78.耳馴染みのいい、例の言葉
「あれ、泣いてるの……?」
ソファから身体を起こそうとしないエイミに、恐る恐る尋ねる。
「いいえ……」
蚊の鳴くような声に、背中が冷たくなる。傷付けてしまっただろうか。
「わたくし、少しばかり驚いてしまって……」
「ご、ごめん」
やはりやりすぎてしまったかと、うなだれて謝る。
あれは、初めてのキスには相応しくなかったのだろう。今まで読んだどのマンガも、ドラマだって、最初はただくっつけるだけだったと思う。
「なぜ謝罪されるのですか」
エイミはようやく身体を起こした。だが顔を覆ったままで、表情を見せない。指の隙間から見える頬が朱に染まっている。
耳は、いつぞやのように強く反っていた。――ということは、ふさぎ込んでいるわけではないのか。
「ねぇエイミ、何で顔を隠してるの」
垂れていない耳に安堵し、つい追及してしまった。
「……ご主人様は、わたくしが思っているよりも、少しばかり大人だったようです」
「大人……」
その言葉に、恥ずかしさの波濤が襲ってきた。
「いや、今のは大人のキスじゃない……よね」
「そうですね」
エイミはあっさり肯定した。手が顔から離れると、とろけたような目が熱く美也子をとらえ、どきりとする。
「それはまた、これから致しましょう」
「そ、そうだね」
すんなりと次回の予約を取られ、調子が狂ってしまう。
そして激しく動揺する。次は大人のキスをしなくてはいけないのだろうか。果たして、何月何日何時何分何秒地球が何回まわった時に?
一瞬目まぐるしく考え込んでしまったが、はたと気付く。
いや、次回云々の以前に、一つ問題があるような気がする。
「ねぇエイミ」
視線をさ迷わせながら尋ねる。
「はい?」
「いまさらだけど……女同士でも変じゃないよね」
エイミは困ったように眉尻を下げる。質問の意図が伝わっていないようだ。
「女同士で、好きだとかキスがしたいとか、変じゃないよね?」
「それは……確かに『いまさら』ですね」
失笑されてしまった。軽い怒りと照れに、美也子は頬を膨らませる。
「ご主人様は、わたくしのことが好きなのですか?」
「え? 当たり前じゃない」
視線が絡む。エイミは、なぜなぜと質問を重ねる幼児のような顔をしていた。だがその奥に、恣意的なものを感じる。
「口づけがしたいくらい、好きだとおっしゃる?」
「だからしたんじゃない」
「これからも、して下さる?」
「さっき言ったでしょ」
言葉の応酬。それはまるで男女の駆け引きのようだと理解していた。相手から、自分が望む言葉を引き出さねばならない。
今回、美也子は負けを認めざるを得なかった。
「ゴメン、順番間違えた」
リューは昨日言った。段階が多少前後しても構わないと。だが、それは美也子の望むところではない。特にエイミに対しては。
軽く咳払いして、言う。
「私はエイミが好きだ」
照れて顔を見ることができなかった。あげく、その後の言葉に詰まる。
「えーと、『だから、付き合って下さい』……って、何か変だな?」
後頭部を掻きながら言う。ここ一番が、決まらなかった。
眼前の獣耳の少女は、目をぱちくりさせている。
「付き合う?」
エイミのその疑問は、わざとなのか天然のものなのか判断がつかない。仕方なしに言い直す。
「恋人になろうって言ってるの」
結婚もできない、子どももできない。それでも、そうなりたい。間違いなくそう思っている。
記憶へ潜る前にきちんと言うことができてよかったと、美也子は胸を撫で下ろした。
「恋人」
エイミは口内で小さくその単語を繰り返した。
「恋人」
何度も言われると恥ずかしいではないか。
まさか答えはノーなのかとエイミの様子を窺うと――瞳を潤ませていた。
「わ、わたくしは、ご主人様に身体を如何様にでも捧げる覚悟はありました。むしろそうしたいと」
「う、うん」
身体を捧げる、という言葉に鼓動が早まる。
「だから、ずっと好いて頂きたいと、愛して頂きたいと願い、そのように振る舞って参りました」
そして深々と頭を下げる。
「ですが、恋人になろうなどと、おこがましいことを思ったことはございません」
「えっ、そうなの!?」
美也子は愕然と叫ぶ。
「ゴメン、イヤだったんだ」
燃え尽きたように脱力し、ソファの背もたれに体重を預けた。
「いえ、イヤというわけではなく」
顔を上げたエイミは目尻をぬぐった。
「そのように幸福な未来が、わたくしのような者にあるとは夢にも思いませんでした」
その言葉は、美也子にとってショックだった。固まってしまう。
「好意を囁かれるより先のことは期待しておりませんでした。ご主人様に触れて触れられる以上のことは、望んではおりませんでした」
自虐的な物言いに、きりりと心が痛む。この子はいつもそうだ、いつもこんなに卑屈で。誰が彼女をこんな性格にしてしまったのだろうか。
クリスデンさえ、彼女のこの『呪い』を解いてやれなかった。
こぼれそうになる涙を堪え、あえて軽く言ってみる。
「……それじゃあ、私が身体目当てみたいじゃない」
「それでもよいと思っておりました」
えっ、と驚きが口から漏れる。そのようなことを考えていたなど、甚だ心外だ。
「エイミはさぁ、私を見くびりすぎだよぉ」
思わず非難がましく言ってしまい、口元を押さえる。
「……いや、私が悪いよね。だって今まで、エイミに好きだって言ったことなかったもんね」
『可愛い』はたくさん言ったと思う。だが、そんな台詞だけならリューに対してだって言える。
息を吸い込み、エイミの目を真っ直ぐ見つめ、その荒れた手をしっかりと握り込む。
「私は、エイミが好きだ。ずっとそばにいて欲しい」
エイミは目を見開いた。その瞳の中に、真面目な顔をした美也子が映っている。
まだだ、まだ言葉が足りない。
そこで、親戚の結婚式で聞いたある言葉を思い出す。
「病める時も健やかなる時も……えーっと、楽しい時も悲しい時も」
途中から何か違う気がするが、ここで止めたら恰好がつかない。適当にでっち上げてまとめよう。
思考の乱れに視線が逸れそうになるが、必死にこらえ、耳馴染みのいい、例の言葉を口にする。
「私は、エイミと共に生きることを誓います」
それは、きっとクリスデンが言えなかった言葉だ。死を選択した者には決して言えない誓約。彼には申し訳ないが、美也子は少し優越感を覚えていた。エイミの何もかもを独占し、奪い、与え、慈しむのはこの私だ。
このアイデンティティがあれば、前世の記憶など恐れるものではないだろう。
『よし、決まった』と思った瞬間、エイミが泣き崩れた。
来週の更新曜日ですが、
火曜日 木曜日 土曜日 日曜日
とさせて頂きたく存じます。




