89.花火大会 その1
今日は、美也子の暮らす市の花火大会だ。毎年、七月の最終土曜日に開催される。
開催場所は、美也子のマンションから徒歩十五分程の総合公園。
もちろん歩いて行くことはできる。だが混雑がひどく、せっかく自宅のバルコニーから見学できるのだから、わざわざ足を運ぶ必要性を感じない。
母は、同僚たちと現地で見学するため出掛けていった。有志が見学場所を確保し、職場の皆でわいわいしながら見るのが恒例なのだ。
幼い頃は美也子も同席したが、先の理由からあまり乗り気ではなかった。屋台の食べ物も別に好きではないし、トイレだって混む。
よって、真由香が越してきて以降は、二人きりでマンションのバルコニーから眺めるのがお決まりだった。
そして今年も真由香がやって来る。
「おじゃましま~す」
「いらっしゃい真由香ちゃん」
真由香はいつもよりもトーンの高い声で挨拶しながら玄関へ入ってきた。目尻を下げ、いかにも上機嫌といったふう。
「美也子、これうちの母親から」
紙袋を手渡され、美也子はちらりと中身を窺った。
「フルーツ大福だね、ありがとう!」
「美也子のお母様、好きだものね。二人で食べて」
間違いなくエイミのことは数に入れられてないが、箱の大きさからして六個入と思われるため、問題ないだろう。
「秋になったら、岐阜のおじいちゃんから栗きんとん送ってもらうからね」
「楽しみにしてるわ」
うきうきとした様子の真由香だったが、パンプスを脱ごうと足元に視線を落とした時、ぴしりと硬直した。
端に揃えてある、ヒールの高いサンダルを見つけたからだろう。明らかに若者向けのデザインで、美也子がヒールのある履き物を好まないことを知っている。
「これ、誰の?」
眉がきりきりと吊り上がっていく。
あ、と美也子は頬を掻いた。
「ゴメン、愛奈が来るって言ってなかったね」
真由香の顔が般若のようになり、真正面のリビングのドアを睨み付ける。脱いだ靴を律儀に並べ直した後、猛然と廊下を駆け、リビングのドアを力いっぱい開け放った。
「しまったなぁ」
のんきに呟きながら、美也子もその後を追った。
リビングではすでに、ソファに座る愛奈へと真由香が詰め寄っていた。
「なんであんたがいるのよ!」
「だって、美也子が誘ってくれたんだも~ん」
怒る真由香とは対照的に愛奈はニコニコしている。
「第一、そんなに露出して、何のつもりよ!」
「え~、別に普通の格好だもん」
愛奈は着ていた薄手のカーディガンを脱いで、タンクトップ姿になっていた。タイトなそれは、愛奈の細い体によく似合っており、ほんの少しだけ胸の谷間をのぞかせている。
美也子は思わず駆け寄り、そのむき出しの肩に触れた。
「きゃっ、急にどうしたの?」
なぜか嬉しそうな笑顔を向ける愛奈にカーディガンを押し付ける。
「冷えてるじゃない。ちゃんと着て」
「うん……」
冷え性の友人を案じてのことだったが、なぜか愛奈はうなだれた。
悄然とした動きでカーディガンを羽織る愛奈を、真由香が嘲笑する。
「バカね、貧乳を見せびらかして」
すると、愛奈の瞳が一瞬輝く。
「そういう真由香ちゃんは何カップなの~?」
「なんであんたにそんなこと言わなきゃいけないの!」
「え~、だって気になるもん」
そう言うと愛奈は素早く腕を伸ばし、真由香の左胸をつかんだ。
「真由香ちゃんって隠れ巨乳だよね」
確かに、と美也子もつい見てしまう。
真っ赤になった真由香は謎の言語を発しながら愛奈の頬を張った。小気味良い音がリビングに響く。
「うええん、いたーい」
「今のは愛奈が悪いよ」
大仰に痛がる愛奈に注意する。
真由香の精神は成人女性だが、意外と純情なところがある。先日の悪魔たちとの一件でもよく分かった。女性コミックも読むしたまに下ネタも言うが、自分に向けられたセクハラには弱い。
頬をさする愛奈は、反省した様子を見せない。
「いいじゃな~い、ちょっとくらい」
「いいわけあるか!」
「でも真由香ちゃん、あたしこの前お風呂で美也子の胸触ったよ~」
「んなっ!」
真由香が仰け反る。
「美也子もあたしの触ったからお相子。だから真由香ちゃんもいいじゃない?」
今日は愛奈が真由香をおちょくって圧倒しているな、と思いつつ、美也子はキッチンへ行ってジュースを用意する。
「美也子だって、巨乳の感触を経験したいよねぇ?」
リビングから愛奈が話し掛けて来た。
「まあ、興味はある……」
素直に答えてしまい、口を押さえた。
案の定、真由香は耳まで赤くなってうつむいた。その頭を愛奈が撫でる。
「わあ、真由香ちゃんったらピュア~」
真由香は手負いの獣のようにな顔で振り払う。
「なんで風呂に入ったのよ!?」
