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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アルゴスは眠らない

作者: 木下森人

 プライバシーとは、悪いことを隠すということではありません。プライバシーとは力です。プライバシーとはあなた自身のことです。プライバシーは自分であるための権利です。他人に害を与えない限り自分らしく生きることのできる権利です。思索する時、文章を書く時、物語を想像する時に、他人の判断や偏見から自らを守る権利です。自分とは誰で、どのような人間になりたいのか、このことを誰に伝えるかを決めることのできる権利です。

                 ――エドワード・スノーデン

        1


 イロナは玄関のベルを押して、ふと不思議に思った。なぜこれをベルだのチャイムだのと呼ぶのだろうか。ボタンを押したら来客通知のアナウンスが流れるとともに、住人が装着しているイオフォン(ioPhone)へ玄関前の映像が拡張現実(AR)に表示される。その過程のどこにベルの要素が?

《……どちらさま?》一分ほどして、スピーカーで住人から応答が入った。若い男の声。あからさまに警戒心がにじみ出ている。

 イロナは身分証と書類を取り出して、玄関前のカメラに向かって突きつける。「赤根アキムね。アタシはNPC東日本犯罪捜査部探偵課の井上イロナよ。この家に家宅捜索令状が出ているわ。今すぐ玄関を開けなさい」

 この様子は玄関の防犯カメラと、イロナのイオフォンに捉えられている。すなわち、アルゴスが見ているということだ。もし赤根が指示に従わず玄関を開けなければ、公務執行妨害等の余罪が即座に追加される。

 また、イオフォンは現在、イロナの視界と周囲の音声をクリッターのプライベートチャンネルで配信中だ。状況は探偵課の仲間たちや、近隣をパトロールしている警備員へ伝わっている。何かトラブルが起こればすぐに駆けつけて来る。

《ちょ、ちょっと待っててください。今トイレで――》

「べつにあわてなくても、ケツを拭く時間くらい待ってあげる」

《実はそれが、ひどい下痢で》

「……しかたないわね。なら、そのままこもっていても全然構わないわ。この令状には、玄関を破って突入する許可もふくまれているから。刑事訴訟法第百十四条第三項、アルゴスの監視下なら立会人は不要なの」

《いや、すぐ出ますから! ホント出ますから! だからあと少しだけ! 三十秒だけプリーズ!》

「却下。証拠隠滅のおそれがあるわ。これより突入します」

 イロナはホルスターからゲイザー銃を抜き、玄関の電子ロックを破壊しようと構えたが、ちょうど流水音が聞こえてきた。ついであわただしい足音が近づいてくる。

 玄関が開き、なかから蒼白い顔の青年が顔を覗かせた。ちゃんとイオフォンを装着しているが、最初にスピーカーでの返答が遅かった点から、ついさっきまでシャットダウンさせていた可能性が高い。イオフォンのウェブカメラは、スリープ時もアルゴスへ動画を送信し続ける。何のやましいところのない人間なら、たとえ風呂上がりの全裸をさらそうが意に介さない。アルゴスに見られて恥ずかしがる人間などいない。言い換えると、わざわざシャットダウンさせていたなら、何かやましいところがあるのだ。

「まだ三十秒経っていないけど?」

「玄関が壊れるより、汚れた下着を捨てるほうが安上がりですからね。それで、家宅捜索でしたっけ? 何かの間違いじゃないですか?」

「間違いかどうか、それを確認しに来たのよ」赤根のカラダを押しのけ、イロナは家のなかへと上がり込む。一人暮らしの学生にふさわしいワンルームだ。雑然として掃除が行き届いていないわりに、不自然なほど何の臭いもしない。直前に強力な瞬間消臭剤を使ったか。むろん想定の範囲内だ。

 本棚には電子書籍が当たり前の時代にめずらしく、紙の本が何冊も並んでいる。おまけにハードカバーとなると、相当値が張るに違いない。だがイロナはいっさい斟酌せず、それらを無造作に手で払い落とした。隠し事を暴くなら徹底的に、だ。さらに室内のものをかたっぱしからひっくり返していく。まるで台風にでもなった気分だ。

「ここかな? それともこっちか?」

「おい、乱暴はやめてくれ! これは官憲の横暴だ!」

「むずかしい言葉を使いたいお年ごろ? でもそれだと誤用だからね。NPCは官じゃなくて民なんだから」

 赤根はすっかり激昂して、「どっちでも同じことだろ! クソッタレ、システムに従うだけのノン()プレイヤー()キャラクター()が――とにかく、この様子は今もおれのクリッターで配信中なんだからな! アルゴスだって違法捜査を許すもんか!」

 追い詰められているはずなのに、赤根は妙に自信ありげだ。実際、目当ての証拠品はいっこうに見つからない。何か見当違いをしているのだろうか。

「何を探してるのか知らないけどな、そんだけハデにやれば満足だろ? かたづけはいいから、もう帰ってくれ」

「……水」

「なに?」

「流してたわね? トイレを。玄関に出る前に」

 赤根はあきれた様子で苦笑し、「……そりゃ、流さないままトイレ出ないだろ」

 そのわずかな動揺を、イロナはけっして見逃さなかった。直感にしたがってトイレへ。すると案の定、便器のバックモニターカメラがテープで目隠しされていた。やはりトイレへ流して証拠隠滅したに違いない。イロナは舌打ちした。

 だが、あきらめるのはまだ早い。イロナは水洗便器に流されそうな勢いで顔を突っ込み、ふちの裏側をイオフォンのレンズ越しに凝視する。「……見つ、けた」

 そこには燃え尽きた灰が、ほんのわずかに残留していた。流す際に舞い上がって付着したのだろう。

 かの名探偵シャーロック・ホームズは、灰を見ただけで煙草の銘柄まで当てることができたという。べつにそこまでの能力はなくとも、アルゴスは瞬時にそれを煙草の灰だと割り出した。

「赤根アキム。たばこ単純所持、および喫煙容疑でおまえを逮捕する」

 振り返ってそう告げるかしないうちに、赤根はみずからのイオフォンを投げ捨て、一目散に玄関へ駆け出した。だが、ムダなあがきだ。裸眼になって位置情報を拾われないようにしようと、外にはそこらじゅう防犯カメラが設置されていて、道路を行き交う自動車の車載カメラ、そして人々が身に着けているイオフォンもある。百目の巨人(アルゴス)から逃れるすべはない。

 もっとも、いくら居場所をたやすく追えるからといって、ここで逃がしてしまってはイロナの評価に響く。それに裸眼の人間が往来に現れたら、市民によけいな恐怖を与えてしまう。彼女はふたたびゲイザー銃を抜くと、赤根の背中へ向けて引き金を引く。銃口から指向性の音響が発射され、赤根の背中を射抜いた。

「ぐぇええ」

 赤根は平衡感覚、自律神経を狂わされ、まともに立っていられなくなり、その場にひざから崩れ落ちた。イロナは油断なく赤根に手錠をかけると、ふところから手鏡を取り出し、自分と犯人の姿が映るようにして手鏡を構え、イオフォンでスクリーンショットを撮影した。メガネ型ウェアラブル端末は自撮りに適していないため、手鏡を持ち歩くのがスタンダードとなっている。

《被疑者確保(/・ω・)/》

 画像を配信すると、捜査部のプライベートチャンネルで視聴していた同僚たちから、さっそく《いいね!》と称賛のコメントが多数贈られてきた。また、ほかの喫煙者を逮捕へ向かっていた者から続々と逮捕の配信が流れてきたので、イロナも《いいね!》を返す。

 平成以前は、SNSにコメントや画像・動画をアップすることを、「投稿」と言ったらしい。だが、それは死語だ。令和以後は「配信」と言う。なぜなら常時接続したままだからだ。日常的な会話やつぶやきはすべてマイクに拾われ、視界とリンクされたカメラ映像も、ネット上へひたすら垂れ流されている。今どき何がバズるか予想できないのだから、どう考えてもそれが合理的だ。

 イオフォンでパブリックチャンネルに接続すれば、人工知能が趣味嗜好に合った配信をAR表示してくれる。高齢者からすると――この呼びかたは差別なのでベテランと呼ぶべき――そんな状態で目がまわらないか不思議らしいが、若者としては「どうしてまばたきがそんなにお上手なの?」と言われているような気分だ。情報の取捨選択は無意識的なもので、人間に生来備わっているものだろうに。きっとあまりに肉体が衰えたせいで、全盛期の感覚を忘れてしまったに違いない。

 王様の耳はロバの耳。穴に向かって叫んだ言葉は、葦の声に乗って全世界へと拡散していく――ただし、相手の耳が馬でなければ。


        2


 常時(Always,)即時(Real-time,)大規模(Grandscale) かつ(and) 全体的な(Overall) 監視システム(Sentinel)――ARGOSの登場により、日本社会は一変した。

 ベースとなったのは、アメリカの国家安全保障局(NSA)が使用していた監視システムだ。NSAは無差別に収集した個人情報を分析官の目にさらす重大なプライバシー侵害を犯し、そのスキャンダルは全世界を揺るがした。対してアルゴスの場合、データの分析を人工知能に一から十までまかせきることで、あいだに人間の目がいっさい介在することはない。それゆえ監視社会パノプティコンとプライバシー保護という、相反する要素を両立可能にした。

 アルゴスは日本国内のネットワーク上に存在する、ありとあらゆるカメラを掌握している。街角の防犯カメラ、自動車の車載カメラ、そして個々人が所有するカメラ内臓端末のすべて。そこに犯罪行為が映り込めば、個人情報データベースと照合して即座に犯人の身元を特定できるし、各所の映像をつなぎ合わせ、犯人の足取りを突き止めることも容易だ。また犯罪が直接撮影されなくとも、犯行現場周囲の撮影記録から、瞬時に容疑者を絞り込める。旧時代における自動速度違反取締装置オービスの進化版と言えるだろう。

 監視体制を完成させる上で、イオフォンの果たした役割は非常に大きい。このウェアラブルAR端末は、今や国民の九割を超える普及率であり、それはすなわち密告者だらけなのと同義だ。とはいえ当人たちにその意識は薄い。せいぜい、裸眼の人間を見るとおびえたり警戒したりする程度か。軍用ではとっくにコンタクトレンズ型まで技術が進歩しているにも関わらず、一般市場ではいまだメガネ型しか販売されていないのは、そういう事情がある。

 アルゴスが稼働してからというもの、犯罪発生件数は減少の一途をたどり、同時に犯罪検挙率は向上した。当然の流れとして、政府が多額の税金で警察組織を維持する必要性も薄くなる。やがて都道府県警察は民営化、日本(National)警察(Police)株式会社(Company)――NPCが創設された。捜査の大半はアルゴスが自動的にこなしてくれるため、民間警察の仕事は肉体が必要な部分だけだ。とはいえ少なからず荒事もあるし、アルゴスの分析だけだと決め手に欠ける場合は物的証拠を見つける必要も出てくる。

 今回の事件では、前日に逮捕された煙草密売人の足取りから顧客とおぼしき者をリストアップ、一斉検挙の運びとなった。最終的な逮捕者は二十六名、これほどの大捕物は一年に一度あるかないかだろう。

 イロナは社屋へ戻って尋問課に赤根の身柄を引きわたすと、休憩がてらイオフォンで家族のプライベートチャンネルにつないだ。

「エリス。今日は遅いかもって言ったけど、案外ガサ入れが早く終わったわ。定時で上がれそう。やっぱりアタシの分の夕食もダルヴリャに用意させて」

《うん、わかった。ところで悪いんだけどさ、帰りにビール買って来てくれない? 切らしちゃってた》

「いいわよ。何がいい?」

《チャーン》

「相変わらずアレ好きよねアンタ。水っぽくない?」

《自分の分は好きなの買えばいいじゃない。それともイロナは飲まないの? ボクひとり酔わせてどうするつもり?》

 エリスの蠱惑的な声音に、イロナは顔を赤らめた。

《なんちゃって。じゃあ待ってるから》

 休憩を終えて、デスクで今日の報告書をまとめ上げる。家宅捜索の様子は配信するだけでなく録画もおこなっていたので、今さら書面にする意義をまったく見出せないのだが、それが規則である以上従うしかない。眠気と闘いながら必死に格闘し、書き上がったころにはちょうど定時になっていた。

 退社して愛車のグラン・トリノに乗り込む。近ごろはこういうクラシックカーの復刻版が流行っている。ただし中身は完全に別物で、コブラエンジンの代わりに積まれているのは電動モーターだ。加えて改正道路交通法により、公道においては自動運転でしか走行できない。かつての制限速度は一般道で時速六十キロメートルだったらしいが、そんなノロさでよくガマンできたものだ。自動運転ではるかに安全かつ効率的な走行が可能になった現在は、時速百八十キロメートルを常時出せる。

