94.露呈する雄性
「そんなこと、あなたに言いたくありません」
美也子は挑むようにそう言った。初対面の女に、己の内心を語りたくはない。
「ほう」
櫻子は頬杖をついて、今度は興味たっぷりに美也子を見た。工藤は、級友の頑なな態度に驚いた顔をしている。
「善行をしようなんて思っていません。それはただ、私の利己的なお願いです。私の心の深くにある、とある個人的な気持ちから来た願い……」
「美也子ちゃん、君、子どもだとばかり思っていたけど、そうでもないみたいだな」
そう言って薄く笑う櫻子は、男の顔をしていた。
「櫻子さんの願いは? ……いえ、私に聞く権利はないですね……」
尻すぼみに『彼』に問うと、下顎のあたりを撫でた。まるでそこにヒゲでもあるかのように。
「私の願いは、本当に自分本位のものだ」
喋り方から柔らかさが消えて、まさしく男性の――老練の魔導師のもののようになる。
「今後肉体が死んで魂が転生するたび、記憶を引き継ぐこと」
前世の記憶などないほうがいいと言っておきながら、矛盾した願いを口にする。
それでもその願い自体は、美也子にも何となく理解できる。櫻子は前世の記憶を持つ辛苦よりも、利便性を選択したのだろう。
だが強力な野心をはらむ物言いに薄ら寒くなる。
櫻子は拳を握る。そして強靭な声音で告げた。
「そしてあらゆる世界であらゆる魔法を学び、いつか、十三世界のあらゆる魔導師を凌駕した至高の存在になる」
熱を帯びた瞳に、美也子は身体を強張らせた。一方の工藤は、櫻子を陶然と見つめている。彼女は、櫻子のうわべだけでなく、全てを知った上で崇拝しているのだろう。
身震いしてしまうのは、エアコンが効きすぎているからではない。正真正銘、異世界の大魔導師がその野望を語っているからだ。
わずかな怯えに目を見開いた美也子と、男の顔で笑う櫻子。
しばし黙ったまま見つめ合っていたが、櫻子が唐突に歯を見せ笑う。子どもを褒める時のような、太陽のような笑顔だった。
先ほどまでとのギャップに戸惑う。
「今から私たちは、ライバルだな」
それはスポーツマンガの好敵手のような宣言だった。美也子は面食らったが、すぐに湧き上がってきた激情に従って叫んだ。
「ライバルだなんて! どうして私を煽ったりしたんですか? わざわざ会いたいと呼び出して、事情を説明なんかして。願いが叶うと教えられなければ、拒否しかしなかったのに」
「私はね、まず君を凌駕したいんだよ」
櫻子の顔がまた雄性を帯びる。
「ヒュー・クリスデン、私は不戦勝などまっぴらだ。まずはお前に競り勝って、我が願いへの足掛かりとしたい」
美也子は気迫で押された。それはそうだ、相手は遥かに年上の『男』。女子高生が敵うわけがない。
それでも、美也子はエイミの顔を思い出し気持ちを盛り返させる。アスラの神を害したのは獣人だと告白して泣き、床に伏すあの姿を二度と見たくない。
「受けて立ちましょう」
堂々と言ってはみたものの、懸念事項は多い。
「でも、どうやって雌雄を決するんですか? 決闘でもする気ですか?」
正直、そうなると不利だ。いや、リューを召喚すればむしろ有利か。いやいや、そんなことをしたら、魔法大戦争になったりしないだろうか。
櫻子は大笑した。
「まさか、そんな野蛮な。私はデスクワーク派だよ」
そう言って、目尻を拭う。涙が出るほど笑わなくともよいだろうに。
ひとしきり笑いを吐き出すと、櫻子の顔はまたもや前世のものへと変貌した。
「投票するんだ」
「投票……?」
「どちらの魔導師が、オーヴィ代表選手に相応しいか、みんなに投票してもらおう」
「みんな?」
美也子が眉をひそめると、櫻子は不敵に笑んだ。
「そう、前世の記憶を持つ皆。何らかの理由で異世界からやってきてこの世界に住んでいる皆。魂と神、魔法、この十三世界について識る皆」
瞠目し息を呑む美也子をさらに圧倒するように、櫻子は続けた。
「プレゼンテーションするんだよ。我こそが代表に相応しい、我に投票せよ、って。もう『あの人』にもそれで話をつけてある」
その台詞を聞き、とあることに気が付いた。
「まさか、あなたがブログを書いていたのは……!」
「そう、ここにいる工藤ちゃんのように、前世の記憶を取り戻してしまった『同志』を募るためさ。――あれはもう既に六か国語でアップ済み」
まるで些細な悪戯でもしてしまったかのように気安く言ってのける櫻子に、開いた口が塞がらない。これでは、スタートの時点で大差がついてしまっているではないか。
