7.初めてのお風呂
数十分後、湯が沸いたため二人で脱衣所に向かう。
脱衣を補助しようとするエイミの手をかいくぐって美也子は全裸になった。それを見たエイミも主を冷やすまいと慌てて脱ぐ。
裸になったエイミの背中を見て、確かにこれは『後ろの毛』だと納得した。
毛髪から途切れることなく、うなじから背中、そして臀部へと茶色の柔らかい毛が続いていた。終点には短い尻尾がある。小犬形態のときとそっくり同じものだ。
上から普通にショーツを履いてたせいで、少し毛が逆立っている。
獣耳に見慣れてしまったら、今さら体毛や尻尾では驚かない。
だが人間の尻に尻尾が生えている光景は違和感満載だった。
美也子は思わず尻尾に触れそうになったが、慌てて手を引っ込めた。犬や猫のそこにはむやみに触れるべきではないと祖父母の教えを思い出したからだ。
それに、背中にこんなに毛があれば確かに自分では洗いにくいだろう。
「あまり、矯めつ眇めつなさると恥ずかしゅうございます」
エイミがうつむいて頬を染めた。だが身体を隠そうとはしない。
「お望みでしたら存分にご覧下さい」
「違っ……、じろじろ見てごめん! こっちの世界だと尻尾がある人いないから珍しくって」
「確かに、こちらの世界には純粋な『人間』しかいませんから……。では存分に触れてくださいませ」
エイミは尻を軽く突き出す。わずかに腰をくねらせたその所作は、大変セクシーであったため美也子の動揺を誘う。
「あ、後でね」
「後で、ですね……」
エイミはなぜかますます赤くなった。何を期待しているのだか。
「ねえ、その短い尻尾って……」
何気なく、生来の長さなのか尋ねようとしたが、デリカシーに欠ける気がして言葉を飲み込んだ。
だがエイミは美也子の言わんとしたことを察したようだ。
「これは生まれてすぐ切り落とされたものです。もちろん切られたときのことは記憶にありませんが」
「どうして……」
「働くのに邪魔になりますから。床掃除の時に踏んづけたり。あとは、つかまれて転ばされたり引きずられたりしないように。母の思い遣りです」
美也子は絶句した。邪魔になるというのは理解できなくもないが、後半の理由はあまりに憤ろしい。そんなことをする輩がいるから、肉体の一部を切らねばならないなんて。
「獣人は身分が低いですから」
悲しく笑うエイミを見ていたたまれなくなる。
「冷えちゃうから、お風呂入ろ!」
そう言って話を終わらせることしかできなかった。
ちなみに、毛深い背中に対して、エイミの正面側はつるりとしていた。なぜそちらは無毛なのか理解に苦しむ。
胸は美也子の方が断然大きい。というより、エイミの身体は全体的に痩せ過ぎではないか。あばらが浮いて、不健康な痩せ方に見える。
やはり食事をきっちり与えるべきだろう。
「こちらの世界のお風呂は綺麗ですね」
浴室を見てエイミは嬉しそうな声をあげた。
「しかも、庶民でも毎日暖かいお湯に浸かれるなんて、素晴らしいですね」
浮かれている彼女を椅子に座るよう促す。
「じゃあエイミから洗うからね」
「そんな、ご主人様を差し置いて……」
「いいのいいの!」
シャワーの適温を確認して、大人しく座るエイミに湯を掛けた。
「ひゃん!」
「熱かった?」
「いえ、ビックリして」
お互い笑みをこぼし、シャワーで全体を濡らす。耳に入らないよう注意した。
そこでふと美也子は気が付いた。エイミの体毛に対して、シャンプーを使うのかボディソープを使うのか、どちらが相応しいのだろう。
結局、自分と同じように頭だけシャンプーで首から下はボディソープを使用することにした。
頭と身体で洗浄剤を変えることは、エイミには奇異に映ったようだ。
「浴室掃除用、頭用、身体用で石鹸が異なるのですね」
「ついでに言うと、顔用もあるよ。そっちの黄色い液体は化粧を落とすやつで、こっちがその後に泡立てて洗う用ね」
オイルクレンジングと洗顔チューブを指すと、エイミは驚きの声を上げる。
「まぁ、それはなんとも……大変では?」
「生まれたときからこれが当たり前だからね、慣れてるよ」
