67.自由という名の快楽を
「どうして?」
エイミの強固な口調に驚き尋ねるが、口をつぐまれた。目線を逸らし、何かを迷っているようだ。
話を邪魔されたリューが不機嫌そうな顔になったため、場を和ますついでに美也子は素直に思ったことを言った。
「うーん、全部の記憶を取り戻すのって、私もちょっとイヤだなぁ。だって、クリスデンって変な趣味してそうだし」
ホクロのある女が好きだとかいう話だけでもショックだったのに、これ以上ディープなことを知りたくはない。
第一、口達者なようだし、ヘラーのようなお堅い女を落とすような男が、真面目一徹のわけないだろう。
「あ、あなたにクリスデンの何が分かるのよ!」
予想外にも真由香が噛みついてきた。
「立派で素敵な男だったわ! 変な趣味って何よ!」
ああ、真由香はクリスデンのいいところしか知らないのだ。美也子は思わず言ってしまう。
「真由香ちゃんはさぁ、男性に理想を抱き過ぎじゃない? 男の人なんだから、絶対にいやらしいことだって考えてたと思うよ」
美也子は愛奈からの受け売りを知ったかぶりで話す。
「そんなことないわよ! あのクリスデンが有象無象の男みたいに低俗なわけないでしょ!」
「じゃあもしクリスデンが低俗だったら、嫌いになるの?」
美也子もヒートアップして、いつぞやの愛奈のようなことを言ってしまう。
すると真由香は、手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。まさか年上の女を言い負かしてしまうとは思わず、美也子は焦った。
女悪魔が近寄ってきて、真由香の頭を撫でる。
「よしよし、蜂蜜ちゃんにとって、クリスデンちゃんは王子様だものね」
それを見たリューが複雑そうに言った。
「お前の魔女は年のわりに純情だな」
「そこが大好きなのよ~ん」
美也子は頬を掻き、小さな声でごめん、と謝る。
だが、間違ってはいないと思う。エイミに手を出さなかったのは立派な話だが、若い頃のことなど予想もつかない。
「ねぇ、このまま『お試し契約』を続けるわけにはいかないの?」
リューに尋ねると、彼女ではなく、女悪魔が厳しい顔をした。
「それは、この御方をいいように使おうって魂胆かしらん?」
「えっ、あの、そういうつもりじゃ……」
確かに、試供品だけを延々ともらい続けるのは浅ましい行為だ。
恐縮する美也子に、リューは難儀そうに説明してくれた。
「我々悪魔には、神との盟約がある。人間と契約せぬ者は、スンヴェルから四日以上離れてはならない、帰還後は月が二回満ちるまで休むべし、というな。仮契約及び試用契約は、『契約』に該当しない」
そこまで言って、リューの瞳に力が満ちた。
「だが、お前が秩序の崩壊を望むならば、今一度神とやり合ってもいいぞ」
その言葉に、泣いていた真由香も、押し黙っていたエイミも、一様に驚きの目を向ける。美也子は意味がよく分からない。
「それはダメ~ん。アタシが『お姉さま』に怒られちゃうからぁ、そんな剣呑なこと考えないで~ん」
女悪魔は膝を折ると、媚びるようにリューの小さな身体に抱き付く。それを意に介した様子もなく、リューは顔の前で拳を作った。
「あの不気味な神使どもを握りつぶし、関門をこじ開け、若い同胞どもに自由という名の快楽を教えてやってもいい」
心なしか、目がギラギラと輝いている。
「この俺はあんな盟約には反対だったのだ……」
ぼそぼそと呟くリューの一人称が、元に戻っている。女悪魔が慌てて取り繕う。
「いや~ん、だめぇ、理性的になってぇ~」
豊満な胸部でリューの頭を包み込んで、美也子に向かって言った。
「まぁ、それくらい元クリスデンちゃんのことを好きになったのねん。こんな偉大な御方にそこまで気に入られたんだから、契約してあげてぇん」
セクシーな目線を投げかけられ、美也子は戸惑った。それを誤魔化すために、呼び名について抗議した。
「あの、元クリスデンって呼び方、やめてもらえますか?」
美也子と呼んでもらえたら一番いいのだが、悪魔たちの言動を見るに、あまり人の名前を呼びたがらないらしい。クリスデンは故人のため、問題ないのだと思われる。
「そう? じゃあクリ子ちゃんでいいかしらん?」
「……いや、それはちょっと」
「我が儘ね~ん」
「元クリスデンでいいです……」
諦念あらわに肩を落としてから、美也子はエイミに向き直る。
「ねえエイミ、何か都合の悪いことがあるなら教えて?」
「そうよ、まさかあんた、何か隠してるんじゃないでしょうね!」
泣き止んだ真由香が厳しく追随する。エイミは答えない。
「うーん、エイミがそこまでイヤがるならやめようかなー」
「美也子ったら!」
エイミに甘い美也子に、真由香が怒りを向けた。
「真由香ちゃんだって、私が私のままでいたほうがいいんでしょ? 記憶が戻ったら変わっちゃうかもよ」
「それは、何事もない時の話よ。襲われた以上は、一刻も早く自衛手段を講じないと!」
真由香の言うことは最もだ。だが、黙秘を続けるエイミを問い詰める気にもなれなかった。
「理由は分からないけど、エイミが黙ってるのは、私のためなんだよね?」
優しくそう言うと、エイミは一筋涙をこぼした。
そして口を開く。
「クリスデン様の記憶をすべて思い出すということは、死の記憶を取り戻すということになります」
――死の記憶。おどろおどろしいその単語に、眉をひそめた。
「え? 衰弱して死んだんでしょ。……まさか、苦しんで死んだの?」
エイミは唇を噛んだ。
「いえ、亡くなるときは眠るように。問題なのは、晩年の……『死へ至る記憶』なのです」
真由香が何かに気付いたようにハッとする。
「まさか、クリスデンの最期の半年間、あんたが誰も屋敷に入れようとしなかったのって」
「……はい。とても、他人様にお見せできる状態ではありませんでした」
「どういうこと?」
美也子の追及に答えず、エイミは何かを思い出したかのように口元を押さえる。真由香もまた同じように、顎に手を当てて俯く。
異様な二人の様子に、美也子は冷たい汗をかいた。