「大丈夫。まだ私は、一部を除いてプレゼンを開始していない」
櫻子はキャリーバッグとは別に下げていたショルダーバッグから、USBメモリを取り出す。
「この中に、『同志』のデータが入っている。名前と住所、メールアドレスだ。個人情報だから、失くしちゃダメだぞ」
恐る恐る美也子はそれを受け取った。一体何人のデータが、何ヵ国分あるというのだろうか。
日本だけでなく、外国の人たちとも交渉しに行かなければならないのだろうか。ろくに英語も話せない、学生の自分が。旅費はどうすればいいのか。
背中を冷たい汗が伝う。
「パスワードは、『サクラコ』とローマ字で入れろ」
「……はい」
悄然と返事をする。受け取った小さな記憶媒体が、鉛のように重かった。
「あはは、ビビっちゃって。今からそれでは、私に勝っても品評会ではどうかな?」
揶揄され、少しムッとなる。
「品評会では、一体何をするんですか? 特技でも披露しろと?」
「さあ、そこまでは知らないよ。でもね、そのデータの中に、知っている人がいるかもしれないぞ」
「そんな、まさか」
頭を振る美也子に、櫻子も同様の行動を返す。
「どこかの世界で五百年以上生きた、知識の宝庫みたいな人がいる可能性はある。そういう人を見つけて仲間に出来たら、夢へと近づくだろうな」
美也子はただ、小さなUSBを見つめることしかできない。
「ちなみにもう工藤ちゃんは私の陣営だから、諦めろ」
その言葉に顔を上げ、思わず顔をしかめた。
櫻子はまるで恋人のように工藤の肩を抱き、工藤はこれ以上なく赤い顔でうつむいていたからだ。
――籠絡したのか。
吐き気を覚えた。
工藤も前世の記憶があるとはいえ、まだ高校一年生の女子だ。それを、この『男』は手玉に取った。感知能力に優れるという元妖精の工藤は、さぞ使い勝手がよいのだろう。
愛情などあるはずがない。その証拠に、この『男』は腕の中で赤面する少女ではなく、眼前のライバルしか見ていない。
いたたまれなくなり、思わず二人から目を逸らした。そして氷だけになったコップを見つめる。
敗北を認めるのはまだまだ早い。
美也子にはリューがついている。
そして――ひとつの大きな『伝手』がある。
「私たち二人の投票には、このUSBに入っている以外の人が参加しても構わないですよね」
「もちろん。オーヴィに住まう全ての識者が投票者だ」
美也子は櫻子の目を真っ直ぐに見た。櫻子もまた、挑むようにその視線を受け止める。
しばしにらみ合っていたが、視線を外したのは美也子からだった。
こんなことをしている時間が惜しい。早く家に帰って、心配しているエイミに報告しよう。
それから――。
「それでは私はこれで」
席を立つと、櫻子は最初に出会った時のような、さわやかな笑顔を見せる。
「そのデータの中に、私の連絡先も入ってるから。何かあったら電話してきてもいいぞ」
「ありがとうございます」
色々な意味を込めて礼を述べ、頭を下げる。櫻子は目を細めて手を振った。
「遠慮するな、若者よ。まずは頑張って記憶を取り戻せよ」
余裕たっぷりな物言い。『彼』は優位を確信しているのだろう。
その記憶は、異世界の悪魔が握っていると告げる必要などない。
「工藤さんは帰らないの?」
級友に問う。彼女はまだ赤面している。
「あの、ええと、どうしようかな」
「工藤ちゃん、私と遊んでいくか?」
工藤の肩を抱く櫻子の指が強さを増し、愛撫するかのように蠢いた。すると、はにかみ赤らんでいた工藤の顔色がパッと変わる。
顕現したのは、喜悦。
櫻子の言う『遊ぶ』が、カラオケやボーリングであることを祈るばかりだ。それが儚い希望だと思える程度には、二人の間に漂う空気が艶を帯びている。子どもの美也子にも分かってしまうほど、露骨な雰囲気だ。
嫌悪と共に、工藤に哀れみを感じずにいられない。
「工藤さん、今日のお礼がしたいから、一緒に帰ろう」
美也子は立ち上がると、工藤の隣まで移動してにっこりと笑う。そして工藤に手を伸ばす。
「え、ええ……」
工藤は戸惑い、差し出した美也子の手を取った。美也子はエスコートする紳士のように優しく工藤の手を握る。
「行こ。帰って、駅前の喫茶店で冷たい物でも食べない?」
「そうね」
そして二人で櫻子に礼を言い、カフェを後にする。
工藤は少し後ろ髪引かれているようだったが、美也子はその手を強く握ったまま離さなかった。
背後の櫻子がどんな顔をしているか知ったことではない。もう二度と会いたくはない。