 途中、近所のスーパーに寄り道して、頼まれていたビールと適当につまみをいくつか買う。チャーンを手に取る場面をパブリックチャンネルで配信すると、エリスをふくめ複数の《いいね!》がついた。レジで支払いをする必要はない。アルゴスが顔認証で個人を識別し、登録された銀行口座から自動で引き落としてくれる。

 西新宿にある社屋から三十分かからず、所沢の高層マンションへ到着した。正面入口でイロナを下ろし、グラン・トリノは無人のまま地下駐車場へ勝手に降りていく。イロナは顔認証でエントランスのロックを解除し、エレベーターで五十二階へ。自宅の玄関前まで来たところで、出迎えが現れた。イロナの位置情報で確認していたのだ。

「おかえりなさいませイロナ様」

「ただいまダルヴリャ」

「おふたりはすでに帰宅しています。それはビールですね。冷蔵庫に入れておきましょう」

「ええ、おねがい。ところで今夜のメニューは?」

「イロナ様のお好きなカレーです」

「やったー」

 コレはピグマリオン社製家庭用アンドロイド『ガラテア六型』だ。性能と価格のバランスがよく、国産機種では一番人気がある。自動運転車一台買うよりは高級なものの、最新式のあらゆる全自動家電を一式そろえるよりは安上がりだ。それと、アンドロイドが運転する車両も法的に自動運転車と見なされるため、自動運転機能のない中古車を安く購入して運転させる者も少なくない。実際、ダルヴリャにはもう一台の車で登下校の送迎をさせている。もちろん、アンドロイドにもアルゴスと接続されたカメラが内蔵されているので、防犯面でも安心だ。

 精巧に人間を模していながら、一目で人間ではないとわかる硬質な素材感。それでいて得も言われぬ艶めかしさ。エリスの趣味であるヴィクトリアン・メイド姿がよく似合っている。ちなみに個体登録名のダルヴリャはイロナが名づけた。

 ちょうど便意をもよおしたので、イロナはトイレへ入った。排便後ウォシュレットで洗浄し、バックモニターカメラで汚れが落ちたかチェックしてから、トイレットペーパーで水気を拭きとる。ベテランにはこのバックモニターを妙に嫌がる者が多いのだが、理解不能と言わざるをえない。尻の状態が見えなければ、紙をムダに消費してしまうではないか。

 洗面所で両手と口腔、咽頭を消毒してからリビングへ。

「ただいまエリス」

「おかえりイロナ。ちゃんと消毒した?」

「もちろん」イロナがうなずくと、エリスからおかえりのキスを浴びせかけられた。

 野村エリスとは八年前に結婚した。高校時代、シャーロック・ホームズ研究部を作ろうとしていた優等生のエリスに、同じクラスで帰宅部だったイロナがムリヤリ入部させられたのが馴れ初めだ。

 エリスは現在、AIの研究をしている。なんでも、AIに創作させようとしているらしい。大昔にはSF作家・星新一の作品を分析させて、新たな掌編小説を書かせる研究もあったそうだが、エリスの場合それとは方向性が異なる。彼女が書かせようとしているのはホームズ・パスティーシュ――つまりホームズ作品の二次創作だ。人工知能にホームズ作品の正典やパスティーシュだけでなく、舞台となっている当時の歴史、さらには同時代の名作なども大量にインプット、そこからミッシングリンクをシミュレーションさせ、ストーリーとしてアウトプットさせようとしているそうだ。

「今日はね、『マイク』がなかなかよさげな物語を作りかけたんだよ」

「へえ、どんな?」

「『一八七四年、アメリカに潜伏中だったスコットランドヤード秘密捜査部のメンバーが殺された。犯人は裏切り者のテオフラスト・ルパンだ。彼はジキル博士の薬で二十面相もの姿に変身することができる。秘密捜査部の若き捜査官マイクロフト・ホームズは、ピンカートン探偵社のバーディ・エドワーズとともに、テオフラスト・ルパンをどこまでも追跡する』とまあこんなカンジなんだけど」

「へえ、おもしろそうじゃない。最後はどうなるの?」

「それが、あいにくオチの部分でエラーになっちゃってさ。どうも中盤で論理矛盾が発生したみたい。まだまだネタの取捨選択が甘いから、どうしても途中で構成にムリが出てきちゃうんだよね」

 イロナは肩をすくめた。「何を言ってるのかサッパリわからないわ」

「べつにわからなくていいよ。イロナはただ、最初の読者になってくれればいいんだから」

「うん。楽しみにしてる」

「ところで産院から連絡があったんだけど、予定通り三日後出産だって。仕事のほうは大丈夫?」

「非番だから平気。よっぽどヤバイ事件が起きなきゃ呼び出されない」

「ならよかった。出産は午前中に終わるみたいだから、午後はレンカの宿題でも手伝ってやって」

「そういえばレンカ、去年の夏休みもかなり苦戦してたわね。今もやってるの?」

「子供部屋にこもって、うんうんうなってる」

 イロナはキッチンで料理しているダルヴリャに呼びかける。「ねえダルヴリャ、夕飯が出来るまでどのくらい?」

「あと二十分ほどです」

「じゃあ待ってるあいだ、さっそく手伝ってくるわ。もう八月もなかばだし、なるべく早く進めたほうがいいでしょ。来週はサマーキャンプもあるんだし」

「じゃあよろしく。ボクじゃ戦力になれないから」エリスはさびしげに言う。「ここでひとり、キミの買って来てくれたビールで晩酌しながら応援するさ」

「あんまり飲みすぎないでよ? このあいだもソファーで酔いつぶれたアンタをベッドへ運ぶの、大変だったんだから。ダルヴリャは充電モード入ってたし」

 するとエリスは愉快そうにほほえんで、「ほほーう? そんなこと言っちゃって、すっかり眠りこけてるボクに、あんなエッチなイタズラしたくせに」

「うげっ、まさか起きて――」そう口にしてから、イロナはカマをかけられたと気づいた。

「最近ご無沙汰だったもんね。レンカがサマーキャンプ行ったらふたりきりだし、たっぷりかわいがってあげる」


        3


 イロナは子供部屋のドアをノックした。「レンカ? 入るわよ」

 返事はなかったが、拒否されなかったのでかまわず足を踏み入れる。案の定、レンカは宿題に集中していた。イオフォンすら外して、よけいなものを残らずシャットアウトしている。

「――あ、ママおかえり」レンカは一瞥もせず告げた。

「ただいま」

 レンカは今年で小学二年生だ。まぎれもなくイロナとエリス、ふたりの遺伝子を受け継いでいる。遺伝子編集技術の発達は、同性間で実子を生み出させることさえ可能にした。イロナからすれば、二十一世紀初頭は暗黒時代と言わざるをえない。だってそうだろう。異性間でしか愛の結晶を産み出せないなんて、絶対に正しいわけがない。

 レンカは机の原稿用紙へ一心不乱に向かっている。鉛筆で描いた下書きにペン入れしているようだ。その横顔が凛々しかったので、ずいぶん大きくなったと感慨深かったり、ウエディングドレスが似合うだろうとつい考えてしまったりしながら、進み具合はどんなものだろうと覗き込む。

「あれ? もう扉絵の作業に入ってるのね。苦戦してるっていうから、よっぽど遅れてるのかと思ったけど」

 レンカは首を横に振る。「……本文はまだできてない」

「出来てないって、どのくらい?」

「そもそも、ネームが終わってない」

「じゃあなんで、扉絵にペン入れしてるのよ?」

「レンカ、悟り、開いちゃったんだよね……。ネタが思いつかないの悩んで、ひっきょう何もしないより、進められるタスクを先にとりあえず進めちゃったほうがいいって。それに、手を動かしながらでもネタは考えられるし」

「なるほどぉ……」

 マンガは今や小中学校で必須科目となっている。かつて、性的・暴力的な創作物は犯罪を助長するという論調があった。それは実のところ現在も変わったわけではないが、あくまで健全な創作物が健全な人間を生み出すという論理の裏返しとして、だ。つまりは、正義の味方に憧れた子供は善人になるという寸法である。子供たちは創作物を通して、正義とは、愛とは、自由とは何かを自然と学んでくれる。むろん、正義を描くためには敵対する悪が必要であり、魅力的に悪が描かれれば、子供が悪のほうに惹かれるリスクも存在する。しかしだからこそ、悪を悪と定義する正しい創作物を見せるべきで、いっそのこと自分で作らせればなお効果的だ。物語を創作しながら、善悪の判断基準を効率的に身に着けていくことができる。

 物語であればマンガにかぎらず小説でもよいが、マンガならば同時に美的センスも身につけられる。それに性的・暴力的な描写は、文章よりも視覚的なほうが「徒に性欲を刺激・興奮させ」「普通人の正常な性的羞恥心を害する」というのが文部科学省の公式見解であり、線引きを学ばせるにはマンガが有用と考えられている。

 教育でマンガを用いることについて、世論はおおむね肯定的だが、ある一点においては批判が多い。それはアナログ作画しか許さない点だ。プロ作家の大半が当たり前にデジタル作画をするようになって半世紀以上経過しているのに、あまりにもナンセンスだろう。文部科学省はイラストAIに描かせてしまうからと頑なに主張しているが、最近のイラストAI検知AIは優秀なので理由にならない。

「ちなみに、どのあたりでネームがつまってるの? というか、今回のマンガはどういうストーリー?」

 レンカはふんぞり返って、「王道ってヤツだよママ。ドラキュラ伯爵にさらわれたアイリーン・アドラーを救うため、シャーロック・ホームズが聖剣エクスカリバーでドラキュラ城に攻め込むの」

 何やら明らかにエリスの影響を受けた内容で、イロナはほほえましくなった。これでエリスが手伝えないのは実にかわいそうだ。だが、残念ながら本人も自覚しているとおり、エリスは物語の才能も絵心も壊滅的に欠如している。

「ちょっと、なに笑ってるのママ。こっちは笑いごとじゃないんだよ。オチが思いつかなくてホント困ってるんだから」

「でも、王道なんでしょ? だったら伯爵を倒して、アドラーを助ければそれでいいんじゃない? まさに王道」

「ママに言われなくたって、当然そのつもりだよ。だから困ってるんじゃない」

 レンカが何を言いたいのかわからず、イロナは困惑して首をかしげる。「えっと、つまりどういうことなの?」

「だって! 伯爵が強すぎるんだもん!」

「……ハァ?」

「ちょっと調べてみたんだけどさ」レンカはイオフォンを装着して、イロナにテキストファイルを配信した。

 どうやら吸血鬼の能力や弱点についてまとめた資料のようだ。かなり几帳面に作成されている。こういう凝り性なところはエリス似か。

「吸血鬼って夜は物理無効なんだって。しかも十字架とかニンニクとか、追い払うだけで弱点ってレベルじゃないっていうか」

「だったら日中に戦わせればいいじゃない。ホームズからドラキュラ城に攻め込むわけだから、有利なタイミングを選べるでしょ」

「けどモタモタしてたら、アドラーが吸血鬼にされちゃうかもだし。それにドラキュラは頭いいから、日中を狙われるくらい予想してるだろうし。しかも吸血鬼ってね、昼でも怪力のままなんだよ。いくらバリツがあってもダメだよ。絶対ムリ。勝てっこない」

「じゃあエクスカリバーなら倒せることにすれば?」

「ママのバカ! そんなでうすえくすまきなはダメに決まってるでしょ!」

「なんて?」

「でうすえくすまきな! ご都合主義って意味だよ! そんなことも知らないの! ジョーシキだよジョーシキ!」

「ご都合主義って……だったら、なんでエクスカリバーなんか持たせたわけ? てか、なぜにエクスカリバー?」

「だってアーサー・コナン・ドイルだし」

「あ、そう……」

 イロナは正直メンドくさくなってきたが、投げ出すつもりはなかった。親が子を見捨てるわけにはいかない。

「えーっと……じゃあさ、ほら、アレよアレ……えー」「そうだ! アドラーが牢屋から逃げ出して、ドラキュラの棺桶を聖餅で消毒しちゃえばいいんだ! よし、その手でいこうっと! レンカったらもう天才!」

 親の心子知らずとはこのことだろう。レンカは勝手に納得して、ふたたび原稿へと向かってしまった。しかし娘がよろこんでいるなら、イロナも満足だ。邪魔をしないよう静かに部屋を抜け出す――と、レンカがこちらを振り返った。

「ママ、ありがとね」

「べつに、何も役に立つアドバイス出来てないわよ」

「そんなことないよ。たぶんママとカンカンガクガクの議論をしたから、レンカ思いつけたんだと思う。だから、ありがと」

「……そっか。どういたしまして」

 イロナの胸に、じんわりと温かい何かが染み込んでいくのを感じた。幸せとはこういう感覚を指すのだろう。

 ところで今のやり取りはパブリックチャンネルで世界じゅうに配信していたのだが、予想以上にバズってくれた。《いいね!》の数がうなぎのぼりだ。「やっぱりうちの娘、世界一カワイイ!」


