88.本能
風呂場に沈黙が漂う。
「あの、エイミ……」
おずおずと提案する。
「リューにされたこと、再現してもいいよ」
するとエイミの喉がごくりと鳴った。目を皿のようにして、美也子の方をまじまじと見ている。
「でも、それをしちゃうと……」
「は、はい」
「――なんか、希少価値がなくならない!?」
「はい?」
エイミが素っ頓狂な声を上げたが、構わず続けた。
「あんなふうに隙あらばキスばっかりしてたら、なんか慣れちゃって勿体なくない?」
それは素直な美也子の気持ちだった。
リューの手慣れた様子には、どうも『遊び人』的なものを連想してしまうのだ。
「たまにするからいいんじゃないのかなぁ?」
「ご、ご主人様はたまにする方がお好みだとおっしゃる?」
「うーん……まぁね」
先日、エイミとキスした時のことを思い出す。
美也子の中で、恋人同士のキスというものは『挨拶のような当然のコミュニケーション』ではなく、『堪能するものである』という認識が出来上がってしまっていた。
「そ、それもよろしゅうございますね」
どこか不満げなエイミの声に、美也子はようやく己の認識を疑った。
「エイミはどうなの?」
「わ、わたくしは……」
身体ごと目を逸らすエイミに肉薄し、耳に囁く。
「エイミの意見を聞きたいな」
濡れそぼった獣毛がわずかに逆立ち、水滴が散った。
「ねぇ、どうなの」
有無を言わさぬ瞳で、浴槽の端に追いやる。身体を縮めるエイミに対し、少し高揚してしまった。
覚悟を決めたように、エイミは小さく言った。
「……あらゆる時に、あらゆる場所で望んでおります」
「……は、っ」
美也子はぽかんと口を開けた。
「そのように近付かれると期待してしまいます。そのように無防備にされていると、こちらからむしゃぶりついてしまいたくなります」
あまりに情熱的で艶めかしい告白に、美也子の口は塞がらない。まるで顎関節が壊れてしまったかのよう。
「わたくしとて、あの悪魔と変わりありません。いつも胸に渦巻く欲望を満たしたいと考えております。ただ、浅ましいと罵られることを厭い、我慢しているだけでございます」
耳を倒し、震えながら欲求を口にするエイミに、美也子は鼓動の早まりを感じた。
――ああ、かわいい。
かわいいだけではない、もっとこう……ああ、語彙力が足りない。
恥じらうエイミがあまりに愛しく、思考が熱を帯びて混乱する。それが少し落ち着いた時、心に強い思いが湧き上がった。
エイミの願いを叶えてやりたい。そしてまた美也子の願いも叶えて欲しい――。
しばしためらったのち、リューが女悪魔にしていたように、そっと頬を包み込みんでこちらを向かせる。
何かを察したエイミは、胸の前で畳んでいた足を伸ばし、美也子の更なる接近を許す。
浮力に任せ、美也子はエイミの太ももの上にまたがった。
待ちの体勢に入ったエイミに顔を寄せ、唇を軽く触れ合わせる。やはりとても柔らかい。
その感触を追求したいと望むあまり、下唇だけを吸い上げ、噛みつく。
んっ、とエイミの咽喉から小さな悲鳴が漏れる。あれは苦痛から来るものではないから大丈夫だと、本能が勝手に判断した。
今度は己の舌先で舐めてみる。
唇とはマシュマロのような感触だと何かの雑誌で読んだことがあるが、それは大嘘だ。全然違うではないか、どこのどいつがそんなことを言ったのやら。
マシュマロに代わる案を見つけようと、さらに執拗に確かめる。
上唇も同様にしてみようかと思ったが、呼吸との兼ね合いが難しくなってきたのでやめておいた。
自分の唾液が残らぬように、軽くすすりながら唇を離す。
すべて、心の深奥から込み上げる欲求に任せての行為だった。
虫や獣が誰に教えられたわけでもなく繁殖し子育てするように、人間だって本能で愛し方を知っているのだと、美也子は妙に冴えた頭で思った。
「ご主人様ったら……」
エイミは深くうつむき、顔色を見せない。耳が強く反り立っているため、嫌悪しているわけではないようだ。
美也子は立ち上がり、何となく頬を掻いた。ことが終わってみれば、少しばかり照れ臭い。
「あの、お母さんが待ってるから、出ようか」
「はい……」
下を向いたままエイミは頷く。
「……あの、先に出て頂けますか? すぐに参ります」
「うん? 分かった」
首を傾げながらも、美也子はその通りにした。
きっと、火照った身体を覚ますために冷水でも浴びたいのだろう。
それにしては、浴室から出てくるまでにずいぶん時間がかかっていたが。
六章はこれで終わりになります。
番外編を挟み、次章へ移ります。