72.<番外編 エイミ> 別れと出会い その1
番外編が数話続きます。
すべて、異世界ネヴィラでの、主人公の前世・クリスデンの話になります。
よって、ガールズラブではなくなります。お好みでなければ、飛ばしていただいて構いません。
また、美也子とは育ちと人生経験に大差があるため、あまり共通点はなく、たまに似たような物言いをするくらいです。
エイミ主観の話となります。
物心ついた時には、すでに大きなお屋敷で下働きをしていた。
住居は、厩舎の側にある粗末な小屋。日当たりが悪くてとても寒かった。
それでも、母と二人で抱き合って眠るのは嫌ではなかった。
ある日、床に膝をついて廊下を磨いていた時のこと。一生懸命になりすぎて、近くに『旦那様』が立ってこちらを見ていることに気が付かなかった。
旦那様がすぐ目の前に立ちはだかった時、ようやくその存在を察知した。
「失礼を致しました」
慌てて謝罪し、端の方へ退こうとした瞬間、横面に衝撃が走った。
遅れて襲ってきた痛みの中、蹴り飛ばされたのだと悟る。
「獣人の分際で! 私を惑わし誘おうとするなど、なんと汚らわしい!」
旦那様が一体何を喚き散らしているのか、エイミにはさっぱり分からなかった。
痛む頬を押さえながら、憤然と去るその背中をただ見つめるのみ。
夜、母にこの話をすると、エイミの衣服を脱がせた。
どうせすぐ大きくなるのだからと、ぶかぶかの男物のシャツを与えられていたのだ。
母は、そのシャツの襟元を詰めてくれた。
「なぜ、私たちはこんな扱いを受けなくてはならないの?」
そう母に尋ねてみた。
母は目を伏せ、ぽつりと語る。
「私たち獣人は、もともといた世界の神様を害してしまったの」
それは思いもよらぬ答えだった。
「神様はお怒りになって、その世界に住んでいる人々すべてを苦しめた。いいえ、今もまだその責め苦は続いている。それなのに、元凶であるはずの私たち獣人は、ネヴィラに逃げてきた。順応性が高いから、他所の世界でも平気なの。だから、ネヴィラの人々に蔑まれて忌み嫌われて当然なのよ」
「そうなんだ」
母の膝に頭を乗せながら、その凄絶な話を聞く。
旦那様に怒鳴られることも、奥様に叩かれることも、若旦那様に殴られることも、獣人だから、仕方ないのだ。
母は夜になると、たまにいなくなってしまう。
だがそのあとは決まって、新品の下着や洗い立ての毛布、肉の入ったスープ、硬くなりすぎていないパンなどを持ってきてくれた。
そんなある日、母が倒れた。
高熱にうなされ、身体のところどころに赤い湿疹が出た。
働くどころではない。
それでも、獣人は身体が丈夫だからすぐに治るだろう。そう思って、エイミは母の分の仕事もこなした。
しかし幾日経っても熱が引かない。
「奥様、どうか薬を下さい」
機嫌のよさそうな時を見計らって、夫人の前に伏して懇願した。
最初は同情的な表情を見せたものの、母の症状を説明するとその眉がきりきりと吊り上がる。
「お前の母親がうつしたのね! ああ、なんて汚らわしいことっ! どこぞへ這って行って死になさい!」
感情的に喚く夫人。一体何を怒っているのか、まったく分からない。
「どうかお願いです、母を治してやって下さい」
夫人のドレスの裾にしがみつく。
次の瞬間には、蹴飛ばされて転がっていた。
周りで様子を窺っていた人間の使用人たちが、とばっちりを恐れて姿を隠す。
痛みに耐えながら再度夫人へ向き直ると、深緑色のドレスに、くっきりと黒い汚れが残っていた。掃除したあと拭っていなかった、エイミの手形である。
夫人が更なる怒りに震え、イヤリングをむしり取ると、それは見る見る間に杖に姿を変えた。魔法の効果を増幅させる、魔導師の杖だ。
魔法で折檻されるのかと思ったが、もっと物理的な方法を取るようだ。憎々しげに、手にした杖を振り上げる。