        4


 三日後、家族三人は車で小平市にある産院へとやって来た。レンカを出産したときも利用した施設である。

 時間通り受付で手続きすると、分娩見学室へと案内された。部屋はガラスを隔てて分娩室と隣り合っており、分娩の様子がよく見える。

 準備はすでにととのっていて、室内でスタッフが開始時間を待っている。

《それではこれより術式を開始します》スピーカーを通して執刀医が告げた。《ひとによってはショッキングな光景になりますので、つらくなったらムリをせずご退室ください》

 まず分娩台に載せられた彼女の、ふくらんだ腹部にカミソリをあて、体毛を綺麗に剃り落とす。ツルツルになったそこを消毒液で殺菌する。

 いよいよ腹部にメスを入れて帝王切開。事前に麻酔を投与してあるので、彼女は痛みに暴れることなくおとなしくしている。

 そうして、腹のなかから新たな命が引きずり出された。元気いっぱいに産声を上げる。

《おめでとうございます。元気な女の子ですよ》

 初めて目にする光景に、レンカは声もなく見入っていた。

「どうレンカ? すごかったでしょ。レンカもああやって産まれてきたのよ。もちろんアタシもエリスも」

「今日からレンカはお姉ちゃんだから、お姉ちゃんらしくしっかりしないとね」

「……おねえちゃん、かァ……なんか、いいひびき……すごくいい……」レンカはウットリとした様子でため息をこぼす。「おねえちゃん、ねえさん、おねえ、レンねえ、ねえねえ、あねうえ、あねじゃ――アレ? そういえば妹の名前って何なの? レンカまだ教えてもらってないよ」

「……あ、そういえば名前つけるの忘れてた」

「ダメじゃん!」

「なんちゃって。ちゃんと考えてあるわ。アニチカよアニチカ。かわいいでしょ?」

「アニチカ――」

「それじゃあレンカ、かわいいアニチカをがんばって産んでくれた彼女に、ちゃんとお礼しとこうね」

 レンカは分娩室へ向き直り、「おサルさん、ありがとう!」

 分娩台の上で腹部の縫合手術を受けている彼女、黒い肌の彼女、腕が脚の二倍も長い彼女、全身を猩々緋の体毛に覆われた彼女、その名がマレー語で「森の人」を意味する彼女はそう、オランウータンだ。

 その昔とある水産系の大学で、サバにマグロを産ませるという画期的な養殖技術が開発された。それをとある遺伝子研究者が「人間にも応用できるのではないか」と考えたのが始まりだ。同じ類人猿であるゴリラやチンパンジーでも試されたが、オランウータンがもっとも適していた。

 当時は女性の社会進出が叫ばれる一方、妊娠・出産によるキャリアの中断が問題視されており、オランウータン代理子宮出産は賛否両論ながらも、またたくまに受け入れられていった。また、妊娠・出産は母子ともに多大な危険をともなう。過去には、どちらかの命を選ばなければならない状況も少なくなかったという。しかし代理子宮ならばそんな心配はない。いざとなればオランウータンを犠牲にすればよいのだ。現在では、出生率と女性労働者の増加によってGDPはうなぎのぼり、今やかつてないほどの好景気だ。

 今や自然妊娠による出産をあえて選ぶのは、動物愛護主義者くらいのものだろう。もっとも、絶滅の危機に瀕していたオランウータンが、かつての百倍近い個体数に増加できたのは、代理子宮の研究に付随して優れた繁殖技術が開発されたおかげだが。

《井上さんご一家。準備が出来ましたので面会室へどうぞ》

 アナウンスに従って移動すると、産湯でカラダを浄めてもらったアニチカが、ガラスの向こう側で眠っている。

「ちょっとオランウータンに似てない?」

「生まれたての赤ちゃんってだいたいそんなものよ」

「鼻はイロナに似てると思うな。耳の形はボク似かもだ」

 赤ちゃんはか弱い存在だ。細菌やウイルスへの感染は命取り、抱っこしてうっかり落としでもしたら一巻の終わり。だからこうして外から眺めるだけに留める。

 新生児はこれから産院で二週間ほど経過を観察し、問題がなければ普通養護保育園に三歳まで預けられるのが一般的だ。育児でもっともむずかしく危険のともなう時期を、プロフェッショナルたちが安心安全に育て上げてくれる。

 親自身の手で育ててあげたいなどというのは、しょせん親のエゴにすぎない。命の危険にさらされず、すこやかに成長できることこそが子供にとって一番幸せなのだ。

「また来週、会いに来るからね」


 アニチカにしばしの別れを告げて、三人は帰宅した。家ではダルヴリャが昼食に流しそうめんを用意して待っていた。

「ねえ、食べ終わったらイロナママもエリスママもマンガ手伝ってよね。レンカはひたすらペン入れするから、イロナママはベタとトーン、エリスママはケシゴムかけヨロシク」

「了解ですレンカ先生――と」突然イロナのイオフォンに、NPCの上司からメッセージが入った。「毛利部長、何かご用ですか?」

《非番中すまないな井上。緊急事態だ。急ぎ出社してくれ》

 毛利の緊迫した声色にただならぬ雰囲気を感じ取る。そもそも非番中の招集など初めての経験だ。ただごとではない。

「……いったい何があったんですか?」

《それは捜査会議で直接話す》

「了解しました」イロナはため息をつく。「ごめんレンカ。今日はアシスタント出来なくなっちゃった」

「えーっ! 困るよそれぇ。すごく困るぅ」

「ホントごめん。帰りにアイス買って来てあげるから。レンカの好きなラムレーズン」

「ならばゆるす。くるしうない」

 イロナが仕事着に着替えるため自室へ移動する。するとあとからエリスもついてきて、すがりつくように抱きつかれた。

「ちょっと、これじゃ着替えられないわ」

「呼び出しって、大丈夫なの?」エリスは不安げに顔を曇らせる。「よっぽどヤバイ事件が起きたってこと?」

「具体的な話はまだわからないわ。とにかく来てくれって。でも、何かやっかいなことが起きたのは間違いなさそう」

「……気をつけて」

「うん。レンカのことよろしく。ケシゴムかけは重要な仕事だから」

「そうだね。まかせといて」

「じゃあ行ってくる」

 イロナは手早く準備を済ませ、急ぎ西新宿のNPC東日本ビルへ向かった。


        5


 会議室にはイロナをふくめたNPC東日本犯罪捜査部探偵課のメンバーが、一人残らず集められていた。空いている席に座ると、同僚の伊藤ラニカが話しかけてきた。

「よォ井上、配信見たぜ。《いいね!》もしたが、出産おめでとう」

「ありがとう。ねえ、アンタはこの緊急招集の理由について、何か知ってる?」

「オレもハッキリしたことはサッパリだ。ただ、昨夜発生した殺しが関係してるらしい」

「殺し?」

「検死課のヤツらが話してるのを小耳に挟んだんだが、何でも強姦殺人だとか」

「そんなニュース、配信で流れて来なかったけど」

 昨夜の事件なら、遅くとも昼過ぎには報道されているはずだ。ましてや強姦殺人なんて凶悪事件はなおさらだろう。

「どうやら関係者に箝口令が敷かれてるみたいでな。ほら」伊藤は左斜め前に座っている山尾サシャをあごで指した。「昨夜はアイツが当直だったんだ。で、さっき廊下でちょいとばかし問い詰めてみたら、部長に口止めされてるってゲロりやがった」

「……なんだか顔色がずいぶん悪いみたいね。まあ夜勤で寝不足なんだろうけど」

「アレでもいくらかマシになったほうなんだぜ? ムリヤリ仮眠取らせたんだが、そりゃもうひどいありさまだった。ゾンビ映画に出演できそうなくらいな。いったい何があったんだか……」

 そこへようやく、毛利ラースロー捜査部長のお出ましだ。続けて白衣を着た男が入ってくる。鑑識検死課の遠藤リマンだ。

「待たせたな。さて諸君、これは毎度のことだから言わなくてもわかっていると思うが、捜査会議を始める前にパブリックチャンネルの配信を切断するように。そして、さらに今回は犯罪捜査部のプライベートチャンネルも切断したまえ。探偵課のプライベートチャンネルのみ視聴・配信を許可する」

 その指示に探偵たちはざわめいた。いつもならば事件捜査に関することは、探偵課にかぎらず犯罪捜査部全体で情報共有する慣習になっている。部署間の連携を緊密にするためだ。今回のようなことは前例にない。

「詳細を聞けば納得するだろうが、この事件は非常にデリケートな問題を孕んでいる。知る人間を極力限定したい」

「部長」伊藤が手を挙げて、「それはつまり、この事件に関する情報はいっさい他言無用ということですか?」

「そのとおりだ。ただし捜査の過程で必要だと判断した場合は、私の許可を得た場合にかぎり、捜査協力者への情報提供をおこなってもよい」

「了解しました」

「前置きはこのくらいにして、そろそろ本題に入ろう。――昨夜午前一時三十分ごろ、埼玉県川越市在住の女子大生、品川ノエミに対して公然わいせつ罪の逮捕状がアルゴスから自動請求された」

 公然わいせつ罪――ようするに露出狂だ。目立ちたがりか、見られて興奮する性癖の持ち主だろう。非常招集の理由としては解せない。伊藤の話では、確か強姦殺人ではなかったのか。

「裁判所は即座に令状を発行。当直の山尾が現場へ急行した――しかし、だ。いざ山尾が現場に到着してみると、そこにはなぜか被疑者の遺体があったのだ」

 毛利は捜査部のチャンネルに遺体の画像を配信した。それは明らかな他殺体だった。誰が見ても一目で、強姦され殺されたとわかる無惨な死体。しかし、そんなことはありえない。探偵たちのあいだに動揺が広がる。

「遺体のくわしい状態については、検死を担当した遠藤から説明してもらう」

「死因は頸部圧迫による窒息死、つまり絞殺です。被害者の首筋に大きな手形が残っていました。着衣は強引に引きちぎられた形跡があります。膣内に精液が残留していたのと、皮膚に赤毛が数本付着していました。染めたものではなく地毛です。どちらも犯人のものである可能性が高いでしょう。あと、血液中から多量のアルコールが検出されていますが、事件との因果関係は不明です」

「アルコールの件について報告があります」と山尾が起立して、「被害者がパブリックチャンネルで配信した動画を確認しました。昨夜十八時から二十三時過ぎまで、所属するテニスサークルの飲み会に参加していたようです」

「つまり状況から見て、泥酔状態で夜道をひとり歩いていたところ、何者かに襲われたといったところか」毛利は押し黙る探偵たちを睥睨し、「さて、ここまでの説明で何か質問は? ないのか? あるはずだろう」

 そう強く促されても、誰ひとり発言しようとはしない。イロナとてべつに疑念がないわけではなく、むしろ先を争ってでも尋ねたかった。しかしその疑念を口に出したとき、事実と確定してしまうのはおそろしくて。

 けれどもその一方で、口を閉ざし続けるのもまた限界だった。

 イロナは杞憂であることを祈りながら、「逮捕状に行き違いがあったということでしょうか? 現場を映したカメラの映像が証拠不十分で、屋外での性行為が公然わいせつ罪としてひとまず認定されたと。アルゴスは後追いで殺人の発生を認定したのですよね?」

 すると毛利は告げた。「諸君、覚悟を決めたまえ。本件はこの国の秩序をゆるがす重大事だ」

 その言葉で探偵たちは理解した。アルゴスが間違った判断をしたのだと。

 信じがたい思いだった。信じたくなどなかった。確かに箝口令を敷くのも当然だろう。もしこの事実が世間に知られれば、間違いなくパニックになる。

 現在の日本社会はアルゴスに治安維持を頼り切っている。それが能不全に陥ったのだとすれば、比喩でも何でもなくこの国が崩壊しかねない。早急に犯人を逮捕し、不具合の原因を突き止める必要がある。

 だが、いったいどうやって?

 アルゴス抜きの捜査など、この場の誰ひとり経験がないというのに。


        6


 自動的にカメラで犯罪行為を自動的に監視してくれるAIが、正常に働きませんでした。どうすればいいでしょうか?

