71.神話と刺激
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アスラは、多様な種族の暮らす豊かな世界でした。
神は生き物たちを愛し、積極的に干渉していました。秩序を作り、異端を罰し、人々の幸福を祈っていました。
アスラには、獣人という種族がいました。人間の身体に獣の特質を併せ持つ、強い種族です。
非常に高い能力を持つ獣人たちは、他の種族たちと同様に扱われるどころか、弱い種族が庇護されていることに不満を抱くようになりました。
傲慢にも、反旗を翻します。
定期的に地上に姿を現す神をもてなすふりをし、襲いました。
すさまじい神の悲鳴が、大地を揺らしたそうです。
神は、生き延びたのか、死んでしまったのかはわかりません。
肉体を残して逃げた可能性はあるそうです。
獣人たちはその場に残った身体をいくつにも引き裂き、他の種族に誇示しに各地へ散りました。神殺しの我々こそこの世界の支配者だと。
しかしすぐに神の肉体からは腐臭が漏れ、周囲の土地を汚し、疫病を蔓延させました。太陽は隠れて大地は凍りつき、未曾有の天変地異が起こったそうです。
順応性が高い獣人たちは真っ先に異世界へと逃げ出しました。その後に他の種族が続き、深い交流のあったネヴィラは多くのアスラ人を受け入れたそうです。
ですが、神殺しの獣人が許されるはずはありません。待っていたのは、ネヴィラの民からの侮蔑でした。
また、逃げ出した他の種族のほとんどは、異世界に順応できず精神を病み、地獄だと分かっていても戻っていきました。
四百年以上経った今も、アスラは恐ろしい災害に見舞われ続けているそうです。
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さっとその文章を読み、イザベルから聞いた通りの話に肩を落とす。誇張などなかった。むしろ、より詳細で凄惨な内容を知ってしまったことに、美也子は大きく息を吐いた。
確かにこれは、獣人が悪い。
アスラ人もネヴィラ人も、獣人を疎んで当然だ。
だが。
「神様は本当に死んでしまったのかな」
美也子はぽつりと疑問を漏らした。
その問いに答えてくれそうな存在が、ちょうど足元にいる。
「ねえリュー、神様と戦ったとか言ってたけど、神ってそんなに簡単に死ぬの?」
「アスラ神のことを言っているのか」
指摘に頷く。おそらく背後ではエイミが聞き耳を立てていることだろう。
「奴等はしぶとい。狡猾で臆病で、利己的だ。あくまで予想だが、どこか他の世界の神に匿われているのではないかと思う」
「きょうだいだから?」
櫻子のブログには、そう書いてあった。
「よく知っているな。不仲な者もいるが、基本的には馴れ合っている。お互い依存して、無聊を慰め合っている」
「な、なるほど」
一部聞きなれない言葉があったが、おおよそは分かった。
馴れ合って慰め合って――まるで人間のよう。神とは、やはり崇拝すべき存在とは程遠いようだ。
「さっさとアスラに帰ればいいのに」
「自分を害そうとした者のいる場所に帰ろうとは、誰も思うまい」
リューの言はもっともだ。だが美也子は愚痴をこぼさずにいられない。
「もうアスラには獣人がいないのに。残った人たちが可哀相じゃない」
「そのような慈悲があるのなら、とうにそうしているだろうよ」
「……神様って、そんなもの?」
少しだけゾッとした。リューは続ける。
「永い永い生は、腐敗しか生まぬ。もともと腐りかけていた連中だ。自分たちでいいようにできる存在を生み出して支配者気取りでさぞ楽しかろう。それに反逆されたのだ、どのツラ下げて戻れようか」
そのあまりにも辛辣な物言いに、美也子は違和感を覚えた。
「なんか、知り合いみたいに言うんだね。悪魔も神様に造られたんじゃないの?」
「……しゃべり過ぎた。これ以上は、黙秘する」
気まずそうに押し黙るリューの顔が、すぐに華やぐ。
「おっと、特等契約してスンヴェルに来るならば、すべて話してやるぞ」
