98.鎖骨の下の赤い跡
水面を叩くのをやめたエイミは、己の顔を両手で覆った。
「わたくしだって尻尾さえ残っていれば……!」
さも悔しそうなエイミの話を聞いて、美也子は膝のあたりにくすぐったいものを感じた。ただの幻覚なのか、それとも不意に蘇った前世の記憶なのかは定かでない。
そしてあの赤毛の男は、ふさふさの尻尾で撫でられ何を思ったのだろうか。あまり考えたくはない。
「で、その時クリスデンは何て言ってたの?」
「『エイミちゃん、もうタリアには絶対にご主人様なんて呼ばせないから機嫌を直して』と」
――ああ、リアルに想像できる。
美也子は気恥ずかしさのあまり眉間を押さえた。
エイミの声は淡々としていて、物真似をしているようではなかった。
だがきっとクリスデンは、さぞ気色の悪い猫なで声でそう言ったに違いない。美也子も、リューに嫉妬するエイミに似たようなことを言ってしまった。
あの若作りのじいさんと同じ言動を取ってしまったという事実は、あまりに気持ちが悪かった。
「そ、それで今度はエイミが、『ご主人様』って呼ぶようになったんだね」
エイミは膨れっ面のまま頷く。
「ただ単に名前で呼ぶだけならば、誰にだってできます」
「じゃ、じゃあエイミの好きに呼んだらいいよ……」
ニックネームのようなものだと思えば、まぁいいか。
風呂から上半身を出して、過去に嫉妬するエイミの頭を包み込むように抱いてやる。ついでに濡れた頭も撫でると、獣の耳が小刻みに震えた。
これは喜んでいるというより、何かに気付いた反応だ。
エイミの細い指が、美也子の鎖骨のあたりをなぞった。
「ご主人様、先日、耳に穴を開けることはできないと申されましたね」
「うん、学校で怒られちゃうからね。大学生になってからにしよう」
それもまだまだ先の話だ。それまでエイミの嫉妬心をなだめるために、何かできることはないだろうかと模索する。
クリスデンのように猫なで声で機嫌を取るのは、反面教師にしたいと思う。
「では、別の方法を提案させて頂いてもよろしいでしょうか? ネヴィラの若い恋人同士が好んで行う、もう一つの方法を」
「どんな?」
エイミはしきりに美也子の肌をさすっている。
「耳に穴を開けるよりもずっと簡単で、ただ継続しなくてはならないことです」
「継続?」
「そう、二人が離れ離れになったらいつか消えてしまう証、それが消えないように定期的に行う愛情表現が」
美也子の腕の中で、エイミは一体どんな表情をしていることだろう。
切実な願いごとをする時のように、わずかに声が震えていた。その提案を、美也子に拒否されることを恐れているようだ。
「どんなこと?」
努めて優しい声で続きを促す。
「教えて」
美也子はエイミの頭を解放した。
エイミは上目遣いで美也子の顔色を窺ってくる。遠慮がちなその仕草がとても可愛らしい。
「ここでできます。……わたくしにお任せ頂けますか?」
「もちろん」
「では、そのままの姿勢で」
エイミに指示され、湯から半身を出した状態で固まると、胸部をじっと見つめられた。
一体何を眺めているのかと思っていると、視線を向けていたあたりへとエイミがそっと顔を寄せた。
鎖骨の下、左胸のふくらみが始まるあたり。そこにエイミの唇が触れたかと思った瞬間、皮膚が吸い上げられる。
その艶めいた行為に美也子は硬直する。
エイミの頭が離れた時、肌には小さな赤い跡が残っていた。
「一度やってみたかったのです。まさか実現する日が来るなんて」
はにかみながらエイミは言う。両頬を押さえて、身悶えした。
――これは、キスマークというやつか。
美也子は乏しい性知識からその単語を引っ張り出した。
恋人の所有権を主張する印だという認識で間違っていないだろうか。ネヴィラではこんなことが流行っているのか、それとも現代日本でも同様なのに、美也子が知らないだけだろうか。