「私も、慣れるように致します」
ボディソープを泡立てて、背中の毛を丁寧に洗ってやる。案の定ごっそりと白い毛が抜け、つい苦い笑みを浮かべてしまった。今後、排水溝洗浄の頻度を増やす必要がある。
皮膚のある部分はタオルを使って優しくこすった。
ふと下の方を見遣れば、短い尻尾が左右に動いていた。身体が強張っている様子はないので、犬と同じで上機嫌を示しているのだろう。
「えっと、尻尾は自分で洗う?」
「お任せします。ご主人様になら如何様に触られても構いません」
表情は見えないが、恥じらう声に期待が混じっていた。美也子は自分で洗うようにとタオルを押し付けた。
「あとは自分でできるよね。その間に私は頭洗うから」
「はい……」
悄然とした声を出しがらも、エイミはシャンプーを手に取って美也子に渡す。ラックにずらりと並ぶ洗浄剤のうち、どれが頭髪用かもう把握出来ているようだ。おっとりしているようだが、観察眼はある。
「ところで、エイミはどうして日本語上手に喋れるの? 元の世界の言葉とは違うよね?」
頭を豪快に洗いながら美也子は疑問に思ったことを聞いてみた。
まさか日本語が異世界でも使われているなど、あり得ない――こともないか。もう、昨晩からあり得ないことだらけだ。
「こちらに渡る際に、こちらの神に渡界許可を頂戴しております。よって、神の御力によって、わたくしとこの世界の人々は意思疏通がはかれるのです」
「……へー」
あまりの理解しがたさに、美也子は乾いた返事をした。要するに神様の不思議パワーが及んでいるということか。
同時に、突然『神』の話をされてもさほど疑わず戸惑わなかった己に驚く。
異世界に、大魔導師に、魔法に、獣人。すでに非現実的な話には慣れてしまったのだろう。
「世界の神様ってのが本当にいるんだね。全然感じたことないけどなぁ」
「そうですね……この世界の神は、人々には不干渉を貫いているようです。最初に最低限の法則だけ決めたら、あとはあらゆる生命の為すままに任せる放任主義。ですから、神からの恵みたる魔力が存在せず、人々は魔法とは無縁。代わりに、ネヴィラでは考えられないような、他の技術が発達していますね」
漫画やアニメのような創作めいた話も、意外とすんなりと頭に入ってくる。
「魔力って神様がくれるんだ」
「はい、魔法も、知能ある者たちに授けられた神からの技です」
『神から授けられた技』。その言葉に、美也子は首を傾げた。
「神様と話すことはできるの?」
「この世界の神は、人と交流なさりませんが、高い魔力を持つご主人様なら可能かもしれません。方法は、記憶を思い出して頂くしかありませんが」
「そうなんだ、じゃあ別にいいや」
いるだけで何も為さない存在なら、いないも同然だろう。
世界平和を訴えても無駄だろうし、仮に会話が可能だとしても、一介の女子高生である美也子がそれをするのも烏滸がましい。『高い魔力を持っている』と言われてもそんな自覚もない。
美也子は頭からシャワーを掛けた。その後、エイミが身体を流している時にコンディショナーを擦り込む。
「さぁ、次はご主人様のお身体を洗う番です」
エイミは満面の笑みを浮かべている。断ろうかと思ったが、シュンとする姿が容易に想像できたため、大人しく受け入れることにした。
「背中だけね」
そう言って場所を代わった。
「きれいなお肌ですね」
「あ、ありがと、って背中以外は洗わなくていいから!」
胸元に手を伸ばすエイミを慌てて静止した。
「遠慮なさらず全身をお任せ下さいませ」
「クリスデンも全部洗わせてたの?」
「はい」
エイミのハッキリとした返事に美也子は固まる。
こんな少女に身体を洗わせるなど、なんという破廉恥な男だ、前世の自分は。
「晩年は満足にお身体が動かず……わたくしが入浴介助を」
続くエイミの声には懐かしさと悲哀があったが、美也子は納得し胸を撫で下ろした。
「なーんだ、そうなんだ」
クリスデンは要介護の『おじいちゃん』だったらしい。それならば、エイミの献身的態度も納得が行く。
