77.くちづけ
「行ってらっしゃい、お母さん」
翌朝、母が出勤する音を聞きつけた美也子は、部屋から顔を出す。
「どうしたの? 夏休みなのにこんなに早く起きちゃって」
玄関でパンプスを履いている母が、目を見開く。
「誰かと遊びに行くの?」
「ううん、たまたま目が覚めちゃったから」
「そう」
バッグを持ち上げる母の目が、何事かと美也子を窺っている。
それを見た美也子は、今にも口から飛び出そうとしている言葉を必死で呑み込んだ。
――私、前世の記憶を取り戻そうと思う。そしたら、変わっちゃうかも。お母さん、気持ち悪いって思うかも――。ごめんなさい――。
すがりついて、今日だけ仕事を休んでそばにいてと懇願したい。
お願いしたら、きっと聞いてくれるだろう。エイミがやって来た時だって、わざわざ早退してくれたのだから。
いや、そんなことは言えない。これは美也子の問題だ。一般人の母を巻き込みたくはない。
「今日は帰り遅くなる?」
「んー、たぶんね」
ぞんざいに答えた母の声が、妙に優しくなる。
「たまには、早く帰ってこようか。外食する?」
ああ、こんなことを言い出した。これはもう、様子がおかしいと勘繰られている。
「土曜日でいいよ。たまには二人でご飯行きたいな。エイミには留守番お願いしてさ」
この回答は満点だ。これで、悩みが性急なものではないと思わせることができたはず。
母は頭を振った。
「土日は混むから、やっぱ今日ね。――じゃ、行ってきまーす」
歯を見せて笑い、玄関を出て行く。その勘に、もう苦笑するしかない。
だがきっと、母が帰ってくる頃にはすべて終わっている。
万が一、また早退してきてくれるのであれば、その時にはすべてぶちまけようと思った。
母の出勤後、よく眠っているリューを放置し、エイミとリビングで過ごす。
エイミがバルコニーで洗濯物を干している間、美也子は洗い物をしながら朝のニュース番組を聞いていた。明るいニュースなど一つもなく、天気予報も連日真夏日だと告げている。気が滅入るが、いつものことだ。
「終わりましたよ、ご主人様」
「ありがとう」
ちょうど美也子も洗い物を終え、二人してソファに座る。
寄り添って、しばらくテレビを眺めていた。
政治家の不倫問題に、エイミが『まぁ』と非難の声を上げる。美也子には、そのおじさんがどこの誰だかさっぱり分からない。
日中はテレビか読書しかすることのないエイミは、本当に日本の情勢に詳しい。そのことに感心しながら、テレビ画面の中でマスコミに囲まれるあのおじさんが、一体どういう人物なのか尋ねようと口を開いた時だった。
「朝方は、あの子と何をなさっていたのですか?」
エイミの不意の問いに、美也子は飛び上がりそうになった。
トイレ後や食前に手を洗ったため、もうとっくに唾液の痕跡は消えているだろうが、それでもついシャツの裾で手のひらを拭いてしまった。
「ちょっと話をしてたの。記憶を取り戻すって、どんな感じかなって」
「わたくしも起こして下さればよかったのに」
抑揚のない口調で喋るエイミを見つめることができない。少し怖いからだ。
「だ、だって、一人で考えてたらあの子が起きて来たから」
「朝は起こしても起きないのに、タイミングの宜しいこと」
口元だけでうふふと笑うエイミの機嫌を取るため、その細い肩にしなだれかかると、ひどく強張っていた。美也子の出す答えを、彼女も緊張しながら待っているのだ。
「私、リューに記憶を取り戻してもらうから」
はっきりと告げるが、エイミは答えない。
「それであの子と契約して、魔女になって、エイミを守る」
「ご主人様……」
二人の目線がぶつかる。
「アスラの人には申し訳ないけど、絶対にエイミを傷付けさせはしない」
「わたくしなど放っておいて、ご自愛下さいませ」
「どうしてそんなこと言うかなぁ」
美也子は口を尖らせる。
沈黙の中、リューに言われたことを思い出す。
無垢な少女のうちしか、できぬことがあると。
「ねえエイミ」
「はい」
「昨日できなかったこと、しよっか」
するとエイミは数秒程固まっていたかと思えば、電光石火のごとく身体を離した。
「い、今、ですか」
「リューが眠っているうちに」
美也子は不思議なほど落ち着いていた。今ならきっと、昨日よりもたやすくそれを行うことができるだろう。
「イヤ……?」
ならばやめようなどと無粋なことはもう言わない。上目遣いで誘ってみる。自分はいつから、こんな小狡いことができる子になったのやら。
エイミはぐっと息を呑んだ。観念したように頬を赤らめて視線を逸らす。耳が立ち上がるのは、高揚している証拠だともう分かっている。
「エイミは、下がいいんだよね」
「……は、はい」
促すと、エイミは緩慢な仕草でソファに寝そべる。その細い首の横に手をついて覆い被さり、押し倒したような格好になる。
空いた方の手で自分の髪を耳にかけ、視線をさ迷わせるエイミの顔の毛を払った。
自分の身体の下に、愛しいものが収まっている。これはいい、この状況はとても気分がいい。軽い運動をした時のように鼓動が早くなっていく。
重力に従って顔を落とせばいいとエイミは言った。
違う、従うのは重力ではない。自分の気持ちに、だ。
やはり、実践してみないと分からないことは多いのだと、一つの真理を得る。
美也子は己の心に従って、エイミに顔を近付けた。彼女はきつく目を閉じて見せ、美也子もまた、触れる寸前で瞼を下ろす。
それは一体どんな感触なのだろうとどきどきしながら、口と口を重ね合わせた。
そして驚く。
キスが、ただくっつけるだけなど、なんという勘違いをしていたのだろうか。
それだけで満足できる行為ではないではないか。
予想以上に柔らかい唇の感触を、自分のそれで目一杯確かめる。そこに全神経を集中させて、他の何もかもを忘却の彼方へと追いやる。
少しだけ角度を変えて、また角度を変えて。くっつけるたびに、唇を蠢かせて可能な限り広範囲を包み込む。
数秒程度では済まない。もう少し時間が欲しい。もっと堪能する時間が。
すぐにやめなかったから、嫌がっていないだろうか。もうやめて欲しいと思っていないだろうか。
自分はやめたくない。彼女もまた、そう思っていて欲しい。
一度離れてしまったら、もう次はないのではないかという錯覚。ゆえにとめることができない。
もう少し先に行けると、もう少し先に行けば何かがあると本能が叫んでいる。同時に理性が押し留めている。そのせめぎ合いすら快感だった。
――今日は、理性が勝った。ここまでにしておこうと。
身体を起こし、手の甲で濡れた唇をぬぐう。気付けば全身が熱い。
エイミは寝そべったまま。目元を手で隠し、白い喉を喘がせる。唇の端は濡れ光っていた。
「あ、あのさ」
美也子は間抜けな声で話し掛けた。エイミがどう思っているか分からないからだ。彼女の気持ちも確かめず、とんでもないことをしてしまった気がする。




