86.こいつとは仲良くできそうにない
リューは金色の目を細めながら言った。
「一旦帰って、『あいつ』にお前と同じ傷をつけてやる」
「そんなことしたら大戦争になっちゃうじゃないのん。だからそれはダメ~ん」
大袈裟にぶんぶんと頭を振りながら、女悪魔はリューの背中にまとわりつく。
「構うものか。こちらの世界では暴れ損ねたからな、たまにはよかろう」
「あらあら、うふふ」
女悪魔は制止をやめた。それどころか、美也子たちの方を見てちろりと舌を出した。どうやら、ダメだと言うことで敢えてリューの復讐心を煽っていたらしい。
強かなそのさまに、真由香と顔を見合わせ、苦笑する。
女悪魔を案じていたリューが、突如振り向いた。
「一つ言っておく」
「あ、うん」
真剣な物言いに美也子はやや身構えた。
「お前の魔力量は莫大だとは言え、限界がある。大気中に魔力のないこの世界で、毎日わたしを呼び出すことは不可能だ。ここぞという時のために、温存しておけ」
「うん」
「いざとなれば、魔力ではなく体毛や血液を媒介にしろ。毛髪は伸ばしておけ」
「分かった……」
『いざ』という時を想像し、少し身震いする。そんな日が来ないことを祈るばかりだ。
「それと、これを」
リューが床をつま先で叩くと、その影から何かが飛び出した。虫かと思って悲鳴をあげてしまう。
茶色の毛に包まれた物体は数回跳ねてリューの肩の上に着地する。
まじまじと見てみれば、それはウサギ――耳長悪魔だった。真由香のものとは異なり、垂れ耳で茶色と白のぶち模様。しかも手のひらサイズ。
「か、可愛い……!」
鼻をひくつかせるその生物に対し、思わず感嘆が漏れた。
「これを預けておく。いざとなればこいつがお前を守る。四六時中持ち歩け」
それは願ってもないことだ。つい頬が緩んでしまう。
リューの肩からそっとそれを受け取ると、柔らかく温かかった。幼い頃飼っていたハムスターのことを思い出す。
「よ、よろしくね」
おずおずと話し掛けると、ウサギは美也子の手のひらの上で後ろ脚を踏み鳴らした。
痛みはなかったが……この動作は、ウサギという生物の『不機嫌のしるし』ではなかっただろうか。
美也子が眉をひそめると、毛玉は甲高い声で言った。
「うるせぇバーカ! せっかく口説いた女とヤれそうなとこだったのによ!」
――あ、これ、仲良くできそうにないやつだ……。
困惑したようにリューを仰ぐが、平然としている。己の契約者を罵る者を叱責する気は、毛頭ないようだった。
「リュー、他のと交換してよ」
「そいつが一番力が強い」
美也子は悄然と肩を落とす。こんな口汚い用心棒は欲しくなかった。
「では、近いうちに会えることを願っている」
今度のリューは、美也子のこめかみあたりにキスをした。
不意のスキンシップはやめて欲しいと抗議の目を向けると、すでにリューはいなかった。
「じゃあね、蜂蜜ちゃ~ん。以前もらった魔力が切れちゃったから、アタシはしばらく顔を出せそうにないわ~ん」
女悪魔は真由香に頬擦りすると、さも愉快そうな顔で美也子へ向き直る。
「元クリスデンちゃんが、蜂蜜ちゃんにチューして魔力を分けてあげれば、事足りるのよん」
「あ、緊急時は考えておきます」
真面目に回答をすると、女悪魔は拍手喝采する。
「いや~ん、素敵、たくさんしてあげてねん」
「こいつっ!」
殴りかかる真由香の拳を避け、そしてぽわんと気の抜けた音を立てて消えた。
騒がしい者たちが消え、リビングに沈黙が満ちる。
「何か気疲れしちゃった」
息を吐きながら美也子はソファに座りこむ。
どこか不機嫌そうな耳長悪魔は、美也子の手から離れ、鼻をひくひくさせながらリビングを物色し始めた。しばらく放っておこう。
「二人とも、心配かけてゴメンね」
苦笑しながら真由香を見ると、さも幸福そうに笑っていた。同胞ができて、本当に嬉しいらしい。
一方のエイミの姿を確認した時、冷や汗が吹き出した。彼女は、死んだ魚のような目で床を見つめていた。
間違いなく、リューの別れ際のキスに対して怒っている。
口づけられたこめかみを強くこすって、これでなかったことにできないかと無駄な試みをした。あとで撫で回して、機嫌を取ってあげようと強く誓った。
「ねぇ美也子、お手洗い借りてもいいかしら?」
「いいよー」
いそいそとリビングを出て行く真由香の背を見送り、エイミに何か声を掛けようとした時だった。
視界の端に動くものを認め、目を凝らす。
テレビ台に置いてある小さな干支の置物に、耳長悪魔がしがみついていた。やけに小刻みに動いているなと目を細め、その行動の意味を悟って飛び上がる。
トイレに入ったばかりだと思われる真由香に、大きな声で語り掛けた。
「ねぇ真由香ちゃーん! 耳長悪魔ってちょっとくらい蹴ったりしても死なないよねー?」
しかもよくよく考えれば、リューをどうやって呼び出すのか具体的な方法を教えてもらっていない。
まったく悪魔どもめ、と美也子は憤然と鼻息を吐き出した。




