68.最後に、少しいけない想像をした
「美也子のじいさんばあさんって、まだ元気よね」
真由香にそう言われて、唐突に何を言うのかと首を傾げた。
「まあ、そうだね。四人とも元気だよ」
風邪を引いたという話すら聞かない。
「……うちの母方のばあさんは、もう娘や孫のことだって分からないわよ」
「え?」
疑問符を浮かべる美也子から目線を逸らし、真由香は独り言のように続けた。
「道理で……クリスデンの葬式の時、屋敷がやたら芳香剤臭いと思ったわよ」
そしてエイミを見た。
「あんただって、今の半分くらいに痩せこけて、禿げ散らかしてたものね。クリスデンが死んだショックだけじゃなかったってことか」
「だから、どういうこと?」
問う美也子に対し、真由香はグッと言葉に詰まった。卑怯だとは分かっていたが、その目を真っ直ぐ見つめると、ためらいあらわに口を開く。
「……痴呆状態だったってことよ。――そうなんでしょ!?」
最後の問いは悲鳴のようだった。エイミは頷き、そのまま深く顔を伏せた。
「おっしゃるとお――」
エイミの言葉が途切れたかと思うと、嗚咽が始まる。
真由香もまた、泣いていた。
「あのクリスデンが……。さぞ無念だったでしょう」
美也子は、涙さえ出てこない。ただ茫然自失と立ち尽くすのみ。
自分が老人になったときのことなど考えられない。しかし、クリスデンの記憶を取り戻してしまったら、自ら老いるに先んじて、それを見せつけられることになるのだ。
報道番組の特集で介護の現場を見たことがある。息を呑むような内容だった。それを思い出して、背中が冷たくなった。
それをエイミがたった一人で。誰の手も借りずに。
美也子自身も、老いればそうなるかもしれない。
――知りたくない。
「ご主人様に前世の記憶がないと知ったとき、本当に安堵致しました……」
エイミの独白が重く床に落ち、テレビから聞こえてくる芸能人たちの笑い声が、ひどく白々しく部屋に響いた。
恐る恐る美也子はエイミに尋ねる。
「でも、痴呆ならその時の記憶なんて残ってないんじゃ……」
「いいえ、まだら状態で、記憶が錯乱しているときのことを覚えていらっしゃいました。突然過去のことを思い出されて嘆いたり、わたくしを母君と間違えたり、なにかにお怒りになられたり。そして状態がよい時に、すべてを後悔されて、わたくしに許しを乞うのです」
エイミの顔は、すっかり青ざめていた。
「その時の記憶は、決して今のご主人様が知ってはならぬものです。若く輝かしい人生に、必ず影を落とします」
黙っている悪魔たちを見遣ると、複雑そうな表情をしていた。
「確かに、元クリスデンちゃんの記憶には、一部強力な防壁があったわん。そこに突っ込もうとしたら、メッセンジャーってヤツに捕まっちゃったの。すっごい魔法の秘密を守っているのかと思ったけれど、本当に守りたいのはそういう辛い記憶なのかもしれないわねぇん」
女悪魔が同情の眼差しを向けてくる。
一方のリューは、真っ直ぐに美也子に問うてきた。
「お前はどう思う? 今の獣人の話を聞いて、前世のことは永劫封印しておきたいか?」
即答できない。リューは続ける。
「もしお前が、清濁併せて、全ての記憶を取り戻す覚悟があるのならば、わたしは如何なる手段を行使してもそれを成し遂げてやる。お前の記憶の防壁など、突き破る自信はある」
力強い悪魔の言葉に、美也子の心は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「……少し、考える時間が欲しいんだけど、今はそんなこと言っている場合じゃない?」
「いや、何事も性急なのはよくない。今は思考を巡らせるのがよかろう」
鷹揚なリューの態度は、すぐに激変した。瞳が妖しく輝き、美也子をゆっくりと絡めとるように言葉を紡ぎだす。
「わたしはお前に対して、仮契約などという半端なことはせぬぞ。……選べ、前世の記憶とわたしを受け入れるか、もしくは他の手段を講じるか」
表情はいつもの乏しいものだったが、声音にはたっぷりと熱が含まれていた。口説かれているようで気恥ずかしくなったため、つい美也子は目を逸らした。
