70.わたくしは下がいい
「……やっぱやめようか」
気恥ずかしさで、美也子はつい言ってしまった。するとエイミは、喉に何か詰まっているかのような悲鳴を上げた。
ふと、リューに言われたことを思い出す。口にキスをするのは、美也子からのおねだりがあるまで待つと。
美也子からリューにキスをねだるような日は来ないと思うが、ここは一つ、あの悪魔の真似をしてみたいという嗜虐衝動が湧いてきた。
「エイミがどうしてもしたいって言うならしよう」
にんまりと笑って、エイミに言ってやる。すると赤い顔のまま、目を逸らされた。
「……ご主人様がしたくないのなら、結構です」
――あれ、そう来たか。
「じゃあ、やめよう」
意地になっても仕方ないことは理解している。意地悪言わないでご主人様、などと言って、抱き付いてきてくれたら可愛いのに……と横目でエイミを窺った。
エイミは何とも言えない顔で皿を拭いていた。
美也子も水栓レバーを上げて、洗い物を再開する。
――ああ、この雰囲気はよくないな。一体何が悪かった。
それは、エイミを試そうとした美也子自身だ。
美也子は再度水を止めた。エイミが手から皿を離した瞬間を見計らい、その腰に抱き付く。
「やっぱしようよ~」
うふふとエイミが笑みをこぼした。してやられた。
キッチンで向き合う。美也子は見上げ、エイミは見下ろしている。初めてのキスは、特別な場所なんかじゃない、こういう日常で生じるものなのだろうと思う。
だが、いざこうして対峙すると、どうしようもない。
「ねぇ、私初めてだから、どうしたらいいか分からないの」
「わたくしだって、初めてです」
お互い身構えすぎてしまったようだ。
二人の間に流れる沈黙は、とても気まずい。嫉妬し合っていた時の比ではない。美也子の体温も上がっていく。
「あの、ご主人様」
「うん」
「寝室に行きませんか」
唐突なエイミの提案に、戸惑う。
「ど、どうして?」
「わたくしが仰向けに寝ます。そうすれば、あとはご主人様が重力に従って顔を落とすだけで、成功するのではないでしょうか」
「そ、そう……だね?」
それはなんだか違うような気がするが、もうなんだか分からない。
「えっと、それなら、私が仰向けになってもいいんじゃない?」
するとエイミは強い口調で否定した。
「いいえ、わたくしは下がいいです」
「し、下がいいんだ?」
「はい。――さあ、行きましょう」
そこはかとなく息の荒いエイミに背中を押され、リビングを出ようとした時。
キッチンカウンターの角に、大きな目を細めたリューが立っていた。
「うわあっ!」
美也子は悲鳴を上げた。
小柄な悪魔は、視界に入りづらい。今までの会話を聞いていたのだろうか?
「い、いつから起きてたの……?」
「邪魔だ」
なぜか追い払われて二人で避けると、リューはすぐそこの冷蔵庫に向かい、冷凍室の引き出しを開けた。
「やはりあいつの言った通りだ。今の時期、大抵の家庭ではここに氷菓子を入れていると」
リューがバニラアイスのカップを取り出し、宝物のように掲げた。女悪魔に教えてもらったのだろう。
「それ、お母さんのだからダメ!」
慌てて取り上げる。母が週末のご褒美として楽しみにしているハーゲンダッツだ。
「お前の母親はわたしを愛でてくれた。些末事だと許されよう」
「私が責任を問われるの!」
背伸びして美也子からアイスを取り戻そうとするリューの頭に、チョップを叩き込んでおく。
「こっちのにしてよ」
冷凍室を空けて、『アイスクリーム』ではなく『ラクトアイス』の表示のものを渡すと、リューは不満そうにそっぽを向いた。
「わたしには分かる。それは安価なものだ。容器の作りからして違う」
くっ、と美也子は唇を噛む。このぼんやりした悪魔は、変なところで鋭い。
「やっぱり、契約しないほうが……」
背後でエイミが呟いた。その表情が恐ろしいほどの絶望に満ちていたものだから、美也子は見て見ぬふりをしてしまった。
夜は、昨日のように三人で入浴した。
エイミの態度はわずかにつんけんしていたが、丁寧にリューを洗ってくれたし、リューもまた大人しくされるがままになっていた。ただ、浴槽内での会話がなく、あまりの気まずさに美也子は逃げるように湯から上がった。
髪を乾かしたあと、自室へ戻る。
寝乱れた跡のあるベッドを見て、エイミが『まずい』というような顔をした。
悪戯心が湧いてきて、指摘してやる。
「ねぇ、昼間私たちが出掛けてる間、ここに寝てたでしょ。毛がたくさん落ちてるよ」
すると、エイミはひっ、と小さく悲鳴をあげた。
道理で、電話に出るのが遅かったわけだ。
「申し訳ございません! 掃除をしておくつもりだったのですが、失念しておりました」
「いや、謝らなくていいよ」
掛け布団は、なぜか縦に四つ折りにされていた。
「抱き枕にしてた?」
するとまた悲鳴をあげる。風呂から上がった時よりも、顔が真っ赤になっている。
「別に責めてるわけじゃないよ。……一緒に眠ってあげられなくてゴメンね」
「いえ、とんでもない……」
近々一緒に寝よう、と言おうとした時、扉が開いて、リューが飛び込んできた。
「おい、母親が、あの氷菓子を食べてもよいと言ったぞ」
「んもう、お母さんったら甘いんだから!」
まあ、仕方ないか。だって、この悪魔はとても可愛らしい。
美也子の意識がリューに向いたことで、エイミの機嫌が少なからず損なわれたようだ。背中に冷たい視線を感じる。
「そういえば、あなたにはご主人様がとてもお世話になりました。本日はどうぞ遠慮なく、ご主人様と同衾なさってください」
満面の笑みを浮かべたエイミは、妙に優しい口調でリューに語り掛けた。それを聞いたリューは、柳眉を歪めた。
「何ということだ、それは『上から目線』というやつだろう。お前の施しなど受けぬ」
「では、わたくしがご主人様の横で寝ますので、あなたはどこぞでお眠りください」
「雌犬め、このわたしをなぶるか」
汚い言葉でエイミを罵るリューの頭頂に、軽く拳骨を落とす。
痛みに呻く幼い悪魔を見て、新しい悦びを見出してしまいそうになる。それはよくない、と頭を振り、誤魔化すように冗談交じりで提案した。
「私が働いてお金を稼ぐようになったら、三人で並んで眠れる大きなベッド買おうかな」
「いえ、二人分で十分でございます」
エイミが笑いながらも噛みついてくる。リューも負けない。
「そうだな、わたしはこの狭い寝台で十分だ」
対抗し合う二人は、目線も合わせない。ただ、美也子ににじり寄ってくる。
「テレビで見たのですが、お城のような宿泊施設に大きなベッドがあるみたいです。いつか二人で行ってみたいものです」
「えー、何それ、昔の貴族とかの部屋じゃないの?」
「スンヴェルの私の屋敷にも、五人は寝られる広大な寝台があるぞ」
「えー、なんか寒々しそう」
二人の謎の意見を躱し、美也子は粘着クリーナーを準備した。
「それはわたくしが責任をもってやります」
慌てたエイミにローラーを奪われ、仕方なしに美也子は勉強机の椅子に座った。
リューが足元にやって来て床に座る。まるで猫のようだ。
撫でてやりたいところだが、美也子はスマホを手に取った。
かつて工藤から教えてもらった、矢吹櫻子のブログを表示する。
『アスラの章』と書かれたページがあったため、タップする。
少し手が震えていた。