やはり、そう来たか。美也子は小さく嘆息した。
「そういえば、私をこの世界から連れ出そうとすると、渡界権限を剥奪されるみたいだよ」
「お前は……まったく、底の知れないヤツだな。一刻も早く記憶を覗いてみたい」
まるで、遊園地に行く日を待ち焦がれる子どものような浮かれよう。そのままリューは美也子の足にしなだれかかる。
「終わりましたよ」
少し険のあるエイミの声が掛かり、立ち上がるためにリューを押しのける。
今日一日分の疲労をどっと感じ、ベッドへ飛び込むように寝転がった。
少し早いが、このまま目を閉じて眠ってしまおうか。いがみあう二人の相手をするのも面倒だな、などと思いスマホを枕元へ置いた。
その時、ふと気がかりを思い出し、目を見開いた。
再度スマホを手に取り、フリーメールのアプリを立ち上げる。イザベルからの空メールが届いているはずだ。
二度と会いたくはないが、念のため、登録しておこうかと思ったのだ。
昼前の空メールに続いて夕方頃、文章の入ったメールが届いていた。
恨みつらみだったらどうしようと思いつつも開いてみる。
「英語じゃん!」
ずらりと画面に踊るアルファベットを見て、泣きたくなった。辞書を繰れば問題はなさそうだが。
だが美也子の怠惰な脳は、肉体を堕落させるためのとある事実を思い出した。
「エイミ、この言葉読めるよね?」
神の不思議パワーによって日本語が読めるのならば、英語だって読めよう。
「あ、はい」
傍らにいたエイミにスマホを渡す。
つっかえながらエイミは読み上げた。
『本当にごめんなさい、今日は。私は実演するところだった、ことわざを。“好奇心は猫を殺す”。私は恨んでいない、あなたのことは。なぜなら、あなたは私たちを殺すことができた、あの場で。だがあなたはそうしなかった。可能ならば、話がしたい、大勢の人がいるところで。私はあなたに危害を加えない、二度と。私の愛しい悪魔の名前にかけて』
下手な翻訳ソフトのような和訳に、少し笑ってしまう。話すときは問題ないが、文章を読むときはそこまでスムーズな翻訳はできないようだ。
「好奇心は猫を殺すって何だろう?」
「さあ……。なんだか残酷ですね」
「……バカか」
美也子とエイミの呑気な言葉に、美也子の横に寝転がるリューが吐き捨てた。
この悪魔は、異世界のことわざを分かっているというのだろうか。それ以前に、いつの間に横に来ていたのか。気が付かなかった。
「しかし、『愛しい悪魔の名にかけて』とは殊勝なことを言うな。それは魔女にとって、最上級の誓約の言葉だ」
リューの説明に、エイミと二人で感心する。
「お返事はいかがいたしますか?」
「どうしよう」
「二度とその顔を見せるな、とでも書いておけ」
リューが口を挟む。
「うーん、それもありだけど……」
性急なのはよくないという昼間のリューの言葉を思い出す。
「少し、返事は保留にしよう」
美也子の決断に、エイミもリューも頷いた。
「では、眠るべし」
呟いて、リューが抱き付いてきた。美也子の胸に顔をうずめるようにして。
甘えん坊さんめ、と目尻が下がりかけた時、ブラジャーで守られていない胸部に強い刺激を感じ、美也子はリューの頭を思い切りはたいた。少し呻いて離れていったところに、もう一発。
「ご主人様!?」
事情のつかめないエイミが驚きの声を上げた。
美也子はベッドから降り、冷たく言い放った。
「一人で寝てれば? 私、リビングでテレビ見る」
部屋を出る美也子にエイミが続き、リューはついてこなかった。
「美也子、顔が真っ赤よ」
リビングでテレビを見ていた母は、美也子を見るなりそう言った。
5章はこれで終わります。
「悪魔と食事をするときは長いスプーンを使え」
ずる賢いものを相手にするときは、こちらも知恵を働かせろというイギリスのことわざ。
当作では、悪魔と取引するときはよく考えろ、というようなシンプルな意味を込め、章題にいたしました。
次章に入る前に、番外編(過去編)を数話挟みます。