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97.大人の顔

「お母様が心配してらっしゃいました。わたくしに、それとなく事情を聞くようにと……」


 こちらに背中を向けたまま、エイミがぽつりと漏らした。


 今は風呂場で彼女の背中の毛を洗ってやっている。

 新調したボディソープはよく泡立ち、よく香る。もこもことした泡の感触と、甘いミルクのような匂いに頭を呆けさせていた美也子は、はっとして手を止めた。


 今日一日で本当にいろいろなことがあった。

 矢吹櫻子の宣戦布告、そして投票戦の開始。さらに、イザベルの仲介によってアスラ人との食事会が決定した。

 晩餐だと帰宅が遅くなり、母に事情を説明せざるを得なくなるだろうから、頼み込んで昼食にしてもらった。


 それらの出来事を脳内で何度も巡らせ、まかり間違っても悪手を打たないようにと、今後己が取るべき行動を慎重に考えていた。


 そのため美也子は、帰宅してからずっと勉強机に腰掛けて黙り込んでいた。リューからもらった耳長悪魔が手首にしがみついて腰を振り出しても、人差し指ではじいて床へ捨てただけ。


 夕食時も、恐らくずっと厳しい顔をしていたことだろう。気付けば表情筋がすっかり強張っていたのだから。

 その反動か、風呂に入る頃にはむしろ呆然としてしまっていた。脳が疲労を感じて休養を取っているのだろう。


「ゴメン。お母さんには、友達とケンカしたらしいとでも言っておいて」

「……はい」


 振り向かぬまま、エイミは頷いた。


「何かお身体に障るようなことがあったわけではないのですね」

「うん、危害は加えられてない」


 エイミは、矢吹櫻子という謎の女に会いに行ったということしか知らない。今日の出来事すべては、未だ彼女には話していなかった。


 湯船に浸かって向かい合いながら、美也子は順を追って話す。

 神の品評会のこと、投票のこと。イザベルとも会ったこと。


 ――そして、アスラ人のコミュニティに『支援』をお願いしようと思っていること。


「子どもの私だけでは、絶対に世界中の人たちと交流なんてできない。でも、アスラ人たちなら……」

「ご主人様をコミュニティに加えようと思っているアスラ人たちなら、きっと協力してくれると?」


 美也子は無言で頷く。


「協力を仰ぐ代わりに、ご自身の身分を明かし、己を差し出すというのですか?」

「そう、だよ」


 なぜ、という言葉を予期していたが、それがやって来ることはなかった。エイミはただ難しい顔で黙りこくっている。


「ご主人様の決断されたことに、口を挟みません」


 その従順は、悲しかった。まるで突き放されたようで。


「ゴメンね、相談もなしに」

「いいえ、そういうことではございません」


 エイミは首を横に振った。


「何がどうしたと問い詰める必要を感じないほど、今のご主人様は大人の顔をしていらっしゃいます」


 予想外の言葉に目を見開く。

 『大人の顔』と言われて、思わず腰を浮かせて浴室内の姿見を確認してしまった。もちろん、曇っていて何も映さない。

 そんな美也子に、エイミは少し頬を緩めた。


「ご自分で考え、決められたのですね」


 口元は笑っているが、瞳はどこか寂しそう。そのエイミの表情を見て、既視感を覚える。


 高校の入学式の日、美也子は母と並んで歩きながら、校門までの桜並木を眺めていた。だが校門が見えた時、美也子は母を置いてそこへ走っていった。今日から高校生なのだと浮かれた気持ちが、足を急がせたのだ。

 そして母を振り返った時、今のエイミと同じような顔をしていた。


 その時の美也子は、母に何もしてやらなかった。あまりに距離があったからだ。

 だが今その顔をしている者は、目の前にいる。

 湯の中に沈む、エイミの両手を包み込んだ。


「そう、自分で決めたの」


 揺れる瞳を真っ直ぐ見て、美也子は自分の素直な気持ちを告白した。


「私はアスラの人たちの前で、自分の意志を話す。なぜ協力して欲しいか、そして私の目的は一体何なのかを。……その時、横にエイミもいて欲しいんだ」

「わたくしも……」


 エイミは怯えた様子を見せたが、美也子はそれを落ち着かせるよう、努めてゆっくりと告げる。


「危険だって分かってる。でも、そばで聞いていて欲しいんだ。どんな手段を使っても、絶対に手出しはさせないから」


 語勢を強めると、エイミは頷いてくれた。


「恐ろしい気持ちはあります。ですが、ぜひご一緒させて頂きたいと思います。……下僕として」


 ――下僕。その言葉を、彼女の口から久々に聞いた。

 美也子は口を尖らせる。


「エイミ……。そろそろ、『ご主人様』じゃなくて、名前で呼んでくれないの?」

「それは……」


 エイミは目を伏せた。


「恋人なのにおかしいよね?」


 卑怯だと分かっていたが、あえて強い口調で問い詰める。

 エイミは唇を引き結び、沈黙を返した。そこをさらに責める。


「もしかして、クリスデンが『ご主人様』って呼ぶように指示したの?」


 そうでないことは分かっていた。あの男がそんなことをするはずがないと。こんな物言い、ただの意地悪だと理解していても、言わずにいられなかった。

 エイミはうつむき、意を決したように口を開いた。


「いえ、最初は名前で呼んでおりました。ですが……」

「うん?」

「ですが……、ですが……」

「エ、エイミ?」


 その顔が見る見るうちに不機嫌になっていったため、優勢だったはずの美也子は焦った。

 これは、美也子にまとわりつくリューを見ている時と同じ表情だ。


「……ご主人様は、『タリア』という名前に覚えはありますか?」

「――いや、ないけど……」


 明らかに日本人名ではないし、マンガか何かのキャラクターかなぁ、と目線を上に向けて考えるが、すぐには思い浮かばない。

 エイミは低い声で言った。


「わたくしよりもずっと前に、クリスデン様の元にいた獣人です」

「あ、そうなんだ」


 言われても、やはり記憶には浮かび上がってこない。エイミの名前だって忘れていたのだから、それは当然のことだ。

 その『タリア』が一体どうしたと首を傾げていると、エイミは絞り出すような声で続けた。


「もうとっくにクリスデン様の元から離れて、二児もいるというのに、ある日お屋敷にやって来て。わたくしの目の前でクリスデン様にまとわりつくのです。『ご主人様、ご主人様』と甘い声を出して、ふさふさな尻尾であのかたの足を撫で回して……!」

「あ、そうなの……」


 拳で何度も水面を叩くエイミを、美也子はまばたきもせず見つめた。湯の飛沫が大量に顔面へとかかり、眼球にも痛みを生じさせるが、贖罪だと思い耐えた。

 美也子が持ち出した話題なのだから、その責任を負わねばならない。

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