も指導してくれって頼まれて」

「アニー先輩には、ご迷惑を掛けました」

「最近、うわっついてるなと思ってしまっていたが、それだったか。よおし、それじゃあ今日は早上がりで前祝いだぞ。ダンクルベール課長、それでいいでしょう?」

「そうですな、ジョフロワ課長。ちゃんとお相手のことを聞いて、必要であれば俺たちが面接しなければなりませんから」

「えっ。それはマギーちゃんが可愛そうですよ」

「いいや、ヴィルピン。私たちのマギーのお婿さんになるやつだぞ。ちゃんと見定めて、マギーにふさわしいか、確かめなきゃいけないからな」

「あらあら、ウトマン君ったら、張り切っちゃって、まあ」

「大切な妹ですもの。幸せにできないようなやつだったら、張り倒してやりますからね」

 鼻息の荒いウトマンに、皆で笑ってしまった。ここまで感情を高ぶらせているウトマンを見るのは、はじめてかもしれない。

 親元の手を離れて、子どもは大きくなる。親の知らないところで、いろいろなことを覚えて、たくましくなる。それでいいのだろう。ダンクルベールはそう思うことにした。

 おめでとう、そして、これからも。マギー。


(つづく)

Reference & Keyword

・インナーサークル(ブラックメタル)

・人民寺院


改版記録

・24.11.8:初版

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