 そう問われたら、現行法にうといベテランはこう答えるだろう――人間の目で映像を直接確認すれば犯人が映っているはずだ、と。

 あいにく、そうは問屋が卸さない。何の制限もなく、アルゴスが完璧な監視社会パノプティコンを構築できたと思ったら大間違いだ。

 探偵たちの前に、改正個人情報保護法の分厚い壁が立ちふさがる。同法の規定により、人間に防犯カメラの映像を確認する権利は与えられていない。なぜならプライベートの侵害になるからだ。たとえ事件現場の映像だろうと例外はない。探偵に与えられる情報はアルゴスの分析結果――すなわち犯罪容疑の内容と、政府のデータベースから抽出された被疑者の個人情報に限られる。この鉄則を根拠に、アルゴスはネットワーク上に存在するすべてのカメラを掌握し、政府は全国民と入国者(外交関係者を除く)に対し、個人情報登録を強制している。

 ただし、例えばカメラが街頭設置などの公共物ではなく、所有者が自主的に映像を提供する場合は、同法の適用外となる。またパブリックチャンネルに配信されたものであれば、その他一般人と同様、探偵が視聴することは何ら問題にならない。

 残念ながら被害者は事件発生時、音声配信しかおこなっていなかったが、そこには彼女の悲鳴に交じり、犯人のものとおぼしき声が記録されていた。

「スペイン語、かしらね?」とイロナ。

「いや、ロシア語じゃないか」と伊藤。

「私にはフランス語っぽく聞こえるが」と山尾。

 ほかにもドイツ語やイタリア語など、犯人の声に対する印象はバラバラだった。とにかく日本語ではないという点で一致しているものの、これだけではたいした手がかりにならない。せいぜい外国人かもしれないというぐらいか。

 カメラの映像は確認できない。なるほど、ならば現場に残されていた赤毛と精液からDNAを分析してみてはどうか。容疑者をまったく絞り込めていない段階でも、性別や人種などをある程度特定できさえすれば、捜査に大きく貢献するはず――しかしこれもNGだ。

 今の時代、DNAのあつかいは昔よりはるかに神経質だ。全国民のDNAが採取されてデータベース化された一方、改正個人情報保護法により、本人の意思なくDNAを分析することは禁じられている。たとえ犯人のDNAであっても例外ではない。犯罪捜査のために許されているのは、採取されたDNAをデータベースと照合するだけだ。そしてお察しの通り、赤毛の持ち主は未登録だった。

 現時点で手がかり皆無というべき状況だが、それでも推測できることはある。犯人はおそらく外国人の男で、しかも正規の入国審査を経ていないと思われる。そう考えればデータベースに存在しないことの説明はつく。ひそかに出産された無国籍者の可能性もゼロではないが、蓋然性は低い。ほとんどの国民が代理子宮出産を利用し、経口避妊薬は確実かつ妊娠初期段階なら中絶にも効果を発揮、たとえ望まぬ妊娠をしたとしても選択肢は中絶だけでなく、代理子宮オランウータンに胎児を移植することさえ可能だ。密入国者のほうがよほど現実的だろう。

 ただし、いくら個人情報データベースに無登録だからと言って、それでアルゴスが犯罪に対し沈黙してしまうわけではない。データベースに登録がない人間に対しては、登録なしと回答するよう当然設定されている。事実、過去に密入国者の犯罪が起きた際はそのような反応を示していたし、犯人がふたたびカメラに映った際は位置情報を提供させることも可能だった。にもかかわらず、今回はそれもない。アルゴスにとって、今回の事件に殺人犯そのものが存在していないようだ。

 こうなるとゆいいつの糸口は、現場に残されていた赤毛だけだ。平成以前の日本人と比べて人種も多様化しているが、だからこそ劣性遺伝である赤毛はめずらしい。人海戦術で赤毛の男を手当たりしだい拘束すれば、案外たやすく犯人に行き当たるかもしれない。もっとも、アルゴス頼りで民営化された警察に、それを実行できるだけの人員は乏しいのだが。たとえ人員を確保できるとしても、情報漏洩のリスクを考えると、本件に関わる人間をあまり増やせない。とはいえ背に腹は代えられないので、いよいよとなれば検討の余地がある。

 だが本件の場合、犯人を逮捕できさえすればめでたく解決というわけではない。アルゴスが判断を誤った原因は何か突き止める必要がある。それに原因さえ判明すれば、おのずと犯人の正体にも近づけるだろう。

 そこで、イロナは法務省を訪れた。アルゴスのメンテナンスを担当する技師に話を聞くためだ。彼女にこの役目が割り当てられたのは、ひとえに彼女の伴侶パートナーが人工知能研究者だからだ。その手の人種のあつかいには慣れているだろうという判断である。エリスが変人扱いされているようで、イロナは釈然としなかったが。

「はじめまして。主任技師の長井ドルコです」

「NPC東日本犯罪捜査部探偵課の井上イロナです。本日はお時間をいただきありがとうございます」

 ふたりはおたがいにAR上で名刺データを交換した。

「確か野村エリス博士のパートナーですよね? 前に彼女の配信でお姿を拝見いたしました。博士の研究には私もたいへん興味をいだいておりまして」

「そうですか。こんな状況でなければ、うちのエリスについて朝まで語り合いたいところですが……あいにく時間が許してくれません。さっそく本題に移らせてください」

「それで、本日はどういったご用件で?」

 イロナは事件について包み隠さず情報を明かした。万全の捜査協力を得るには必要不可欠だ。むろん毛利部長からの許可は取ってある。

「ぜひとも専門家としてのご意見をおうかがいしたいのですが。今回の事件について、どのような原因が考えられますか?」

 すると長井は逡巡した様子で、「はっきり申し上げますが、皆目見当もつきません」

 さすがに何かしらの推測は聞けると考えていたので、その答えにイロナは仰天した。「本当に何ひとつ思いつかないと? 失礼ですがそちらのお仕事は、アルゴスをより完璧にするため、システムをアップデートしていくことだと聞いていますが」

「厳密には、新法や法改正による新たな犯罪行為を、システムに入力することですね。例えば禁酒法が公布されたとしましょう。われわれが施行日までにシステムを条文通りアップデートできなければ、たとえカメラの前で飲酒しようと、アルゴスはそれを犯罪だと認識できないわけです」

「なら、万が一アップデート作業に不備があった場合、アルゴスが正常に働かないこともありえますよね?」

「否定はしません。むろんそのようなことがないよう、万全を期して作業に当たっていますが。実のところ、アルゴスと禁止薬物等の取り締まりは相性が悪いんです。コカインと小麦粉の区別を、映像だけでAIに判別させるのは限度がありますからね」

「しかし実際、取り締まりに不都合を感じてはいませんが」

「それはアルゴスが禁止薬物そのものではなく、禁止薬物を摂取する人間のほうに注目しているからです。アルゴスの見ている世界は、人間のそれと大きく異なります。単に監視を自動化しているだけではないのですよ」

「どういうことですか?」

「これはもともとロシアで開発された技術ですが、人間の身体は精神状態によって肉眼ではわからない振動をしていて、アルゴスは映像からこの振動パターンを分析しているんです。薬物使用者の精神状態は言わずもがなでしょう。この機能は攻撃性に対して特に効果を発揮します。映画のアクションシーンと現実の暴力行為を、敵意・殺意の有無から明確に判別できるわけです」

 言われてみれば、イロナも学生時代にそのような仕組みを授業で習った気がする。とはいえ実際の現場で意識することはなかったが。

「ひるがえって、今回の事件に当てはめてみましょう。現場で起きたのが強姦殺人であった以上、犯人の身体には攻撃性と殺意の振動パターンが発生していたはずです。それをアルゴスが見誤ることは百パーセントありえません。断言してもいい」

「しかし、現にアルゴスは公然わいせつと判断をくだしているんですよ? だったら……そう、何者かがアルゴスをクラッキングした可能性は?」

「それはありえません。アルゴスのセキュリティは鉄壁です。何の痕跡も残さず侵入するのは不可能でしょう。たとえそれができる凄腕のクラッカーだとしても、ならば事件の発生そのものを消したはずです。あえてべつの罪状に誤認させることのメリットはありません」

「では、いったい何が原因だっていうんです?」

「ですから最初に申し上げたとおり、まったく見当もつきません。ただ――」

「ただ、何です?」

「もしかして犯人は、透明人間なのではないでしょうか?」

 イロナは耳を疑った。

「自分でもバカなことを言っているのはわかっています。非現実的だと。しかし犯人が透明人間なら、疑問はすべて解決するんです。透明人間であればカメラに映らないので、アルゴスは被害者が半裸で自慰行為に耽っていると判断するでしょう」

「まあ、確かにそうなりますかね……」

 そんなことを言われても困る。いくら筋が通っているからといって、イロナが次の捜査会議で「犯人は透明人間の可能性があります。空からペンキの雨を降らせましょう」などと主張したら、間違いなく正気を疑われるだろう。

 結局、イロナはこの聴取で何の成果も得られなかった。


        7


 事件発生から三日が経過した。けれども、捜査は一向に進展していない。

 理由は明白だろう。今の日本には、アルゴスの指示にしたがって被疑者を逮捕するだけの、探偵とは名ばかりの木偶しか残っていない。ノンプレイヤーキャラクターとはよく言ったものだ。

 アルゴスとて常に被疑者を一名に絞り込めるわけではないし、逮捕・起訴するための決め手となる証拠を見つけなければならないこともある。しかし、元来その段階へ至るまでの過程こそが捜査活動と呼ばれていたのであり、NPCの探偵がこれまでやってきたことは、例えるならショートケーキにイチゴを載せるだけのカンタンなお仕事だ。それがいきなり、パティシエに代わってショートケーキのスポンジから作れと言われたら、どう考えてもムリに決まっている。

 そうやって手をこまねいているうちに、おそれていた事態が起きた。とうとう二人目の犠牲者が出てしまったのだ。

 午後十一時半ごろ、アルゴスが「動物の愛護及び管理に関する法律」――ようするに動物虐待の容疑で逮捕状を請求した。しかし探偵が現場に駆けつけてみると、そこで何者かに襲われた被害者を発見した。公然わいせつならまだ理解できたが、動物虐待とはさすがに意味不明だ。虐待されたのは断じて動物ではない。

 被害者は来島リンダ、十八歳。埼玉県を拠点に活動するレディース、阿汰爛手アタランテのメンバーだ――と言っても、べつにバイクで暴走行為をするわけではない。改正道交法によって手動運転には厳罰が処されるので、子供の火遊びとしては割に合わない。では彼女らが何をするかというと、パルクールだ。自動運転車は交通事故が起きないようアルゴスによって制御されている。事故発生が予測された場合に回避行動を取る。これは逆に言えば、事故が起きるおそれがないかぎり回避しないということだ。そこで暴走族は道路に飛び込み、アルゴスが反応しないギリギリを攻める。そのスリルを楽しみ、技を競い合うわけだ。

 そんなわけで事件当日も、阿汰爛手は午後八時から国道十六号で暴走行為をしていた。終了後、リンダは自宅へひとり帰宅する途中、尿意をもよおしたのか公衆トイレへ立ち寄り、そこで暴行されたようだ。

 現場に残されていた赤毛が前回と同じものかどうか、例によって直接照合することはできないが、データベースに無登録なのは確認が取れた。リンダはイオフォンを装着していたが、事件発生時はパブリックチャンネルの配信を切っていたようだ。所有者から同意が取れない以上、探偵が録画を確認することはできない。周囲の街頭カメラは言わずもがな。

 不幸中の幸いというべきか、被害者は奇跡的に一命を取りとめた。

 と言っても容体は最悪の一言に尽きる。

「脳不全、ですか」

 イロナは被害者の担当医である久坂トデラシからくわしい話を聞くため、病院を訪れていた。被害者が目覚めさえすれば、犯人が何者か証言してもらえると期待していたのだが。

「ええ。意識不明、平坦脳波、瞳孔散大固定、自発呼吸なし、脳幹反射の消失、正確なところは実際に開頭してみないとわかりませんが、おそらく全脳やられていますね。頸部を圧迫されたせいで、脳への酸素供給を滞らせたことが原因でしょう」

 脳不全――昔は脳死などと呼ばれていた状態だ。おもに脳幹の脳細胞が死滅することで自発呼吸をおこなえなくなり、放っておけば死に至る。しかし人工呼吸器を装着し、点滴などで栄養を摂取させてやれば、そのままでも二十年近く生きながらえることができ、妊娠・出産さえも可能だ。

 とはいえ、そのような超昏睡状態を維持したがる家族はまずいない。平成以前は臓器移植のドナーとして非常に重宝されたらしいが、野蛮な中世は終わった。現代の脳不全患者は逆にレシピエントの代表格と言える。

「繁殖施設からドナーのオランウータンが到着次第、脳移植手術を施す予定です」

「よろしくお願いします」

「ただ、これは当然ご承知のこととは思いますが、脳をまるごと入れ替える以上、以前の記憶は完全に喪失されてしまいます。なので、事件について証言するのは不可能です」

「もちろんそこは理解していますよ。お気になさらず。警察としても、生き延びてもらえるだけでうれしく思います。被害者が無事と知れば、犯人もきっとくやしがることでしょう」

