82.ゴースト イン ザ ウィッチ その4
美也子を守るように前へ出たリューは、眼前の大魔導師に語り掛ける。
「諦めろ。お前は持たざるものだった。もう誰にもどうすることはできない」
「これだから悪魔って嫌いだな。いつも正しいことを言いやがる」
感情を剥き出しにするクリスデンに対し、美也子は決して嫌悪を抱かなかった。むしろ、前回よりも親近感を感じていた。
醜いと分かっても嫉妬し自暴自棄になる心は、美也子にも覚えがある。
それでもはっきりと意思表示をせねばならない。
「ごめんなさい、あなたに身体を渡すことは、絶対にできない」
「分かっているさ。そんなことを望ませたくはない。ちょっと言ってみただけ……」
幽鬼のような顔が落ち着きを取り戻し、悲しみに歪む。
「それに絶対みんな気付くだろうさ。静香さんもエイミも、魔女の子も魔精の子も。……そして絶対に悲しむ、千歳美也子という人格の死を。……絶対に失望する、僕が生にすがって悪霊みたいな真似をしたことを」
悲哀に満ちたその顔を見て、何か力になってやりたいと衝動的に思う。だが、死人に対してできることなど何もない。
「あなたは、私の身体を乗っ取るのを諦めたあとも、魂の中に居続けて、記憶を封印してくれていた。それはすべて、私のためなんでしょ……?」
努めて柔らかい声で語り掛けると、クリスデンは肯定した。
「そうだよ」
その瞳に、理性が戻る。
「いいかい、取り戻す記憶の取捨選択なんてできない。僕の百余年の汚濁すべてを、十五歳の君が受容できるとは思わない」
生徒を諭す教師のような物言い。
「実母に愛されなかった記憶も、異性へ向けたどうしようもない欲望も、周囲への怒りも、人生への絶望も、僕のあらゆる秘事は全部、若い女性である君が知ってよいことではない」
美也子は息を呑む。傍らのリューに意見を求めようとして自制した。これは、自分が決めねばならぬことだ。
「僕だって、知られたくないんだ。エイミにどんな劣情を抱いていたか。介護をしてくれていたエイミに、呆けた僕がどれだけ酷なことをしたか」
自嘲気味にクリスデンは言う。その件に関しては間違いなく、美也子だって知りたくない。
「僕の魔法の知識が手に入るとしても、その代償はあまりに大きい」
「……そうだね」
静かに同意する。それでも、美也子は腹をくくってここへやって来た。
「でも、それをしなければエイミを、自分さえ守れない」
「そのために、僕の記憶を悪魔にも見せて、魔女になるんだね」
美也子は頷く。クリスデンと視線が交わり、しばしそのままだった。
クリスデンの瞳は、美しい緑色。その目が真摯に問うてきている。本当に後悔しないのかと。
美也子には、その視線を逸らす理由がない。
「君は、いい子に育った」
折れたのは、クリスデンだった。肩をすくめて、続ける。
「前世の人間として、とても嬉しいよ。まぁ、僕だって、環境さえよければそうなっていた……かもしれない。種が同じでも土が悪いと捻じ曲がって育つって、いい例だね」
返すべき言葉は見つからない。
クリスデンはリューに向き直ると、芝居じみた仕草で一礼した。
「スンヴェルの偉大なる全統王陛下」
小難しい呼び方に、リューが不快感をあらわにする。
「慇懃無礼に呼ばれるのは好かぬ」
「それはすまなかった。――あなたが、この少女の保護者になってくれるんだね」
「保護者、か。悪くないな」
満更でもない物言いに、美也子は顔をしかめた。今、前世の自分と悪魔は、美也子をとことん子ども扱いしている。
「じゃあ、僕の記憶はあなたに預ける」
「ええっ!?」
驚きに大声を出してしまう。
「リューに預けるって……そんなことができるの?」
「僕じゃなくて、その悪魔王なら可能だ」
美也子はクリスデンとリューを交互に見る。気付けば、クリスデンの表情からはすっかり負の情が取れて、以前会ったときと同じような余裕ある大人の男の顔をしていた。
一方のリューは、牙を剥きだして笑っていた。今度は彼女が不気味な表情を浮かべている。
「これ以上なく面白い。前世と今世の記憶の仲介を任せてくれるというのか」
「そうだね、もういっそそれが手っ取り早い。その子に渡すべき記憶は、あなたが取捨選択してくれ。これで『美也子ちゃん』は僕の恥ずかし~い記憶を知らなくて済むし、魔法の知識の先生は悪魔に押し付けられる。僕はすべての面倒ごとから解放されるってわけさ」
「そん……なっ」
そんなことができるなら、早く言ってよ、という言葉は途切れた。
クリスデンは、ずっと美也子の意志を問うていたのだ。本音も多分に混ざっていただろう。だが間違いなく美也子の決意を試し、そして認めてくれたのだ。
くつくつとした笑声が聞こえ、リューを仰いだ。悪魔は、まさに悪魔らしい歪んだ喜悦を顔いっぱいにたたえていた。
「これはいい、これは願ってもないことだ! わたしの生の中でも、こんなに愉快なことは滅多に起こらない!」
美しいかんばせを歪めて、倒錯的に笑っている。
「莫大な魔力を持つ魔女が手に入り、その記憶に加えて前世の記憶まで。しかもわたしがその知識の主導権を握れるというのか!」
美也子は背伸びしてその後頭部を殴り付けた。
「調子に乗らないで!」
リューの笑みが消え、苦い表情で後頭部をさする。
クリスデンは、うわぁ、と呟いた。
「無知って恐ろしい。僕だって、その悪魔はとても殴れないよ」
「だって真由香ちゃんもイザベルさんもDVしてたもん」
「あ、うん、そっかー……」
乾いたクリスデンの声に美也子は唇を尖らせた。
「あの、記憶をリューに託したら、あなたはどうなるの?」
「消える」
「えっ!」
当然のように言ってのけたクリスデンに、驚きが隠せない。
母からの虐待は、クリスデンの心、すなわち魂に瑕疵を作りました。そのせいで、彼は「完璧な魔導師」になることができませんでした。彼が魔法を使うとき、常に9割程度の出力になってしまいます。それでも他の追随を許さないレベルではあるのですが。