81.ゴースト イン ザ ウィッチ その3
暗鬱な色を瞳にたたえたクリスデンが口を開く。
「頼もしい相棒を得たものだ。――君の人徳……だろうよ……」
そのやたら緩慢な物言いは賞賛ではなく、皮肉。先ほどまでのように、気安く話せる雰囲気が消失していた。
「『僕』が去れば、その記憶が『千歳美也子』の中に残る。そういう意味では、僕は間違いなく『記憶の守り人』だ。だが、僕がそれを為さない理由も、君は分かっているね」
「エイミの言っていた、晩年の記憶のせい……?」
――老いて呆けた記憶。
真由香は、『葬式の時、屋敷が芳香剤くさかった』と言っていたが、それは死臭だけではなく、恐らく家中に染み付いた排泄物の臭気を誤魔化すものだったのだろう。
とても他人に見せられる状態ではなかったという。今も十分細いエイミをさらに痩せさせ、禿げを作ったという。
――そんな記憶を、本当に取り戻したいか?
決意が覆りかけていた時、肩にリューの手が置かれる。
「この娘はすでに覚悟を決めて、ここに立っている」
「覚悟、か」
クリスデンは低い声で呟く。そこに詰まっている様々な負の感情を悟って、美也子は胸を押さえた。リューが横にいてくれなければ、今すぐ取って返していただろう。
「本当に知りたいの? この僕の、どうしようもないくそったれな記憶を」
クリスデンは何もない空間を蹴り上げた。そこにいる何かを遠くへ追いやるように、八つ当たりをするように。
「そ、そのために来たんだもの」
答える美也子に、クリスデンは口角を吊り上げる。イヤなものしか感じない。
そして演説でもするかのように、右手を広げた。
「僕が言っているのは、晩年の記憶のことだけじゃない」
瞳が悲愁を帯びる。口元は自嘲気味に歪んだまま。
「もう、子どものころから最悪の人生だったんだよ。僕の母は、君のお母さんの静香さんとは対極の人だった……」
悄然とした声で、滔々と語り出す。
「何が気に入らなかったのか分からないけど、しょっちゅう殴られた。機嫌がいいと思って話し掛けると、途端に変貌した。……いやあ、当時は、サンドバッグ以外のなにものでもなかったよ。親父は、あちゃーって顔をしながら見ているだけだった」
美也子の脳裏に、とある記憶が蘇る。
クリスデンに会いたいと神に願った夜、夢に現れた謎の女。彼女が告げた言葉を。
『母に殴られ、十も老けたような顔をしていた』と。
ただの悪夢だと思っていたが、そうではなかったのだろう。あの頭のおかしい女の言ったことは事実だったのだ。あれが一体何者だったのか気にかかるが、今はそれどころではない。
クリスデンは話を続けた。
「親元を離れてからは、すさまじくはっちゃけた。年上の者を言い負かすのが大好きで、学校の教師たちには嫌われていた。遊びまわって同じ性病に三回もかかって、花街で不名誉なあだ名がついた。妊娠の心配をするのが億劫で、寄ってくる学友なんかには手が出せなかったからね」
ひたすら下衆な話をするクリスデンを見て、美也子は胸のあたりに痛みを感じた。
軽蔑の念ではない。
だって、眼前の男の目はまったく笑っていない。涙をこぼすように、口から駄弁を流している。
「親とも学校とも縁が切れたと思ったら、次は魔導師協会、セントライナ帝国。そしてネヴィラの神まで、僕を拘束した。僕は神に愛された至高の魔導師として大層な栄誉を得たけれど、僕の意思は一体どこにあったんだろう――」
最後の台詞は独白のように、何もない空間に空しく落ちた。
クリスデンは己の頭を鷲づかみにすると、その赤毛を乱す。
「すごく疲れた、だから死のうとしたんだ。ネヴィラの神は、記憶の引継ぎを条件にそれを許してくれたけれど、知ったこっちゃなかった。死んだ者勝ちさ。ずっと願っていた、次は魔法の存在しない世界で、普通に暮らしたいと」
その願いは、叶ったのだろう。その証が、美也子だった。
結局、神やネヴィラ人、アスラ人などが関わってきてしまい、『普通の暮らし』はできなくなってしまったが。
「そうか、お前は、自分が嫌いだったのだな」
リューの言葉に、クリスデンは黙り込む。その苦虫を嚙み潰したような表情は、前回見せることはなかった。
構わずリューは続ける。
「自分自身が大切ではなかったのだな。だから、自分の価値を常に崖っぷちにさらしていた。いつ落ちてもよかったし、引き戻してくれる者がいるか試してもいた。……哀れな男だ」
美也子は思わずリューの口を押さえていた。それほど、眼前のクリスデンは傷付いた顔をしていた。
「あの、クリスデン……」
おずおずと美也子は話し掛ける。
「記憶を取り戻すとか関係なく、もう一度あなたに会って、お礼を言いたかったの。前世の自分にお礼って変だけど」
「君に感謝されるようなことは何もしていない」
突き放されるような物言いだったが、すがり付く。
「うそ。分かっているでしょ、エイミのことだよ」
クリスデンの瞳が氷のように冷たくなる。
当然だ、美也子はエイミを奪った。今朝の甘く熱い記憶、それを眼前の男は知っているはずだ。手も足も出せず、美也子の中で指をくわえて見ていた。それでも礼を言わずにいられない。
「あなたのおかげで、エイミに会えた。あなたが素晴らしい人だったから、エイミがわざわざ私を探して、会いに来てくれた」
「うるさいな」
乱暴に吐き捨てられる。
「本当は、僕があの子を幸福にしてやりたかったんだ。何もかもかなぐり捨てて、二人きりで生きたかった。でも、出会った時には僕はもうすでに死に向かっていた。何もかも手遅れさ」
クリスデンは美也子を真っ直ぐにとらえ、死人のように歩み寄って来る。
「だから僕は、君が憎い。やはり今もまだ、その身体が欲しいと思う。君が許可してくれるなら、今からでも成り代わったっていい。みんなにバレないようにうまくやるさ、君の記憶も僕の中にあるしね……」
執念深い亡霊のような顔に、美也子は思わず数歩引いた。その前にリューが立ちふさがる。
クリスデンは、母から殴られる際に「ヒュー!」と何度も名前を呼ばれていたので、自分の名前にトラウマめいたものを抱いています。彼が名前ではなく姓の「クリスデン」で呼ばれているのは、クリスデン自身が名前を呼ばれることを強く嫌悪しているからです。表向きは、皇帝から授けられたクリスデンという姓を誇りに思っているから、ということになっています。それを知っているのは、クリスデン自身と、神のみです。