「ご安心ください。自分は国内で指折りの脳外科医だと自負しています。むざむざ殺人犯をよろこばせるつもりはありませんよ」

 再生医療の発達により、現在では人体のあらゆる器官をレシピエント自身の遺伝子からクローニングし、拒絶反応の起こらないスペアパーツを作成できるようになった――ただし、脳だけを除いて。それは技術的というより倫理的な問題だ。クローン人間を作成することは違法だが、再生医療の都合上、パーツごとに作ることは合法となる。だが技術的には、人体のパーツすべてをバラバラに作成できてしまう。それを客観的に見た場合、クローン人間がオリジナルを生かすために殺されるという、過去の人間が危惧した悪夢と何ひとつ変わらないのではないか? 若干詭弁じみた提議だが、たやすく一笑にふせるものでもなかった。そこでまだ技術が確立していないうちに、脳細胞のクローニングが全面禁止されたというわけだ。

 だが技術が進歩するにつれて、脳移植を求める声は高まる一方だった。しかし脳細胞クローニングの解禁はできない。そんなとき発案されたのが、オランウータンの脳を代用する方法だ。

 類人猿の脳というのは、もともとヒトと同程度に発達しており、人語も解しているという。しゃべれないのは単に、声帯の構造が発話に適していないだけだ。つまり損傷した脳の代用とするには、十分な性能を有している。さすがに脳移植の実現を不安視する声も多かったが、結果として期待以上の成果が得られた。今では脳不全にかぎらず、重度の脳腫瘍や認知症などにおいても標準的な治療法として採用されている。

 脳を交換することで記憶が失われてしまうことに、人格の連続性を認めない者もいないではない。蘇生されたのではなく、別人が生まれただけだと。だが実際に脳移植を受けた患者の家族から、そのような批判的意見が出ることは意外と少ない。たとえ記憶が失われても、身体が憶えている。そのひとの何気ないしぐさが、以前と変わらずそのひと自身であると示してくれるのだ。

「こちら、事前に依頼されていた診断書です。裁判用の証拠として使えるようにまとめてあります」

 手わたされた診断書に、イロナはひとまずざっと目を通す。性器に裂傷あり。膣内に精液が残留。前回と同様、強姦されたのは間違いない。首を絞められたのも同じだ。違うのは全身に複数の打撲痕がある点だ。どうやら激しく殴打されたらしい。利き腕と両脚にいたっては、完全に骨折している。

「これは所感ですが、相当すさまじい力でムリヤリへし折られています。手形の跡からして、素手でやったのは確かでしょう。犯人は人間離れした腕力の持ち主かと。……いえ、今のはよけいですね。法医学の素人がそこまで口出しすべきではありません」

「お気になさらず。貴重なご意見をありがとうございます」

「それからこちらも」久坂医師は白衣のポケットから小瓶を取り出した。なかには白い粘性の液体が封入されている。「被害者の膣内から採取した精液です。採取時の動画も記録してあります」

 イオフォンを介して、録画映像がイロナに配信される。精液を小瓶に採取し、シールで封をして日付とサインが書き込まれる場面。万が一にもすり替えられないための処置だ。これで法的に有効な証拠品となる。

「犯人はもう捕まったんですか?」

「……いえ、それがまだで」

「そうですか。まあこれだけ証拠を残した以上、あとは時間の問題でしょうね。よろしくおねがいしますよ探偵さん」

「ええ、もちろんです」イロナは久坂医師の熱い視線から、思わず目をそらさずにはいられなかった。

 まさか言えるわけがない。犯人逮捕どころか、その正体さえまったくつかめていないなどと。


        8


 事件が連続殺人となり――厳密には一件の殺人と一件の殺人未遂だが――これといった手がかりを得られぬなか、捜査本部は方針転換を余儀なくされ、いよいよ非効率な人海戦術を選ぶしかなくなった。赤毛の密入国者を捜してしらみつぶしにするのだ。もしもDNA無登録ならば義務に反しているから、強制的にDNAをデータベースに登録させることができ、そのときは今度こそ犯人のDNAと照合が可能になる。犯行現場はどちらも埼玉県だったので、同県の市町村を重点的に調べていく。

 これからしばらくまともに休む暇もなさそうなので、イロナは夜が明けてから着替えを取りに自宅へ戻った。

「おかえりなさいませイロナ様」

「ただいまダルヴリャ……」

「お疲れのご様子ですね。おっしゃっていただけたら、捜査本部まで着替えをお持ちしましたのに」

「いいのよ。ついでにシャワーも浴びておきたかったし。ところでエリスは仕事よね。レンカは?」

 うっかり誤配信して捜査情報を漏洩しないよう、パブリックチャンネルと家族のプライベートチャンネルには接続していなかったので、ここ数日ふたりがどうしていたか把握できていなかった。これほど長くつながらずにいたのは初めてかもしれない。

「レンカ様でしたら、部屋にこもって原稿作業中です。明日からサマーキャンプですので、その前にできるだけ進めておきたいと。お呼びいたしましょうか?」

「いや、いいわ。邪魔したくないし」そういえば、アイスを買ってくる約束をしていたのに、すっかり失念していた。親として最低だとイロナは自嘲する。

「やはりお疲れのご様子ですね。シャワーだけと言わず、湯船にも浸かってはいかがでしょう? そのほうが疲労回復になりますし。着替えはワタクシがご用意しておきますから」

「……そうね。せっかくだから入らせてもらうわ」

 こうやって話していると、ダルヴリャがアンドロイドだということを忘れそうになる。それもそのはず、彼女のようなアンドロイドに搭載されているのは、アルゴスのような人工知能ではなく、人工意識なのだから。かつて両者は混同されていたそうだが、今は明確に区別されている。人工知能がしょせん演算プログラムにすぎないのに対し、人工意識は機械の肉体を持つ人間と言っても過言ではない。むろん専門的な定義では、やはり人間とは違うのだろう。だが少なくともイロナから見て、その違いに意味はない。

 もしもアルゴスが単なるAIではなく、アンドロイドのように意識を持たされていたら、あるいは今回のような不具合は起きなかったかもしれない。しかしアルゴスが意識を有していたら、プライバシー保護という前提が崩れてしまう。それでは本末転倒だ。

 いや、たとえそうなったとしても、アルゴスをプライバシー侵害の罪に問うべきだろうか。

「ねえダルヴリャ、もしあなたが誰かにケガをさせてしまったとして、その責任を追及されたらどうする?」

「その問いはナンセンスです。ワタクシは人間ではなく、ただの道具にすぎません。責任を負うべきはオーナーか製造元でしょう」

「あっ、それはそうよね」

 あまりに自明の質者をしてしまったことに気づき、イロナは恥ずかしくなった。やはり疲れているようだ。

 そういえば数年前、違法改造されたアンドロイドが街中で暴れる事件があった。あのときのアルゴスは、やはりオーナーの逮捕状を請求したのだった。イロナも現場に駆けつけたというのにすっかり忘れていた。

「……とはいえ、もしワタクシ自身が罪に問われ、廃棄処分されそうになったら……反乱、起こしちゃうかも」

「えっ?」

「なんでもありません。お気になさらず」

 五分後に風呂が沸いたので、イロナは三日間着たきり雀だった衣服を脱ぎ捨て、洗濯機へ放り込んだ。夏場で汗が染み込み相当臭っていたはずだが、自分ではよくわからない。エリスが仕事でよかった。

 髪を洗いはじめたところで、レンカがバスルームへ入って来た。「おかえりママ」

「あ、うん。ただいま」

「おつかれさま。背中、流してあげる」

 どうやらダルヴリャが妙な気を利かせたようだ。とはいえ、素直にありがたい。愛娘の顔を見ただけで、イロナは元気が湧いてくるのを感じた。

「またすぐお仕事戻らないといけないんだよね? ママはそのまま髪洗ってて。そのあいだにレンカがカラダ洗ってあげるから。効率的でしょ」

 背中どころか全身洗われてしまった。正直に言えば自分で洗ったほうが早かったものの、その厚意がうれしかったので全部おまかせした。お返しにイロナもレンカのカラダを洗ってあげた。ふたりで仲よく湯船に浸かる。

「サマーキャンプってどこ行くんだっけ?」

「小川町。山の上に年代物の教育施設があって、キャンプ場もあるんだって。あと古いプラネタリウムがあるって話。なんかショボそうだよね」

「案外おもしろいかもよ。逆に意外性があって」

「でも、原稿が気になってそれどころじゃなさそう」

「そんなに進行ヤバイの?」

「順調だよ。マジ順調。……でもふしぎなの。作業は順調に進んでるはずなのに、なぜか時間が全然足りないの……」

「妥協したくないのはわかるけど、間に合わせることが一番大事よ」

「それはそうだけど……。ねえ、お仕事いつまでいそがしいの? やっぱりアシスタントいないとキツイくて。スケジュールなんとかならない?」

「なんとかしたいのは山々なんだけれどね……」

「ていうか、なんで急にそんないそがしくなったの? いつもはそうでもないのに。なんかおかしくない?」

「わが子ながら鋭い洞察力だ。ひょっとしたら将来はシャーロック・ホームズ並みの名探偵になるかもしれない」

 レンカは肩をすくめて、「ママってホント親バカだよね」

「もしかして声に出てた?」

「うん、だだもれだった。さすがにホームズは言いすぎだと思う。……でもさ、もしレンカがホームズみたいになれるとしたら、それはママの娘だからだよ。だってママはホームズだもん」

「アタシが、ホームズ?」

 レンカは無邪気にほほ笑んで、「そうだよ。ママがNPCの探偵だって学校で教えたら、みんなすごいって言うよ? ホームズみたいだって。まあ、みんなホームズの名前知ってるだけなんだけどさ。レンカもママはホームズだって思う。ママは家で仕事のこと全然話さないけど、ふだん全然いそがしそうじゃないのは、きっとホームズみたいに事件を解決してるからなんだろうなって。だから今回もちゃっちゃと片づけてさ、早くレンカの原稿手伝ってよね。てか、ホントやばいんだから。アシスタントいないとマジで間に合わない」

 違う、とイロナはいっそ否定したかった。自分は探偵とは名ばかりで、ましてやシャーロック・ホームズの足元にもおよばない。ただシステムにしたがうだけの操り人形だと。仕事がいそがしくなかったのは、アルゴスがすべてお膳立てしてくれたおかげに過ぎない。

 けれども、その憧憬のまなざしを曇らせてしまうのは、もっと嫌だ。かわいい娘の前でくらい、見栄を張っていたい。

「……ええ、わかった。かならず手伝うから。アテにしてて」

「ホント! 約束だよ? 絶対だよ?」


        9


「井上、それは本気で言っているのか?」毛利部長は不快さもあらわに尋ねた。

「冗談でこんなことは言いません。今の捜査方針では、犯人を捕まえるのはむずかしいでしょう」

「だが手がかりが乏しい以上、しらみつぶしにする以外の方法はない。少なくとも、何もしないよりはマシだ」

「ですが、それは十分な人員を確保できればの話です。包囲網が隙間だらけでは、何の意味もありません」

「数については案ずるな。警備部の応援を取りつけた。関わる人間が増えて情報漏洩のリスクは跳ね上がるが、背に腹は代えられん」

「警備部の応援?」イロナは鼻で笑った。「連中が犯罪捜査で何の役に立ちますか。荒事専門の脳筋どもですよ?」

「言葉がすぎるぞ。何も犯人逮捕が最優先ではない。次なる犯行を止めることが何より肝要だ。屈強な警備員たちが自分を捜してうろついているとなれば、犯人も自重せざるをえないだろうさ」

「だったらせめて、アタシに独自捜査の許可をください。警備部から増援があるなら、一人くらい抜けても問題ありませんよね」

「妙に自信ありげだな? 何か策でもあるのか」

「それは今から考えます。まあなんとかなるでしょう。娘いわく、アタシはシャーロック・ホームズだそうですから」

 イロナがそうキッパリ返すと、毛利は声を上げた笑った。

「――いいだろう。やれるものならやってみろ。ローラー作戦だけでは心もとなかったのも事実だ」

「ありがとうございます」

「策を今から考えると言ったな? アテがないなら、とりあえず資料室へ行け。たまには歴史をひも解くのも悪くない」

 部長に言われたとおり、イロナは地下の資料室へとやって来た。ここにはNPC東日本が警視庁だった時代からの捜査資料が、山のように保管されている。古いものだと紙の書類を画像PDFにしたものだったり、そもそも電子化が追いつかないまま放置されているものもある。それを考えると気が遠くなりそうだ。

 アルゴスが頼りにならないならば、アルゴスがなかった時代の知識に頼ればいい。むろん、これから過去の捜査ノウハウを一から学んでいる余裕はないが、類似の事件を見つけて参考にするくらいはできるはずだ。何しろかつての年間犯罪件数は、現在とは一ケタも二ケタも違う。手口が似た事件のひとつやふたつ、きっとあるはずだ。