新鮮な驚きを感じる反面、美也子の頭は冴えていた。キスよりも進んだ行為のような気がするが、まったく照れくささが生じない。
恐らく美也子は、この行為にさほど特別な感慨を抱かない性質なのだろう。それよりも普通に唇にキスをする方が好きだな、と思ってしまう。
だがエイミが喜んでくれるなら、いくらでも受け入れよう。
「お互いに付け合うの?」
「左様でございます」
美也子はエイミの胸部を見た。
今度は彼女が湯船から上半身を出して、準備万端と言った格好。浮き出たあばらに、発育不全の小さな乳房、色素の薄い先端部。
見慣れたはずの裸体だが、改めて眺めてみると逆らいがたい魅力を放っていた。少し動揺してしまう。
「ど、どうして左胸?」
「心臓がありますから」
「なるほど……」
壊れ物に触れるように、美也子はエイミの左胸に唇を乗せた。少し口を開いて、白い皮膚を吸い上げる。
一体どれだけの力で吸い込めば、きれいな赤い色が出来上がるのだろう。吸引力不足では元も子もないし、強すぎれば痛みを与えてしまうのではないか。
戸惑いつつ吸う力を強めると、唇の端から空気が漏れて間抜けな音が出た。
それを聞いたエイミが失笑を漏らしたため、美也子は不貞腐れて口を離す。見れば、肌は薄っすらと朱に染まり、一応は成功しているようだ。
「まぁ……」
美也子の胸にあるものよりも数段劣ったそれを見て、エイミは微笑ましそうに感嘆する。
その態度、気に入らない。何か意趣返しが必要だ。
「もう一度やるよ」
「はい」
再び無防備な姿をさらすエイミに、美也子はしめしめと頭を寄せた。そして、同じ場所に唇をつけると見せかけて、別の場所に噛み付いてやる。
ふくらみの頂に控える、おそらく上半身で最も敏感な部分に。
もちろんごくごく軽い力で。そしてほんのひと噛みだけ。
「ご主人様っ!」
エイミが大声を上げて浴槽の端に逃げる。
「な、何ということをなさるのですか……」
その声と表情に非難の色がないことを悟り、美也子は媚びるように尋ねる。
「イヤだった?」
エイミは答えない。ただ赤い顔で、視線をうろうろとさせている。
「イヤならもうしないよ、二度と」
あえて意地悪な物言いをして、なぶる。
「ご主人様のなさることすべてが、わたくしにとっての喜びです……」
ですが、とエイミは二の句を継ぐ。
「今は心の準備ができておりませんでしたので……」
そして左胸をそっと押さえ、首をすくめた。何かを覚悟したかのように、きつくまぶたを閉じる。
「こ、心の準備」
美也子は言葉を繰り返して青ざめる。
ただの悪戯のつもりだったのだが、とんでもないことをしてしまった気がする。
心の準備ができている状態で先ほどの行為をしたら、それはきっと、キスよりもずっと先にある、恋人たちの営みではないだろうか。
「ゴメンそんなつもりじゃない!」
息継ぎもせず、早口で謝る。
「ではどのようなおつもりだったのですか」
エイミの真面目な問いに、おふざけでした、などとはとても言えなかった。
リューの言葉を借りるならば、『生娘にしてよい行いではなかった』というところか。我知らず、あの悪魔と同じことをしてしまっていた。
「ゴメン、二度としない、二度としないから……」
ぼそぼそと呟いて、美也子は逃げるように湯から上がった。
「ご主人様!?」
エイミのすがるような声を聞きながら、美也子は脱衣所へ飛び出して浴槽の扉を閉めた。
湯からは出たはずなのに、身体が火照って仕方なかった。
このあとどう仲直りしたかは、二人だけの秘密だ。
エイミの恋の知識は、クリスデンの取り巻きの猥談と、クリスデンの本棚の奥に隠してあった秘蔵コレクションから得たものなので、ちょっと偏っています。