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84.悪徳契約にサインするべからず

 恐る恐るリューの顔を見ると、煌めく黄金色の瞳を細め、口元では深い笑みを作っていた。初めて見る表情に、肌が粟立つ感覚を覚える。


「今、この空間を支配しているのはわたしだ。もう逃がさぬ」


 右手を掬われ、また甲にキスする気かと思っていると、不意に中指を咥えられた。舌で優しく包み込まれ、次いで甘噛みされる。

 何か敏感なものを扱うようなその動きに、心地よさと同時に嫌悪を感じた。


 されるがままではいけないという心の声に従い、空いた手でその横面を打ち据えようとしたが、手首をつかまれた。慌てて右手を取り戻したが、すぐにそちらも捕えられる。


 両腕を拘束され、万歳のようなポーズをさせられてしまう。

 この状況はよろしくないのでは。


 リューは、さも愉快そうに笑っている。


「案ずるな、この空間の中で行われたことは、肉体には影響しない。夢の中の出来事と同様、何が起ころうとも気に病むことはない」


 彼女が一体何を言いたいのか、何をする気なのか理解したくない。


「ただ、ここで起こったことは記憶の隅に刻まれる。お前がいくら獣人の娘を愛そうと、心には常にわたしの影がさすだろう」


 本能的な恐怖に、顔が強張った。この悪魔はこんなにも恐ろしい存在だっただろうか。


 しばらく無言で見つめ合う。リューの瞳は獲物をなぶるように妖しく輝き、そこに映る美也子の顔には恐れが満杯に詰まっていた。

 やめて、と声すら出せない。それをすれば、この悪魔はきっとなお悦ぶ。


「そのような目をするな」


 リューの笑みが、不意に柔らかくなる。


「お前は無垢な分、いささか不用心で恐れ知らずなのだ」


 つかまれていた手を解放され、訳も分からずぽかんとする美也子の肩にリューの手が置かれる。


「我々悪魔は、友好的なだけの存在ではない。常に人族と寄り添いたいと願っているが、それは利己的な想いからだ。このわたしの魔女になる以上は、留意してもらわねば困る」

「わざと私を脅したの!?」


 愕然と叫ぶと、リューは小さく声を立てて笑う。


「ただの脅しで済まさぬようにすることもできたが……」


 震える美也子を横目で窺ってくる。


「どうした、此度は殴らぬのか」


 お望み通り目一杯力を込めて拳を振り下ろすと、ひらりと避けられ、衣にかするのみだった。


「お前の望まぬことはしない。お前からねだって来るまでは」

「そんな日は来ないって言ったでしょ!」


 再度拳を振り上げると、また避けられた。白い衣をひらめかせるリューは、まるで舞っているよう。すべてが思い通りに運んだ今、踊りたいくらいに上機嫌なのだろう。


「口づけの仕方くらいは教えてやれるぞ。――いや、それより先もな」


 そんなことを言われ、美也子は羞恥に手で顔を覆う。

 どうしてくれようかと思考を巡らせていると、リューの声が真剣味を帯びた。


「ではしばし待て。記憶の防壁が消えたゆえ、お前の魂の隅々まで味わい尽くしてくる」


 そして手品のように消えてしまった。一人残された美也子は、嫌な言い方をするものだと呆れ果て嘆息した。


 寂寥を覚える前にリューは唐突に姿を現した。にやにやとしていようものなら、また殴打を試みようと思ったが、どちらかといえば真面目な顔をしている。


「記憶を見て来たの? クリスデンの分も」


 するとリューは、無言で美也子の頭に手を置く。


「……あれは確かに、お前の手には余るな」


 苦い表情を浮かべながら、ぼそりとそれだけ言う。彼女にこのような顔をさせるくらいだ、クリスデンの助言通り、悪魔に任せて正解だったのだろう。


「……わ、私の記憶はどうだったの? 満足できた?」


 おっかなびっくりしながら尋ねると、リューはその美しい顔で微笑した。どこか高貴なものを感じさせる笑顔に、美也子はしばし見惚れてしまう。


「お前は育ちがいい。ゆえに純粋で真っ直ぐで、程よく狡猾だ。まさしく悪魔好みの娘、出会えたことを運命に感謝するべき存在だ」


 やや回りくどい物言いに少し顔をしかめ、間違いなく誉め言葉だよね、と面映ゆくなる。