美也子の中で、クリスデンは腰が曲がり禿げた老爺だというイメージが作られた。白いひげを伸ばして杖を持つ、創作物に出てくるような魔法使いのおじいちゃん。
勝手な想像をして、エイミから見えてないのをいいことに小さく笑みをこぼした。
お互い洗い終わると、向かい合って湯船に浸かる。
「エイミはどんな食べ物が好きなの? お母さんが何でも買ってきてくれるって。こっちの世界に口に合うものがあるか分からないけど……あ、主食はパンだった?」
聞きながらも、美也子はあわよくばピザが食べたいと思っていた。
「主食は、パンでした。ですがわたくしには残飯でもお与え下されば」
遠慮がちなその言葉に、美也子は声を張り上げる。
「ダメに決まってるでしょ! 何度も聞くけど、クリスデンはそんなことしてなかったんじゃない?」
「はい、クリスデン様と同じものを頂いておりました……」
一瞬ほっとしかけたが、わずかに引っ掛かったため追及する。
「……クリスデンが死んでからは?」
「魔導師協会の方々に面倒を見て頂いておりました」
「あー、分かった。その人たちは残飯を寄越してた訳ね!」
獣人は身分が低いと言っていた。だから容易に想像がつく。
野菜の切れ端を投げ与えられる場面を想像して、美也子は憤然と息を吐いた。
「それでも、三食温かい食事を頂けていましたし、獣人には過ぎた待遇でした」
温かい食事、と聞いて少し安堵するが、それでも『残飯』はありえない。
「絶対に残飯なんてあげないからね! 同じものを食べてもらうから」
「ご主人様は本当にお優しい……。こうして転生された後にまでお仕えすることが出来て光栄でございます」
エイミは涙ぐむ。大袈裟だなぁ、と思いつつも、その頭を撫でて慰めてやった。
「そういえばエイミって何歳なの? クリスデンが死んだのは少なくとも十五……六年以上前だよね?」
美也子は今の年齢に胎児の期間を足す。
「正確には数えていませんが、おそらく四十は超えているかと」
予想外の返答に、美也子は目を丸くしてエイミを見た。
四十歳と言えば、母とほぼ同じではないか。
「うそぉ? あ、魔法の力で年を取らないの?」
「獣人の場合は、単に寿命が長いのです」
その答えに、美也子は『へぇ~』と感嘆して他の質問をした。
「ちなみにクリスデンは何歳で死んじゃったの?」
「享年百三歳でした。わたくしがお仕えできたのは十年ほどです」
「そっか。……っていうか、エイミの方がずーっとお姉ちゃんなんじゃない」
美也子の言葉に、エイミは激しく動揺した。
「そ、そんな、『お姉ちゃん』なんて」
照れるエイミをついからかってしまう。
「私、お姉ちゃんが欲しかったんだ」
稚気に任せて飛びつくと、エイミがきゃぁと悲鳴を上げる。嫌悪からくるものではなさそうだ。
さらに調子に乗って首に手を回し、洗ってやったばかりのうなじの毛に指を差し入れかき回す。
くすぐったさにか、エイミが目を閉じ息を詰めた。
その過敏な反応が可愛くて、思わず強く抱き締めてしまった。
湯船の中で脚が絡まり、胸が擦れ、肌が張り付く。
柔らかくて、気持ちがいい。
――ふと、その感触を堪能していた自分に気付く。
この状況は、なんだかよろしくないのでは。
「ご主人様……」
「なっ、なぁに?」
離れようとした時、背に腕を回され阻止される。
今度はエイミから抱き締めてきた。
「ご主人様には、末永くお仕えしたく存じます」
「あ……」
真摯な声に美也子は胸が熱くなる。
エイミは、愛しい者の死を経験してきたのだ。
「うん、私、できるだけ長生きするから。……エイミもね」
「まあ、わたくしのことなど気にかけて頂いて、誠に光栄に存じます」
入浴中なので当然ではあるが、エイミの身体はとても温かかった。もしや、半分獣だからだろうか。
――結局夕飯はピザで押し切った。
エイミにとって初めてのピザは、油分が多く味が濃すぎたらしい。無理して口に入れていることが隠し切れていなかった。
食後、美也子だけリビングに残されて、母にしこたま怒られた。
エイミに関しては、耳は柴犬、体毛はゴールデンレトリバーをご想像ください。