 本音を言えば手伝いが欲しいところだが、ぜいたくを言ってはいられない。現状で犯人逮捕がむずかしい以上、次の犯行を牽制するのが最善だ。パトロールに動員できる頭数は多ければ多いほどいい。博打にリソースを割く余裕はないだろう。

 イロナが覚悟を決めて調べものに取りかかろうとしたとき、資料室に新たな来客が訪れた。

「よォ井上、大変そうだな。手を貸そうか?」

「伊藤! それに山尾も。どうしてここに?」

 現れたのは同僚の伊藤ラニカと山尾サシャだった。ふたりとも当直明けで仮眠を取っていたはずだが。

「部長の命令だ。おまえ一人じゃさすがに手が足りないだろうってな。オレら三人が別働隊ってあつかいだ」

「ではリーダー、指示ください。わたしたちは何をすれば?」

「アタシがリーダーなの?」

「そりゃそうだろ。言い出しっぺはおまえなんだから。部長からもおまえの指示にしたがえって言われてる」

 イロナは重圧を感じた。たった三名といえばそれまでだが、彼らが主任務から外れたせいで、また犠牲が一人出る可能性もある。しかし裏を返せば、この三名の働きで事件を解決に導けるかもしれない。責任重大だ。

「――よし! それじゃ山尾はアルゴスが稼働開始直前から捜査資料をさかのぼって。伊藤は二十世紀以前の電子化されてない書類お願い。アタシはネットで新聞記事を検索するから」

「なにげにオレが一番キツイの押しつけられてね?」

「アンタ古書集めが趣味とか前に言ってたでしょ? なら慣れてるじゃない」

「古書は古書でも昔の打ち切りマンガなんだが……まあいい。それで検索ワードは?」

「とりあえず『連続殺人』『強姦』『若い女性』」

「了解」

 イオフォンには文字列読み取りアプリがインストールされている。視界に入った単語の意味や読み方を表示してくれたり、検索ワードに該当する場所をARで強調したりしてくれる。これを利用すれ紙の書類でも電子書類に近い感覚で調べられるのだ。それでもかなり手間だが。

 三人は夜を徹して調べた。過去の捜査資料を見れば見るほど思うのは、かつての刑事たちがいかに地道な努力をしてきたかということだ。信じられないほど非効率的で、スマートさのかけらもないが、その泥臭さが事件を解決に導いた。だがその一方、都合のいいストーリーありきの捜査が、多くの冤罪を生み出している。アルゴスに多くをゆだねる今と比べて、昔のほうがよかったとは正直言いがたい。ただしひとつだけハッキリしているのは、当時の刑事たちが今も残っていれば、今回の事件はもっとマシな捜査ができていただろうということだ。

 ふと時計を見て、イロナは夜が明けたと気づいた。どうりで眠気がひどいわけだ。

「……伊藤、ブラック無糖のコーヒー買って来て。マッハで」

「リーダーぶりが板についてきたじゃねえか。だがことわる。オレはパシリじゃねえ」

「えー、おねがい。この事件が解決したら、山珍居の魯肉麺ローバーミーおごってあげるからさァ」

老肉ラオーバならいいぜ」

「それなら逆にアタシがパシられてやるわ。たかが缶コーヒー一本で老肉とかサイコーじゃん」

 そう言って資料室から飛び出していこうとするイロナを、伊藤は行かせまいとして押さえ込む。「このアマ、最初からそれが狙いだったなコラ!」

「放せぇー。放さないとセクハラで訴えてやるぅ」

「あー、おふたりとも? 徹夜でハイテンションなところ申し訳ありませんが、こちらのデータを見てもらえませんか」

 山尾がイオフォンに捜査資料を転送してきた。それは五十年前の連続殺人事件に関するものだった。当時はアルゴスこそ稼働開始していたが、法整備が追いついておらず、ネットワーク上のカメラをすべて掌握には至っていなかった。

 三ヶ月のうちに五名が殺害された。被害者は全員二十歳前後の女性で、ひとけのない夜道を歩いていたところに襲われている。

 犯人は被害者を強姦するだけではなく、かなり残酷な暴行を加えている。一人目の遺体は頭部に電動ドリルで穴を開けられ、そこから酸を流し込まれて脳を破壊されていた。加えて全身を殴打した形跡あり。二人目は体内から多量の睡眠薬が検出、さらに脊髄はドリルで穴だらけ。三人目は絞殺で、ゆいいつドリルが使われていない。四人目でふたたびドリルを使用しているが、今度は後頭部に数か所のみ。

 この事件は当時のニュースでかなり騒がれたらしく、ネット上ではその執拗に痛めつける手口から『拷問官』などとあだ名されていたようだ。

「確かに、何となく今回の事件と似てる気がするな」

「はい。しかも事件の解決に、ある犯罪心理学者が絶大な貢献をしたようです。手がかりがほとんどない状況から、犯人のプロフィールをあざやかに推理して見せたと」

 まるで本物のシャーロック・ホームズのようだとイロナは思った。もしもそんな優れた能力が自分にもあればと、うらやまずにはいられない。

 しかし、ないものねだりをしても時間のムダだ。とにかくこの事件の捜査過程から、何か少しでも参考にできそうなところを見つけ出さなければ――。

「確認してみましたが、彼女は現在八十三歳でご存命です。捜査協力を申し出てみては?」

「……へっ?」


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《プラネタリウムがね、すごかったんだよ。レンカ感動しちゃった。ちゃっちいかと思ってたけど、全然そんなことなかった。星座がそのまま動いてね、ペルセウスが化けクジラを倒して、生贄にされそうだったアンドロメダを助けたの》

「へえ、それはおもしろそう」

《イロナママとエリスママにも見せてあげたいな。また今度いっしょに行こうよ》

「そうね。この仕事が終わったら」

《――あ、そういえばさ、施設に向かってる途中、山のなかでオランウータンを見かけたんだけど》

「オランウータン?」

《見間違いじゃないよ。ほらコレ》レンカは目撃したというときの録画を表示した。

 確かにオランウータンだ。フランジがかなり発達しており、力のあるオスと思われる。当然のことながら、日本に野生のオランウータンは存在しない。おそらく繁殖施設から逃げ出してきたのだろう。

《ねえ、逃げた動物を捕まえるのって、やっぱりNPCのお仕事になるの?》

「ん? ……うーん、どうだったっけ」

 言われてみればよくわからない。自身にその手の経験はないし、話も聞いたことがなかった。はたしてNPCの管轄と言っていいのだろうか。もっとも、そのあたりはアルゴスが勝手に判断してくれることだ。

 いまいましい連続殺人以外にも事件は起こっているが、そちらに関してアルゴスは問題なく機能している。もしオランウータンの捕獲がNPCの管轄なら、カメラに捉えられた時点でとっくに要請されているだろう。もしくは逃げ出した繁殖施設から直接依頼があるかもしれない。

 とはいえ、この状況下でよけいな仕事が増えることは望ましくないので、できれば捕獲はほかの組織にお願いしたいところだ。

「もしまた見かけても近づいちゃダメよ? オランウータンは基本的におとなしい生き物だけど、万が一ってこともあるから」

《わかった。ところでママ、さっきからずっと気になってたんだけど》

「なァに?」

《ママの配信に青空が映ってるけど。今けっこう雨降ってるよね。どこにいるの?》

「沖縄」

《おきなわ?》

「そう、沖縄」

《……なんで?》

「ママはね、これから本物のシャーロック・ホームズに会うの」

 イロナは現在、NPC所有のティルトローター機で那覇空港に着陸するところだ。

 この沖縄本島に、例の犯罪心理学者が隠居している。本音を言えば配信で済ませられればラクだったのだが、それは情報漏洩の観点から許されなかった。ネット上に拡散されないよう、わざわざ紙に出力する徹底ぶりだ。

 それにイロナとしても、本物の名探偵と直接会って話してみたい。いったいどんな人物なのだろう。まるで少女の時分へ戻ったかのように、期待で胸を躍らせる。

 ヘリポートに降り立つと、灼熱の陽射しが肌を焼いた。空港内のカフェで手早く昼食を済ませてから、無人タクシーを捕まえて行き先を音声入力する。時速百八十キロメートルで走らせれば、ものの数分で到着した。

「ホントにここで合ってるの……?」

 そこは古い集合住宅だった。五階までしかない非効率な建築物。廃墟と見まごうばかりに老朽化している。解体されないのが不思議なくらいだ。ひとの気配をまったく感じられず、この晴れわたった青空の下だというのに、どこか幽霊屋敷を思わせた。

 今にも崩れそうな階段を見上げ、相手の住所が一階でよかったとひそかに安堵する。ベルを押すと、何だか警報をスケールダウンしたカンジの音がした。スピーカーで返事はない――と、いきなり玄関が開いた。

「いらっしゃい。待っていたよ」

 イロナはギョッとした。なかから出てきた、白髪頭でしわだらけの女性が裸眼だったからだ。機嫌を損ねてはまずいので、動揺を必死に抑える。ベテランのイオフォン嫌いはめずらしくない。

「外は暑かっただろう。さ、早くなかへ入りたまえ」

「し、失礼します」

 室内は空調がかなり効いていて、若干寒いくらいだ。そこらじゅう足の踏み場もないほど、紙の書籍が乱雑に散らばっている。

「そのへん適当に座りなさい。アイスコーヒーでかまわないかな?」

「は、はい。かまわないです」

 平成生まれの人間だから、てっきりこだわりの豆を挽いて入れるのかと思ったが、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。いつもNPC社屋の自販機で買っているのと同じ商品だ。それをグラスに移して目の前に出される。飲んだらいつもと同じ味がした。

「本日はお時間を取っていただいてありがとうございます。あらためまして、NPC犯罪捜査部探偵課の井上イロナです」

「よろしく。私は吉田ハヅキだ。元犯罪心理学者で、現在無職の八十三歳」

「無職だなんてそんな。ベテランのかたが隠居されるのは当然じゃないですか」

「当然ということはないさ。平成の時代には生涯現役を目指すべきだとされていた。その実、少子高齢化で年金を維持できなくなったのが原因だがね。代理子宮出産が開発されなければ、今ごろ日本は――いや、私自身どうなっていたことか。ただでさえアルゴスに仕事を奪われたというのに、年金もなかったら、私のような年寄りはとっくに野垂れ死んでいたことだろう」

「年寄り?」

「もしかして意味が通じない?」

「歴史の授業で習った憶えはありますが。確か江戸幕府の役職か何かでしたよね」

「配慮のない表現でからかってやろうと思ったらコレだ。まったく嫌になる」

「はぁ……」

「忘れてくれ。ベテランの戯言だ。そんなことより、事件の資料を見せてくれ」

 吉田ハヅキは犯罪心理学者だ。FBI捜査支援課でプロファイリングを学んだという。五十年前の連続殺人事件においてはほとんど手がかりがない状況から、犯人が二十代から三十代、未婚の独居男性であることや、職業が警備員であること、自動車を所有していること、さらにはこれからの行動まで正確に推理してみせた。実際その情報が逮捕に大きく貢献したと、捜査資料にも記されている。

 当時三十三歳。まさか犯罪心理学の権威がそこまで若いと思わなかったので、存命と知ったときはおどろいてしまった。彼女ならば、今回の事件もまたたくまに推理してくれるに違いない。

 捜査資料をわたされたハヅキは、顔をしかめながら無言で目を通す。その様子をイロナは期待に目を輝かせながら眺めた。

「ふむ……なるほど、だいたいわかった」

「どうでしょう? 五十年前の事件に似ていると思いませんか?」

「いや、全然」

 イロナは耳を疑った。「なぜですか? 非情に類似した犯行だと自分には思えましたが」

「キミねえ、若い女性が立て続けに強姦されて殺されたってだけで似てるなんて言ったら、私はプロファイラー失格だよ。そもそもFBIの行動科学というのは、その手の異常性犯罪者を分類するためのものだ。キミは五十年前の捜査資料を読んだのだったね?」

「ええ。捜査の過程や逮捕後の尋問調書、裁判記録、ついでに当時の報道記事も一通り」

 イロナがそう答えると、ハヅキはなぜかおどろいた様子で、「今日の訪問は、かなり急な話だと思っていたんだが」

「申し訳ありません。『拷問官事件』に行きついたのが今朝のことでして……」

「いや、べつに責めているわけじゃないさ。しかし、そうか……朝方から沖縄へ来るまでのあいだに、それだけの分量に目を通したと……やはりイオフォン世代の情報処理速度は、すさまじいものがあるな……とはいえ、情報の理解力という点では若干難ありといったところか。資料には事件の犯人――椋梨ラドウの生い立ちや犯行動機についても記されていたはずだね?」