「……分かった。明日まで一緒にいられるんだよね。じゃあ、それまで待って」
「うむ。前世の辛い記憶を思い出したら、わたしがたっぷり慰めてやる」
リューの台詞に、エイミも真由香も色めき立った。そんな彼女たちをやんわり制し、美也子は腰を屈めてリューの耳元に囁いた。
「慰めてもらうなら、エイミがいいな」
いつまでも小さな悪魔に翻弄されてはいられない。強く在らねば。
「言うようになったな、小娘」
犬歯を剥き出して、リューは肉食動物のように笑った。
悪魔をやり込められた満足感にしたり顔で立ち上がり、次は真由香へと丁寧に頭を下げる。
「ありがとう真由香ちゃん。心配かけてゴメンね」
「そんな、いいのよ。私、あなたの助けになりたいもの!」
恐縮する真由香に、満面の笑みを浮かべて見せる。それから、女悪魔に向き直った。
「えっと、セクシーな悪魔さん、あなたも。リューを紹介してくれて本当にありがとう」
すると、女悪魔は照れたように肢体をくねらせた。
「んまぁ、可愛いこと言っちゃってぇ~」
「ご主人様……」
不安いっぱいのエイミの声が掛かる。
「多分、私はもう前世から逃げてはいられないんだ。だから、ちゃんと考えるよ。大丈夫、だって、みんながいるから……」
四人の顔を順繰りに見ると、みんなこちらを見つめていた。それが面映ゆく、えへへと笑って床を見る。
「夏休みでよかった。学校のある日だったら、ゆっくり考えられないもんね!」
心にはまだ暗いものが渦を巻いている。それに乱暴に蓋をして、美也子は明るく言い放った。
帰り際、真由香はトイレを借りたいと申し出た。家まで我慢できない程度には、切迫していたのだろう。
リビングで所在なさげに浮かんでいる女悪魔を何となく見遣る。なぜリューは浮いていないのだろうか。悪魔って、やっぱり不可解だ。
だが、気に入った。
「ねえ女悪魔さん」
話しかけると、にっこりと笑って近寄ってきた。
「あら~ん、何か用?」
「あのね、女悪魔さんは、真由香ちゃんと契約するとき、記憶を全部見たんだよね」
「そうね、ぜぇ~んぶね」
「それで、真由香ちゃんが気に入ったから契約したんだよね」
「その通りよ~ん」
女悪魔の笑みは、優しいものだった。なんとなく、姉のようだなと思い、美也子もほっこりとした気分になった。
「真由香ちゃんのことが、好きなんだよね」
尋ねると、女悪魔は即答した。
「当たり前じゃなぁい。あの子ったら、臆病なくせに強がりで、でも優しくて情け深い。とってもいい子だもの。すぐに好きになっちゃった~」
その言葉は、確かに真由香を言い表すにふさわしい。
きつい性格だが、純朴で美也子以上に泣き虫だ。それになんだかんだ、美也子も真由香に頼り切りで、邪険にせず誠実な応対をしてくれる。
「そうだね」
美也子も笑って同意し、頭を下げる。
「真由香ちゃんを、これからもよろしくお願いします」
「あら……言われるまでもないわぁん」
人間のように、女悪魔は苦笑しながら答えた。
不意にその笑みが消え、顔を寄せてくる。
「でもね、あなたが蜂蜜ちゃんのこと愛してくれたら一番嬉しいわ。その時はアタシ、蜂蜜ちゃんとの特等契約は諦めるわ~ん」
「そ、それは……」
美也子は口ごもる。真由香のことは好きだが、やはり親友でしかない。
困っていると、女悪魔の笑みがいやらしくなり、囁かれる。
「愛してあげなくてもいいから、一回くらい、えっちしてあ・げ・て」
言い方ってものがあるだろう、と無言で顔を赤らめる美也子に、女悪魔はまさに悪魔らしく笑って、天井の方へ飛び去って行った。
内緒話をリューとエイミが聞きとがめて睨んでいるからだ。わざと、周囲に漏れるようなボリュームで言ったらしい。
用を済ませて戻って来た真由香が、リビングの微妙な空気に目をしばたたかせた。
美也子は、女同士でどうやって致すのか、少しいけない想像をした。
エイミ一人での介護は凄絶なものでした。
ネヴィラにもおむつはありましたが、エイミはクリスデンの尊厳を守るため着けませんでした。その結果、屋敷に排泄物の臭気が染み付き、葬儀の際は芳香剤で誤魔化しました。