――ぶたれる。
絶望に目を閉じたが、衝撃は訪れなかった。
「乱暴はいけませんよ、ご夫人」
目を開くと、いつの間にか現れた若い男が、夫人の腕をつかんでいた。
「クリスデン様」
中年の夫人の顔が少女のように蕩け、頬が赤に染まる。
「まぁ、お恥ずかしいところを見られてしまって」
「いいえ。お怒りになった顔もお美しいですが、あなたには大輪の花のような笑みが似合います」
夫人は初心な少女のように身悶えする。先ほどまでエイミ相手に顔を歪めていた女と同一人物とは思えない。
「この少女の母が、ご子息と同じ病気ならば、薬くらい与えておあげなさい」
男は、優しい瞳でエイミを見た。生まれてこのかた、このような目で見つめられたことはない。
「それはできません。そんなことをしたら、医師に分かってしまいます。息子が、獣人相手に何をしたかを」
拒否する夫人に、男は小さく嘆息した。演技じみた所作だと思った。
「ならば、母子共に私が買い取りましょう」
「そ、そんな。夫の不在中に、私の一存で決められませんわ」
「ですが、このまま母親が亡くなれば、ご主人は死因を調査なさるでしょう。その前に、酔狂な大魔導師が実験用に買い上げたことにしたほうが、幾分都合がよいのでは?」
「それもそうですわね」
男に真っ直ぐ見つめられ、夫人は陥落した。
「商談成立ですね」
男は足早にエイミに近寄ってくる。顔が夫人の目線から外れた途端、そのにこやかな表情が一変し、怒りと侮蔑が瞳に宿る。
それは獣人であるエイミに向けられたものかと、身体が強張る。だが、エイミと目が合った時、柔らかい微笑みを向けてくれた。
エイミを抱え上げた男の所作は、とても丁寧だった。
「痛かったね、大丈夫?」
甘く優しい囁きは、とても自分を『実験用』にしようとしているとは思えなかった。
「さぁ、お母さんのところに案内して」
母と共に、しばらく馬車に揺られていたが、気が付くと柔らかいベッドの上で、清潔な毛布に包まれて眠っていた。
慌てて身を起こし、周囲を確認する。こんな本棚だらけの部屋は知らないし、いろいろなもので汚れたエイミをベッドに寝かせる奇特な人物は、あの屋敷にはいないはずだ。
母はどうしたと部屋を飛び出ると、小さな小鳥が飛んできて、肩にとまった。
再度飛び立った小鳥が魔法によるものだと直感で分かった。その後を追い、長い廊下を駆けて階段を下ったその先の部屋に飛び込む。
目を疑った。
ベッドの上に上半身を起こして、母が笑っている。
ずっと熱にうなされていた母が。
ベッドの脇に腰かけている赤毛の男と、談笑していた。
男は窓から見える庭を指さして、早口で何かしゃべっている。どうやら冗談を言っているようで、母は堪え切れずに吹き出していた。
「エイミ」
こちらに気が付いた母が名前を呼ぶ。その声を聞いたのは何日ぶりだろう。
まだまだ弱った様子だったが、快復しているように見えた。
「よく眠れたかな、エイミちゃん」
男が話しかけてくる。『エイミちゃん』などという呼び方をされた経験は初めてだった。
「今から湯と布を持ってくるから、お母さんを拭いてあげて。あと、背中の毛も絡まってしまっているから、剃ってしまおう。そのあとで君もお風呂に入るといい」
男の口から飛び出るどの言葉も優しい口調も、初めて耳にするものだった。
エイミはただ頷いて、部屋を出て行く男の後ろ姿を見送った。
補足
ネヴィラでは人と獣人との交わりは汚らわしいこととされている。
だが、それを為す者は当然いる。
エイミの母が病気をうつしたのではなく、息子がよそで貰ってきた病気をうつされた。夫人はそれを認めたくない。
エイミの働いていた屋敷の旦那様は魔導師でクリスデンの同僚。用事があって訪問したが、その日は留守だった。