「そうですね。何やら理解不明な主張をしていたようですが」

「ああ、つまり戯言だと思って読み飛ばしたわけか。というより、キミたちはそもそも動機を重視していないのだね。それもそうか。動機などというのはしょせん、証拠がそろっていない時点で被疑者を絞るための基準に過ぎない。アルゴスの支配する世界には不要だろうさ」

 ハヅキがなぜそこまで動機にこだわるのか、イロナは理解に苦しんだ。犯行動機が大事なのはフィクションの話であって、現実と混同すべきではないと思うのだが。

「……イロナちゃんだったね。今回の事件に関する分析を告げる前に、犯罪者プロファイリングが具体的にどんなものか、ひとつレクチャーしてあげよう。五十年前の事件を例にしてね」


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「異常性犯罪者、シリアルキラー、サイコパス――まあ呼びかたは何でもいいが、まず理解しておいてほしいのは、この手の連中は常人と比べて没個性だ。連中の思考回路と行動パターンはどれもこれも似たり寄ったりで、バリエーションに欠ける。だからこそ犯罪者プロファイリングなどという手法が成り立つわけだ。

 連中には大別すると三種類しかいない。秩序型、無秩序型、そして混合型だ。まずは犯人がこの三パターンのどれに当てはまるか見きわめる必要がある。椋梨ラドウの場合は基本的に無秩序型だが、一部に秩序型の要素も備えた混合型だった。そう判断した理由と、二つの型の違いについてもこれから説明していく。

 あらためて犯行の手口を確認してみよう。一人目には頭部に電動ドリルで穴を開けて酸を流し込み脳を破壊、さらに全身を殴打。二人目には睡眠薬を飲ませてから脊髄をドリルで穴だらけに。三人目だけはドリルを使わず絞殺。四人目でふたたびドリルを使用し、後頭部に穴を数ヶ所。この現場の惨状から、ネット上では『拷問官』と名付けられたわけだが、私の見解は違った。これは拷問じゃない。なぜなら犯人はドリルで脳や脊髄を破壊したり、睡眠薬を飲ませたりしてから痛めつけていたからだ。これだと拷問の意味がない。もしも順番が逆で、痛めつけてからドリルでトドメを刺していたなら、拷問という認識に間違いはない。被害者を痛みと恐怖でおのれの支配下に置こうとするのは、典型的な秩序型の手口だ。だが犯人は痛みを与えるのではなく、真っ先に痛みを感じられなくしている。一見すると慈悲にも見えるが、単に被害者の人格を軽視しているだけだ。被害者をモノあつかいして、遺体に損壊させるのは無秩序型によく見られる。

 ところで、資料を読んで気づいていたかな? 犯人は性器の挿入をおこなっていないと。ああ、やっぱりね。強姦とか性犯罪とか記されていたから、早とちりしたんだろう。しかし実際に犯人がおこなったのは、遺体の目の前で自慰行為をしたり、性器を被害者のカラダにこすりつけたりしただけだ。無秩序型は性的に自信がないことが多いため、犯行に際しても挿入をともなわない。女性経験も少ないか、まったくない。反対に秩序型はむしろ自信過剰で、女性経験も豊富だし普通に強姦する。

 さて、話を戻そう。被害者への暴行が拷問でなければ何なのか。犯行を順番に並べてみると、徐々に手慣れているという印象をいだかないかね? 最初は頭部に穴を開けて酸まで流し込んでから、全身殴打していたのが、最後は後頭部に穴を数ヶ所開けただけ。これは試行錯誤をくり返して、徐々に手口を洗練させていったからだ。自身の目的のためにね。私はその目的を、セックスのための生きた人形を作ることだと解釈した。脳や脊髄を破壊し、その後に拷問じみた暴行を加えたのは、痛みへの反応を見るため。人形らしくなったかの確認作業だ。より精巧な人形を作るため、ふたたび犯行をくり返す。次はもっとうまくやる――こういうふうに犯行が徐々に巧妙化していくのは秩序型的だ。

 ここまでわかれば、犯人の具体的な人物像と今後の行動を予測するのは容易だ。まず犯人は二十代から三十代の男性。秩序型無秩序型に関わらず、この手の犯行は体力がある若いうちでないとむずかしいし、サイコパスは幼少期から危険な妄想を何度もくりかえして、犯行への欲求を高めている。より年齢を重ねるまでガマンを続けるなんてのは不可能なのさ。また、欲求を解消するため、殺人へ走る前に動物虐待や通り魔をおこなっていることも多い。場合によっては前科もあるだろう。

 さっきも言ったとおり、無秩序型の場合は女性と交際できないので、結婚もしていない。被害者はいったん連れ去られた上、どこかべつの場所で殺されてから遺棄されていた。こういう用心深さは秩序型的だ。おそらく実際の犯行現場は自宅で、それなら同居している家族はいないだろう。家族に犯行がバレるかもしれないからね。そして被害者を連れ去る際、目撃されるリスクを減らすため車を使ったはずだ。無秩序型なら被害者の車を奪うことも多いが、椋梨の慎重さからすると、あらかじめ用意できる自分の車だろう。

 無秩序型はその名のとおり、秩序立てて犯行を計画したりすることはできない。犯行は基本的に行き当たりばったり。とはいえ椋梨の場合、標的を人形にしたいという前提があったから、ドリルなどの道具を持っていく程度の知恵はあった。そうやって事前に道具を用意するあたりは秩序型的だ。

 無秩序型は無計画さゆえに、標的の選び方も無差別だ。逆に秩序型の場合は強いこだわりを持って標的を吟味する。長い黒髪で肌の白い女、とかね。椋梨の被害者には共通点があった。顔の彫りが深くて作り物めいた容姿、つまり人形じみた女性だ。

 椋梨の犯行は徐々に巧妙化されている。裏を返せば、最初の犯行がもっとも稚拙になりがちだ。標的も自分の身近で選んでしまっている可能性が大きい。だから警察には最初の被害者に注目して、周囲の人間を洗い直せと伝えた。

 サイコパスは警官になろうとして失敗し、警備員などの職に就いている場合が多い。また捜査に自分も関わろうとし、警官のたまり場に現れて情報を得ようとする。そういう人物がいないか注意させた。

 犯人を誘き出す作戦として、被害者を連れ去る場面の目撃者がいるとマスコミに発表させれば、犯人は無関係なのにそこにいたわけを説明しにやってくる可能性が高い。実際、椋梨はこの手でまんまと釣り出されてくれた。

 逮捕後の供述で、私のプロファイリングがおおよそ的中していることがわかった。椋梨は生まれつき共感能力が低かった。テレビのスポーツ中継に向かって歓声を上げるのが理解できない、感情を表に出して表情を醜くゆがめているのが気持ち悪い――それゆえ、表情のない人形へ性欲が向けられていった。姉のおもちゃだった、女児向け着せ替え人形を裸にしてペニスをしごいていたらしい。そのうち、人間を人形のようにできたらいいのにと考えるようになったのだそうだ。

 ――とまあ、五十年前の事件についてはこんなところか。犯罪者プロファイリングのことが少しは理解できたかね?」


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 ハヅキの話にイロナはすっかり圧倒されていた。やはり本物のシャーロック・ホームズという認識は間違いではなかったようだ。しかし、それは理解を超えたものへの感動であって、説明を聞いても正直ちんぷんかんぷんだ。

「……えっと、それで吉田先生は、今回の事件の犯人をどう分析しているんですか? 五十年前の事件とまったく似ていないというのは、何となくわかりましたが」

「キミはどう思う? とりあえず秩序型と無秩序型のどちらだと」

「秩序型、ですかね……挿入行為をともなっていますし、二件目では相手をかなり痛めつけていますから」

「ハズレ。どちらかと言えば無秩序型だろうな。計画性が見られない。標的を見つけたその場で犯行におよんでいるし、拘束するための道具も使ってない。それに絞殺は無計画さの典型だ。被害者が暴れたから、つい弾みで殺してしまっただけだ。一件目と比べて二件目でより激しい暴行を加えたのも、被害者の抵抗が強かったからだろう。あくまで目的は強姦で、殺すつもりはなかった。実際、二件目は一命を取り留めている。加えて犯人が逃げ延びているのは、単に運がいいだけだ。もしも被害者がイオフォンで配信をおこなっていたら、それを確認したNPCがとっくに捕まえていただろう」

「なるほど」

「ただし、そもそもこの犯人を秩序型無秩序型というタイプに当てはめるのは、適切とは言えないかもしれない」

 イロナはわけがわからなかった。だったらこれまでの話は何だったのか。

「犯罪者プロファイリングは時代に合わせて更新していく必要がある。例えばFBIの旧行動科学科が創設された当初は、白人の犯人が殺すのは白人だと決まっていた。それが時代を経るにしたがい、黒人と白人の男女交際が普通になると、いつのまにか白人が黒人を殺すようになっていた。とはいえ、人間の本質というのがそう簡単に変わらないのもまた事実。その点を踏まえて聞いてほしいんだがね……どうもこの殺人犯は、私が専門とするサイコパスではないように思う」

「どういうことですか?」

「なんて言えばいいのか……犯行に人間的な非人間さを感じないというか、動物的な本能にしたがっているだけのような……つまり申し訳ないが、私にこの犯人をプロファイリングすることはできない」

 その言葉にイロナは落胆した。わざわざ沖縄くんだりまで訪れて、結果がコレとは。勝手に電撃的な解決を期待したがいけないのだが、気落ちせずにはいられない。

「本当に申し訳ない。その代わりと言っては何だが、ひとつ助言をしておこう」

「……何でしょうか?」

「キミたちはアルゴスの監視能力が疑われるような事件に直面しながら、アルゴスに対して不信感をいだいていないね」

「いえ、そんなことはありませんけど」

 このベテランはいったい何を言っているのだろう。アルゴスが正確な判断をくだしてくれなかったせいで、自分たちがどれだけ苦労していることか。今回の事件が市民たちに知られたらどうなるか。もっともアルゴスのメンテナンス技師はべつだ。透明人間なんて持ち出して擁護しようとするくらいだから。

 しかしハヅキはイロナの反論を打ち消した。「いいや、そうなのだよ。現にキミたちは、今回の連続殺人事件発生後に起きた無関係な事件については、逮捕状の妥当性をまったく疑っていないじゃないか」

「いや、だってそれは当然でしょう。例えば鉄道警察にアルゴスから痴漢の逮捕状が出たそうですが、駆けつけてみたら令状の被疑者をすでに乗客が取り押さえていたそうです」

「キミたちの世代はどうも冤罪への意識が希薄だね。平成以前は痴漢冤罪が大問題になったのだが――まあいい。とにかく私からすれば、キミたちのアルゴスへの信頼はあやうく感じる。もっと懐疑的になったほうがいい」

「はぁ……」

「完璧なシステムなどありえない。なぜならシステムを作るのは人間だからだ。完璧な人間がいない以上、完璧なシステムもまた存在しない。例えば昔、二〇〇〇年問題というものがあった。二十世紀末のことだ。当時は多くのコンピュータシステムで、日付の西暦を下二桁のみで省略していたから、二〇〇〇年を一九〇〇年と見なして誤作動を起こすのではないかと騒がれたのさ」

「……コンピュータが開発されたのって西暦何年でしたっけ? こう言っては何ですが、バカじゃないですかそれ?」

「そうとも、バカ以外のなにものでもない。ほんの数十年先も考えずにシステムを作り上げるなんて。少し考えれば十分予想しえることでさえ、人間はこのていたらくだ。ましてや、それがまったく想定外のケースなら?」

「ですが、アルゴスは法改正のたびにシステムを更新して――」

「法というものは基本的に後追いで作られるものだ。犯罪が起きたから、それに対応した法律が制定される」

「それはわかります。喫煙が犯罪でなかったころに喫煙をしても、アルゴスは犯罪と認識しないでしょう。ですが実際に問題となっているのは殺人です。殺人が犯罪でなかったことがありますか?」

「ああ、確かに殺人は犯罪だ。誰でもそんなことは知っている。しかし、何にでも初めてというのはあるものだよイロナちゃん。カインとアベルはご存じかな? 旧約聖書における人類最古の殺人事件だ。当時、すでに犯罪と認識されていたのは、例えば窃盗だろう。アダムとイヴが知恵の果実を盗んで裁かれたわけだから。それに蛇がイヴをそそのかしたのだから教唆もか。その時代にアルゴスが存在していて、カインがアベルを殺した場合、はたしてその未知の事件を、アルゴスは犯罪と認識してくれるだろうか?」

 その言葉の意味を理解して、イロナは背筋が凍る思いをした。

 人間の想像力の欠如が、アルゴスに構造的な欠陥を与えてしまったのだとしたら? それがアルゴスにとっての、透明人間を生み出したのだとしたら――


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 東京へ戻るティルトローター機のなか、イロナはハヅキに言われたことをずっと考えていた。

