65.ゴシップと沈黙
リューは、ソファに寝転がって足だけ外に突き出していた。
土で汚れたその足裏を濡れたタオルで拭ってやる。
平然と裸体をさらすリュー。その幼い身体に羨望の眼差しを向けてしまう。今はただのお子様の肉体だが、その本性は言語に絶するほど美しい女悪魔。
その丸い尻や、お椀のような形の乳房を思い出してどぎまぎする。
下の毛だって、たっぷり生えていたが整えたような逆三角形だった。
耳まで赤くなりかけた時、背後からエイミの声が掛かった。
「まあ、ご主人様がそのようなことを」
リューの着替えを持ってきてくれたのだ。その声が非難に満ちていたため、フォローしておく。
「いいよー。散歩の後はこうやって足を拭いてあげないと。おじいちゃんちの犬と同じ」
犬扱いにリューが少しだけ唇を尖らせる。だがそれだけ。
今はすっかり出会った頃の無表情に戻っていた。どうやらこれは『省エネモード』らしい。
「だからといって、先にその子の足を拭くことはないでしょう」
美也子はまだ薄汚れた姿のままだ。フローリングを汚さないようにリューの足を優先しただけなのだが。
「第一、裸でそのような格好をして、恥じらいのない。さっさと服を着て下さいませ」
エイミはらしくない厳しい言葉と共に、着替えのTシャツをリューへと放り投げた。そして洗面所から新しいタオルを持ってくる。それを濡らすと、電子レンジに入れて蒸し、それから美也子の顔を優しく拭いた。
『蒸しタオル』など、いつの間に覚えたのだろう。気持ちがいい。
「ご主人様、泣きましたね」
「う、ん……」
心配を掛けてしまった気まずさに口ごもる。
「ちょっとショックなことがあってビックリしたけど、大丈夫だよ。リューが守ってくれたから」
「それは当然です。そのために契約なさったのでしょう」
怒っているなぁ、と美也子は唇を引き結んだ。
「何があったのか、全て話して頂けますね」
「はい」
まるで怒ったときの母親のような声に、美也子は思わず敬語になってしまう。
「その前に、真由香ちゃんも呼んでいいかなぁ? 二度手間になるから、一緒に話を聞いてもらいたいんだけど」
「わたくしが同席することに、真由香様が快諾なさるのであれば問題ございません」
いつも謙虚なエイミも、今日は一歩たりとも引く気配がない。ここは、美也子が真由香と交渉せねばならない。
汚れた衣服を着替えてすぐにスマホを手に取り、深呼吸して、真由香に電話を掛けてみる。
「はぁ~い、元クリスデンちゃん」
電話から聞こえてきた甘い声は、女悪魔のものだった。
「うわ、びっくりした。真由香ちゃんは?」
「えぇ~? アタシとお喋りするのはイ・ヤ・な・の?」
「ううん、ちょっと急ぎの用件だから……」
「あら~ん、うふふ、そうなのねん。でも、蜂蜜ちゃんはお手洗いに行っちゃったから、あと五分、ううん、十分は戻らない――」
「このバカ!!」
電話の向こうから罵声と鈍い音が聞こえた。
「いった~い!」
「勝手に電話に出るな!」
「だって、『すまほ』の画面に『みやこ・はぁと』って表示されてたからぁ~ん」
『ギャー!』と猫の喧嘩のような声がしばらく続いた。一旦切ろうかと思った、その時。
「ゴメンね美也子、お待たせ」
取り繕った真由香の声が聞こえ、ホッとする。『手はちゃんと洗った?』と聞いてやろうかと迷ったが、やめておいた。今は意地悪している場合ではない。
「真由香ちゃん、今自分の家にいるんだよね?」
「そうよ。そういう美也子は?」
「家にいるよ」
「ちょうどよかったわ。私、あなたの様子が心配で、連絡しようと思ってたところだったから。あの悪魔とうまくやれてるか、って……」
「うん、こっちもちょうどよかった。そのことで話があるから、今から、こっちに来れない?」
すると真由香の声がパッと明るくなる。
「いいの?」
そしてすぐ、何かを察したように、低い声になった。
「何か問題があったのね?」
「……ちょっとね」
「すぐ行くわ!」
ガタンと何かの音がして、電話が切れた。
エイミ同席の許可をとることを忘れたが、今日は文句を言わせるつもりはない。
数分後インターフォンが鳴り、モニタを見ると息を切らした真由香がドアの前に立っていた。おそらくエレベーターのタイミングが悪く、階段を駆け上がって来たのだろう。
「わざわざありがとう」
「何があったっていうの?」
顔を見るなり、真由香は急かすように問うてくる。とりあえず中へ導こうとすると、開いた扉の隙間から、宙に浮いた女悪魔が幽霊のように入り込んできた。
「お邪魔するわねん」
廊下をキョロキョロ見回した。
「あの御方はどこにいらっしゃるのかしらん?」
「あ、リビングにいるよ……」
すると女悪魔は一人で行ってしまった。真由香の家と同じ作りのため、勝手知ったる、なのだろう。
図々しい女悪魔の態度に、真由香は大きな溜め息を吐いた。
「ゴメンね、あいつったら……」
「いいよ。あの人、明るくて好き」
美也子が女悪魔を褒めると、真由香は複雑そうな表情をした。
「まあ、とにかく上がってよ」
真由香をリビングへ導くと、既にダイニングテーブルの上に三人分の麦茶が用意されていた。
エイミが下座に腰掛けて、今日は何を言われても一歩も引かぬといった顔をしている。
ソファではリューと女悪魔がしどけなくくつろいでいた。何かをひそひそと囁き合って、さも楽しそうに笑っている。イヤな感じはしないため、悪口を言っているのではなさそうだ。素直に、彼女たちはとても仲がよいのだなぁと思う。
美也子はエイミの正面に腰掛け、真由香を自分の隣に座らせた。
エイミのピリピリした雰囲気を、悪魔たちの嬌声が中和してくれている。
「ねぇ~、あの女の子の中だと誰が一番好みかしら~ん?」
アイドルグループを映すテレビを指さし、女悪魔がリューに問うた。果たしてリューは、どの子が好みだと答えるのだろう。
「右の娘は、薬をやっているようだな。奥の娘は、恐らく妊娠している」
とんでもないリューの言葉に、美也子は目を丸くしてテレビを見た。
「ご主人様、それではお話し下さいませ」
迫力あるエイミの言葉が、美也子の姿勢を正させる。ああ、一体どの子が妊娠しているのだろう。
「何であんたが仕切るのよ」
真由香の憎々しげな態度に、エイミは深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんが、ご主人様の危機ゆえ、同席致します」
「どういうことよ」
「あー、それはね……」
悪い癖だとは分かっているが、とても面倒になってきた。悪魔たちと一緒に、ゴシップの話をしたいものだ。
そんな誘惑を振り払いつつ、美也子は順を追って話した。
近所のデパートで、イザベルという魔女に話し掛けられたこと。
アスラ人のコミュニティがあり、彼らはクリスデンの生まれ変わりを探していること。
イザベルに怪しまれ、帰路で襲われたこと。
一通り話が終わり、麦茶の中の氷を噛み砕いていると、周りの二人がまったく言葉を発していないことにようやく気が付く。
二人を交互に見ると、双方とも暗い顔で俯いていた。怒りではなく、恐怖の色がある。