「泊まりに来てくれたんだもん。一緒のベッドで寝ちゃった」
「はぁぁ!? てめえ、何もしてないだろうな!」
ドスのきいた真由香の声がリビングを揺らした。
愛奈は怯むことなく美也子へ話を振る。
「いろいろしたよね~、美也子」
「まあ、いろいろしたかな……」
マンガを読んだりドラマを見たり、重大な相談にも乗ってもらった。真由香に話せる内容ではなく、曖昧に濁すしかない。
追及を逃れるため、愛奈の手土産であるシュークリームを小皿に並べる作業へと没頭する。
言葉を失って肩を震わせる真由香に対し、さらに愛奈は続けた。
「うらやましい?」
「別に!」
「真由香ちゃんって、美也子と同じクラスになったことないんでしょ~? じゃあ修学旅行は大浴場も部屋も別々だったんじゃない?」
にやにやする愛奈に対抗するように真由香は叫ぶ。
「小六のときは一緒の時間に入浴したわよ!」
「へぇー、その時ってまだツルツルだった?」
「ちょっとだけ……」
ノリにつられて何かを白状しかけた真由香に対して、美也子は何を言うのかとぎょっとした目を向けた。
真由香は詐欺にでもあったかのように、あんぐり口を開いた。
そしてまた手を振り上げたが、此度の愛奈は避けた。
「今のは美也子と真由香ちゃん、どっちの話なの? わざわざ美也子のチェックしたの?」
「黙れ!」
真っ赤な顔でテーブルを叩く真由香を見て、美也子はさすがに注意した。
「愛奈ぁ、やめてあげて。私も恥ずかしい」
悪戯っ子のように愛奈は笑っている。
二人の間に割り込むように、美也子はソファの前のローテーブルにジュースとシュークリームを並べた。
「これ、駅前のお店のだよ。真由香ちゃん、好きでしょ? 愛奈が買ってきてくれたの」
美也子が購入を依頼したわけではない。以前通りがかったときに、愛奈と雑談したのだ。
そういう他愛もない話を覚えていてくれる愛奈は、本当に『女子力が高い』と思う。
「変な薬でも入ってるんじゃないでしょうね」
「もう、真由香ちゃん、やめて!」
「ふん!」
真由香は鼻を鳴らし、美也子は嘆息した。愛奈は相変わらず笑っている。
美也子は、腰を据えようとソファを見た。
千歳家のソファは三人掛けで、女子三人が尻を並べたとしても余裕がある。今は中央部に愛奈が座っているが、ここは大人しく美也子が中心になるべきだろう。
「私が真ん中に座るよ」
すると愛奈は大人しく端へ寄ってくれたが、美也子が座った瞬間しなだれかかってきた。また真由香の眉が吊り上がる。
「真由香ちゃんも、もたれてきてもいいよ」
座るように促すと、少し顔を赤らめつつもどっかりと腰を据えた。身体を寄せては来ないのはいつものことだ。
壁の時計を見ると、開始まであと十分程。一発目を見逃すのも癪なので、テレビは切っておこう。
「そういえばネヴィラでは花火ってなかったの?」
空気を変えるため尋ねると、真由香は少しだけ口ごもった。
「ネヴィラでは、花火は葬式の時に上げたの」
予想外の話に、美也子はえっ、と呟く。愛奈も目をぱちくりさせていた。
「魂を送り出す儀式だもの。偉人ほど、盛大に打ち上げたのよ。クリスデンの時は、お祭りみたいだった……」
しみじみと語る真由香に、美也子は感心した。
「へえ、そうなんだ」
少しうらやましいなと思う。
しんみりした日本のお葬式も、故人を偲ぶにふさわしいとは思うが、美也子個人としてはお祭り風の葬送の方が好みだ。
しかし、エイミが花火を苦手として引きこもっているのは、まさかそのせいではあるまいか。あとでそれとなく聞いてみよう。
「真由香ちゃんは、お葬式思い出してイヤな気分になったりしない?」
「ううん、こっちの世界の花火は色とりどりで綺麗だし、何より美也子と二人で一緒に見れたから……」
真由香はうっとりしてみせた。
初めて二人で花火を見た時のことを思い出して美也子も微笑む。
子どもだけで留守番する夜にドキドキしながら、花火が始まるまで夏休みの宿題をやった。夜空に上がる大輪の花を見ながら、二人でお菓子を食べた。
その時の真由香は、静かに笑っていたと記憶している。
しかし、ただの物静なの女の子だと思っていたのに、まさか正体が大人の魔女で謙虚なストーカーだったとは。
だが、今の真由香の方が付き合いやすくて好きだと思う。
物思いにふけっていると、愛奈がどこか冷めたような声を発した。
「ふーん、今年は三人だよ。これからもずーっとね。――ねぇ、美也子」
「う、うん、そうだね」
すると真由香が絶叫する。
「空気読めよ、お邪魔虫!」
花火の打ち上げ開始は七時半。睨み合う友人二人に、そろそろ始まるよと諭した。
栗きんとん:岐阜県名産のお菓子。おせちに入っているものとはまったく違います。