「悪魔も、運命って言葉を信じてるんだ」

「――いや」


 くすりと笑い、リューは続ける。


「そのような曖昧な言葉を信じてはいない。ただ、その響きや意味は、気に入っている」

「そ、そうなんだ」


 不可解なまま頷くと、リューの手が両肩に乗った。


「では、契約だ」

「今ここでやるんだ……」


 いきなりの宣言に呆然と呟くと、リューは神妙な様子で肯定した。


「そうだ。先ほども言った通り、ここで行われたことは記憶にしかと刻まれる。つまり、互いの魂にな」

「うん……」


 一体どんな方法で契約するのかと怖気づきうつむく。少なくとも痛みを伴うようなことや、ましてや性的な方法ではないだろうと考え、美也子は顔を上げた。


「契約するのは問題ないよ。……でも、リューは後悔しない?」


 眼前の悪魔は相当偉い存在のようだし、こんな小娘にいいように扱われるのは不本意ではないのだろうか。


 リューは失笑を見せた。


「お前からそんなことを言われるとは思わなかった」

「だって……。これから、いろいろ大変かも、迷惑かけるかもよ?」


 追いすがるように問うと、リューは美也子の髪にそっと触れ、一房をもてあそぶ。


「我々からすれば、人族の寿命などたかが知れている。肉体を交換し悠久を生きる魔女も存在するが、それでも十分に短いものだ。わたしの退屈な人生のほんのわずかをくれてやるくらい、惜しいものか」


 髪から離れた手は、今度は頬を優しく撫でる。


「むしろ、お前にはその価値があると思っている」


 言い方こそあっさりとしたものだったが、その内容はとても情熱的だった。思わず開口しながら、ふと思う。

 エイミにも、こう言ってやればよかった、と。


「……おい。また、他の者のことを考えたな」


 むっとしたようなリューの声に、えへへと笑って誤魔化す。


「まぁよい」


 小さく息を吐き、リューは真っ直ぐ美也子を見る。


「では、改めて名を聞こう」

「あ、千歳美也子、です」

「千歳美也子」

「はい」


 どことなく厳かに名を呼ばれ、思わず背筋を伸ばした。


「我が名は、『惰眠を貪るもの』にして『扉を開きしもの』」

「もう一個なかった?」

「あれは、通名ではなく称号だ」

「ふーん」


 話を逸らす美也子に、リューはわずかな怒りを向けて来た。また、笑って誤魔化しておく。

 気を取り直すように数度瞬いたのち、リューは滔々と語り出す。


「神代よりもいにしえの呪法により問う。我ら魔族と契約し、その扉と成り、その魔力を捧げ、血肉を供し、享楽を追い、魂が輪廻の輪へ還るまで添い遂げる覚悟はあるか?」


 その重々しい言葉に、美也子は考え込んだ。

 今の台詞は、結婚式の誓いの言葉のように形式張ったもの、という認識で間違っていないだろうか。それならば、ここは素直にイエスと答えるべきなのだろうが、果たしてその通り容易に承諾していいものか。


「魔力を捧げ、までならいいよ」


 そう告げると、リューは呆気にとられたような顔をしたが、すぐに牙を剥いて笑った。


「聡いな、それでこそ我が魔女に相応しい。己の心に響かぬ言葉に、やすやす同意をしてはならぬぞ」

「はぁっ!?」


 危うく悪徳な契約書にサインをしてしまうところだった、ということか。

 思い切り眉をひそめてリューを睨みつけるが、それを意に介した様子なく続ける。


「では、お前の宣言通り、魔力をもらう」


 今回口づけの場所として選ばれたのは首筋だった。皮膚を吸われる感覚に驚いて悲鳴を上げる。


「暴れるな、口はあの獣人専用にしておいてやる。……今はまだ、な」


 甘い声で耳元に囁かれ、恥ずかしいやら苛立つやら。


「こ、これで終わったの?」

「本契約なら、こんなものだ」


 特等契約ならどうなのか、と尋ねそうになり、口をつぐむ。


「では、よしなに」

「あ、こっちこそ……」


 恭しく一礼され、美也子も日本人らしくぺこりと礼を返す。


 頭を上げた瞬間、視界がブラックアウトした。

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