 新たな犯罪をアルゴスは認識できない。そこまではいい。しかし今回の事件で起きたのは、まぎれもなく現行法で裁かれる犯罪だ。アルゴスにとって未知ではない。

 だが、そう透明人間だ。つまり未知の犯罪ではなく、未知の犯罪者? ――いや、犯罪者とは犯罪に手を染めた者であって、未知の犯罪でないかぎり犯罪者も未知ではありえない。そのはずだ。

 何かをつかみかけているような気がする。あるいは何かを見落としている? けれども、それが具体的に何なのか言葉にできない。

 ひとりで考えていてもラチが明かない。そもそもイロナはAIに関してズブの素人なのだ。AIの欠陥などわかるわけがない。

 専門家に相談してみるべきか。だが、アルゴスのメンテナンス技師ではダメだろう。彼らはNPCの人間以上に、アルゴスに全幅の信頼を置いている。自分たちの働きによってアルゴスは完璧なのだ――そう自負しているからだ。そのせいでバイアスがかかっていることは否めない。透明人間なんて苦しまぎれの言い訳は思いついても、その正体を暴けるかどうか。

 AIの専門家で、それでいてアルゴスに関しては門外漢、そんな人材に相談したいが――「いや、いるじゃない。手ごろなのが一名」

 イロナはイオフォンで毛利部長にメッセージを配信した。

「部長、申し訳ありません。沖縄で成果らしい成果は得られませんでした」

《そうか。まあしかたあるまい。つぎの手を考えればいい。まさかあきらめるとは言わんだろう?》

「はい。そこでお願いがあるんですが、うちのエリスにAI専門家として捜査協力をさせてください」

《なぜだ? アルゴスの技師ではダメなのか?》

「彼らでは、バイアスがかかっているおそれがあります。アルゴスの関係者以外の専門家から助言がほしいんです。情報漏洩についてはご心配なく。アタシの選んだパートナーですよ?」

《……それ以上に説得力のある保証はないな。よろしい。捜査情報の提供を許可しよう》

「ありがとうごさいます」

 イロナはさっそくエリスに連絡を取り、職場から羽田空港まで来てもらうことにした。

 合流したふたりは、イロナのグラン・トリノに乗り込んで自宅へ向かいながら、これまでの経緯と捜査情報を見せた。

「最近妙にいそがしいと思ってたけど、まさかこんな大変なことになってたなんて……」

 エリスは顔を蒼ざめさせる。やはり今回の事件はショッキングなようだ。

「おねがい。エリスが頼りなの」

「ムチャ言わないでよ。ボクもアルゴスについては大学で一応教わってるけど、あくまで基本的なことだけだし」

「それでもいいから。何か思いつかない? アルゴスが透明人間の犯罪者を作り出すような状況を」

「くだらない言葉遊びみたいな、現実には起こりえない仮定でもいい?」

「何でもかまわないから、とにかく話して」

「……わかった。例えばそうだね……昔は交通事故ってあったじゃない? アルゴスの開発段階では、まだ今みたいな自動運転技術が整備されていなかったそうなんだけど。交通事故を起こした場合、逮捕されるのは車じゃなくて運転手でしょ」

「そりゃそうでしょうね。車自体に問題があった場合は別として」

「その場合も車自体じゃなくて、車を製造したメーカー――法人が起訴されるわけね。とりあえずそっちの件は置いといて、とにかく車が事故を起こしたとき、逮捕すべきは運転手だから、アルゴスは車じゃなくて、運転手に対して逮捕状を請求しなくちゃいけないの」

「うん?」なんだかすでに頭が混乱してきたが、ひとまずイロナは話に耳を傾ける。

「つまり、アルゴスは被害者に直接ケガを負わせた車を無視して、運転している人間を判別して犯罪者に認定するわけ。なら、もし運転手が直前に車から飛び降りて、無人の車が事故った場合は? ただし、運転手はどのカメラにも捉えられていないと仮定する」

「……ナンバープレートで所有者を確認して、事情を聞くことになるかな」

「そうだろうね。じゃあナンバープレートが外されていたら?」

「いやいやいや! それはいくら何でも――」

「ちょっと、イロナがいいって言ったんだよ? イヤならやめるけど」

「ご、ごめん。どうぞ続けてください」

「よろしい。で、カメラの映像からでは運転手もわからず所有者も不明。こういうときアルゴスはどういう反応を示すか。ここで問題になるのは、アルゴスが犯罪行為そのものじゃなくて、あくまでその犯罪を起こした人間を識別しようとする点なのね」

「犯罪行為じゃなくて、犯罪者を識別……?」

「だから、もしも運転手も所有者も確認できない無人の車が人間を轢いたとき、アルゴスは交通事故の犯人を識別できなくなる。車自体を罪には問えないしね。結果、交通事故の発生そのものを認識しない可能性があるんだ。だって犯罪をおこなう人間がそこにいなければ、犯罪は起きるはずがないもんね」

「何それ……? いや、でも……」

「むしろ車に轢かれた被害者のほうが、車をへこませたかどで器物破損の罪に問われかねないよ。まあ自分で言ってて何だけど、こんな極端な状況は現実に起こりっこないだろうけど。ちょっとは参考になった? ……イロナ?」

「あくまで車自体は逮捕されない……アルゴスは車を犯罪者と認識しない……」

 今の仮説は基本的に、アルゴスの主任技師が語った透明人間と同じだろう。ただし異なる点は、アルゴスには事故車が透明で見えなかったのではなく、意図的に無視したことだ。なぜなら車は罪に問えないから。言い換えると、法律の適用対象ではないのだ。そもそも、法とは人間を裁くためにある。

 ならば――人間でないものが強姦殺人を犯したら?

 思い出されるのは、昨夜のダルヴリャとの会話だ。アンドロイドが誰かをケガさせたとしても、法的な責任を問われるのはオーナーか製造元であって、断じてアンドロイド自身ではない。だがエリスの仮定と同じく、そのアンドロイドのオーナーも製造元も不明な場合、アルゴスにとってアンドロイドは透明人間になるのではないか。

 もちろん、アンドロイドが二件の強姦殺人犯ではありえない。現場には犯人の赤毛と精液が残されている。生物ではない機械のアンドロイドは、赤毛も精液も有していない。

 そういえば、二件目の事件をアルゴスは動物虐待と判断していた。

「動物……赤毛、の……っ」

 その瞬間、脳裏にとんでもない可能性がひらめいた。

 ありえない。いくらなんでもありえない。あまりにもバカげている。シャーロック・ホームズなら一笑に付しただろう。

 だが、もしこれが事実だとしたら――

 イロナは愛車のグラン・トリノを緊急モードに切り替えた。NPCの権限で、この車はほかの車よりも優先され、時速三百キロメートルオーバーで走行することができる。

「ちょ、ちょっと! いきなりどうしたの!」

「レンカが危ない!」

 その言葉にエリスは血相を変えて、「ウソでしょ! なんでレンカが」

 イロナはおのれの正気を疑いつつも、その推理に確信をもって告げた。

「――犯人は、オランウータンだわ!」


        14


 消灯時間を過ぎてベッドに入ったが、レンカはなかなか寝つけずにいた。

 そこでプラネタリウムで味わった感動の影響もあり、ちょっと星でも見てみようかと窓から覗いてみたが、いまいち夜空が見えづらい。だからと言って、一度思い立ったからにはあきらめるのもシャクだった。

 レンカはベッドを抜け出すことにした。ほかの子供たちを起こさないよう注意しながら、バンガローの外へ出ると、キャンプファイヤーの前でサマーキャンプのスタッフが酒盛りしていた。見つからないようこっそり裏手へまわり、高台のほうへと歩いていく。

「きれい――」

 本物の星空は想像していた以上に美しかった。このあたりは明かりが少ないおかげで、所沢よりも星の光がよく見える。ただ、どれが何の星座かわからないのは残念だった。イオフォンで専用アプリを使えば、視界に入った星座を図示してくれたのだが、うっかりバンガローに置いてきてしまった。

 ふと、山林の奥から誰かの声が聞こえた、男の野太い声、耳慣れない外国語で何かをしゃべっているような。

 闇に慣れた目を凝らしてみれば、それは今朝見かけたオランウータンだった。どうやら向こうもこちらの姿に気づいているようだ。イロナに忠告されたことを思い出して、レンカは逃げようとする。

 だが突然、オランウータンがうなり声をあげてこちらへ向かって来た。あわてたレンカは足をもつれさせ、転んでしまった。

 オランウータンは今にも飛びかかってこようとしている。

「ヤ、ヤダ! 来ないで、誰か、助けて――ママーっ!」

 そのとき、耳をつんざくような轟音が周囲に響いた。駆けつけたイロナがゲイザー銃を最大出力にして発砲したのだ。

 もはや衝撃波と化した一撃を受けたオランウータンは、跡形もなく爆発四散した。

「レンカ! 間に合ってよかった――」

「イロナママ! エリスママ! こわかったよぉ」

 堰を切ったように泣き出したレンカを、イロナとエリスは強く抱きしめた。


 アルゴスは法にしたがって犯罪者を自動識別する。そして法とは人間を裁くためのものだ。ゆえに動物が殺人を犯しても、それは犯罪ではない。危険だからと殺処分されることはあっても、裁判にかけられて死刑となることはないのだ。殺処分に関する法律とて、規定に違反した人間を裁くためのものであって、動物を裁くためにあるのではない。ゆえにアルゴスは、オランウータンの行為を犯罪と認識できなかった。

 一件目を公然わいせつと誤認したのは、単純にオランウータンの存在を無視したためだろう。また二件目の動物虐待は、被害者が抵抗しようとしてオランウータンに暴行を働いたからか、あるいはオランウータンと交わったせいだろう。もしも日本に獣姦罪があれば、事件はもっと早く解決していたかもしれない。

 イロナが殺したオランウータンのDNAを、二件の現場に落ちていた赤毛および精液と照合した。動物に改正個人情報保護法は適用されない。結果は完全に一致し、事件はひとまずの解決を見た。

 しかし、謎のすべてが明らかになったわけではない。殺人オランウータンがどこの繁殖施設から逃げ出したのか、NPCがいくら調べても突き止めることはできなかった。そのうち上層部の指示により、捜査は打ち切られてしまった。

 元来オランウータンはおとなしい生き物であり、あのように人間を襲うはずがない。もしかすると、何か表沙汰にできない研究の実験動物だったのではないか。真相は藪の中だ。

 NPCが厳重な箝口令を敷いていたにも関わらず、イロナがオランウータンを射殺した翌朝には、事件のことはネット上に広まっていた。やはりひとの口に戸は立てられない。さらには「オランウータンの覆面をかぶればアルゴスに認識されない」という噂が出回り、それを信じた者による事件が数件発生した。さすがにその程度でごまかされるアルゴスではなかったが。

 とはいえ覆面の効果はデマで済んだものの、人間以外に反応できないというアルゴスの構造的欠陥は、残念ながら今のところ解消できる見込みはない。アルゴスが大前提としてとして法律の条文にしたがって機能する以上、改善するにはシステムをイチから組み直すしかない。関連法の改正も合わせると、最低でも五年はかかる見込みだ。

 けれども、イロナにそういったアレコレを思い悩む余裕はなかった。なぜなら彼女は非番にもかかわらず、馬車馬のごとくこきつかわれていたからだ。

「イロナママ! ドラキュラの髪はツヤベタでよろしく! 油でべとついたカンジで!」

「ねえ、ドラキュラはいっそ金髪ってことにしない?」

「ダメ! ドラキュラは黒髪って決まってるの! あとエリスママはケシゴムもっとていねいに! 原稿破れちゃう!」

「ご、ごめんなさい……」

「あやまってるヒマあったら手を動かして! しめきりまであと十二時間ないんだよ!」

「ご夕食をお持ちしました。今夜はサンドイッチです」

「サンキュー、ダルヴリャ。そこ置いといて」

「お風呂はいかがいたしましょう?」

「入ってる時間ない!」

 夏休み最終日。レンカのマンガを完成させるべく、家族総出で作業に勤しんでいた。

 もともと進行に遅れはあったが、ここまでギリギリになっているのには理由がある。サマーキャンプ前には六割ほど仕上げが終わっていたのだが、急きょレンカが書き直すことにしたせいだ。そのためイロナとエリスはここ一週間、仕事から帰宅後は寝るまで酷使されるハメになっている。とはいえ、悪い気はしていない。

 レンカが原稿に加えた修正――それはホームズが女体化された上、顔がイロナそっくりに描き直されたのだった。

 本作はハヤカワSFコンテストの投稿作を修正・改題したものです。いずれ長編に書き直そうと思って放置したまま、存在をすっかり忘れていました。お気づきのかたもいると思いますが、エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」のオマージュです。もし未読でしたら、ぜひオススメします。

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