69.ちょっとくっつけるだけ
また明日来ると約束し、真由香と女悪魔は帰っていった。
それから小休止ののち、キッチンに並んでエイミと夕飯の支度をする。
エイミは『わたくしにお任せください』と締め出したがるのだが、『こういうのって恋人みたいじゃない』と返して以来、何も言わなくなった。
洗い物をしながら、美也子はリビングのソファにいるリューの様子を窺った。オープンキッチンのため、シンクからはバルコニーまで見通せる。
テレビを眺めていた悪魔は、いつの間にかソファの上で眠りこけていた。シャツがめくれあがって、股間が見えてしまっている。
なんだかいたたまれなくなり、洗い物を中断して裾を直しに行ってやった。
「よく眠ってるよ。今日は疲れたんじゃないかなぁ」
味噌を溶いているエイミに囁くと、複雑そうな表情を見せた。
「ご主人様があの子と契約なさったら、こういう風景が日常になるのでしょうか……」
「毎日呼び出したりはしないよ。だって、エイミが嫉妬しちゃうから」
すると、エイミは耳ごとうなだれた。
「申し訳ございません……」
「謝らなくていいよ。ハッキリ嫉妬してくれた方が助かるな。私、鈍感だから」
そう言うと、エイミは無言で汁の入った小皿を差し出してきた。
舌の上で吟味してから頷き、OKの意を返す。
「エイミは、リューのこと嫌い?」
「嫌いというか……あの子は、わたくしをたまに威圧して、ご主人様にはたびたび魅了の呪をかけていました」
予想外の言葉に驚きを隠せない。
「ええ~? 言ってくれればいいのに」
「ご主人様には効きがイマイチのようでしたから、あえて言わずともよいかと……」
「そうなんだ」
指摘されれば、そんなような気もするが、具体的にいつどこで魅了されていたのかさっぱり分からない。だって、あんなに可愛いのだから、常日頃から魅了状態だ。
「呪がかかっていると言われると、常にそれを疑うようになります。どこまでが己の本心か確信が持てず、何も信頼できなくなる。そうなると、ご主人様はあの子を曇った目で見るようになってしまいますから……」
「へぇ、リューに配慮してくれたんだね」
「それは……。悪魔には利用価値がありそうでしたから」
「んもう、エイミってやっぱり強かだなぁ」
からかうように言うと、エイミは恥じ入るように反対の方向を向いた。
「あ、あの、あとの洗い物はわたくしがやります」
「いいよ、エイミは手荒れがひどいんだから。ふきんで拭いてよ」
炊事用手袋をすればいいのに、素手でないとヌルつきが取れたか分からないからと言って、着用したがらないのだ。
再度、横並びで作業を開始する。
「ですがやはり、契約なさるのは少し反対です」
カチャカチャと皿が鳴る音の中、エイミがぽつりと呟いた。
「なんで? 記憶のこと?」
「いえ……」
エイミは手を止めた。何か大事な話があるのかと、美也子も水を止めて聞き入る。タオルで濡れた手を拭いた。
「だって、あの子ったらご主人様のお顔に口づけを……」
その答えは、想定の斜め上だった。バルコニーに帰還した際、美也子の傷を治すためにしてくれた、あのキスに対して嫉妬しているということか。
「エイミだって真由香ちゃんの悪魔にキスされてたじゃない。それと同じことだよ」
「あれはただの治療行為で」
「リューだって、治療行為でしょう」
「絶対に違います。あの子は治療行為にかこつけて、欲望を満たしました」
『欲望を満たした』などと、大袈裟な物言いだと思う。
「そ、そうかな?」
「そうですとも。その時、そういう顔をしていました」
一体どんな顔だ。美也子には見えていなかったが、いやらしく笑っていたとでもいうのだろうか。
しかし今思えば、エイミの見ていない場所でも二回されている。手の甲と、額に。
これは言わない方がいいだろう。美也子は浮気を隠すかのような心境を味わった。
「ま、まあでも、傷を治してくれたんだし、ちょっとくらいいいじゃない?」
後ろめたさを誤魔化すように笑うと、エイミは強い声で言った。
「だって、わたくしたちはまだ一回しか……!」
そこまで言って、エイミは口元を押さえた。あっという間に頬が林檎色に染まる。
だが美也子は、頬を掻いた。
「一回っていつだっけ?」
「覚えていらっしゃらない!?」
「あ、ゴメン、エイミが寝てるときにしたかも」
エイミがヘラーたちに攫われた日の夜、初めての同衾の時に。寝ているエイミにしてしまったような……気がする。
「ど、どこにですか!?」
「おでこかほっぺか覚えてない」
エイミは動揺したように、その二か所に触れた。
「あれ? エイミの認識してる『一回』とは違う?」
尋ねると、エイミはなぜか首筋を押さえた。恥じ入っているのか、目線を合わせない。
そんな彼女が喜んでくれるといいなと思い、提案する。
「じゃあ、今までのはノーカン。これから一回目をしようか」
するとようやくこちらを向いた。だが、声が震えている。
「ど、ど、ど、どこにですか」
少し照れ臭いが、美也子は素直に思ったことを言う。
「私は、口でもいいと思ってる」
するとエイミは袖口で思い切り唇を擦り出した。
「ちょ、ちょっと。皮がめくれちゃうよ」
「あの、歯を磨いてきます」
「ええ~? 別にそんな、ちょっとくっつけるだけじゃない」
そう言うと、エイミは複雑そうな表情を見せた。
「……ちょっとくっつけるだけ、ですか」
「ちょっとくっつけるだけじゃないの?」
もちろん美也子も、『大人のキス』があることは知っている。洋画でよくやっている、なんだかちょっと長いやつ。よく分からないが、なんか角度を変えたりして、家族で観ていると気まずい気分になるやつ。
この場でエイミとそれを行うのはまだ早いと思っていた。当然、エイミだってそう思っているだろうと。
だがよくよく考えれば、『大人ではないキス』をするのも、とても照れ臭い。美也子から顔を近付けるのか、それともエイミから来るのを待つか。
そんなの、一体どんな面をして待てばいいのだろうか。




