64.悪魔に躾けをする時は、殴ってもいいらしい
「わたしのために涙を流した人間は、お前で二人目だ」
甘い声にドキリとするが、二人目、とは複雑だ。
「わたしの永い永い生の中で、たったの二人目」
わずかに愁いのこもる声に美也子は聞き入った。
「お前は恐怖ではなく、わたしの怪我を見てわたしのために泣いたな。そのような者を異世界に放って帰還することはできぬ」
情熱的な台詞だったが、美也子はばつが悪くなり俯く。
「……でも、私が誰かのために泣いたのは初めてでも二回目でもないよ」
「そこは、嘘でも『初めてだ』という顔をしておくものだ」
「そういうのは……何ていうか、誠実じゃないでしょ……」
もごもごと言うと、ほんの少し笑われた。
「んもう、何がおかしいの」
軽く抗議すると、吐息を漏らすようにリューは囁く。
「わたしは、その素直なところを好いていると言っているのだ」
――好いている。その言葉に瞠目する。
人間性を褒められたのか、もしくは告白なのか。
何と答えたらいいのか迷っていると、ふとあることを思い出した。
「ねぇ、私から魔力をもらう時、口にキスしようとしてやめたでしょう」
するとリューは、そこで初めて動揺したような様子を見せた。その稀有なさまに、つい追及してしまう。
「どうして?」
ファーストキスを奪われなかったことは有り難いが、あの時の美也子は隙だらけで、避けようもなかった。
少しためらう様子を見せた後、リューは言った。
「口は、塩辛そうだったのでな」
確かに、涙と鼻水にまみれていた。汚かったからか、と気付いて恥ずかしくなる。
「それに――」
リューは続けた。
「お前からせがんでくる日まで、取っておこうと思ったのだ」
「何それ、そんな日は来ないよ」
美也子が笑うと、リューは至極無念そうな顔をした。
「ところであなたって、すっごく偉い人なの?」
再度質問をする。銀髪の悪魔の哀れなほど怯えた様子が印象深い。
「いや」
笑いながら、リューは否定した。
「今は昔、というやつだ」
「……ふーん」
これははぐらかされているのだと悟る。説明が面倒なのだろう。数時間前に、温暖化についての説明をケチった美也子には何も言えない。
「じゃあ、家に帰して」
南の方角に自宅マンションが見えていたため、指をさす。
リューは文句を言うことなく、空中でそのまま真っ直ぐマンションへ向かってくれた。
浮遊感はほぼ感じなかった。悪魔に抱かれて空を飛ぶとは、また面白い経験をしてしまったものだ。
「違う、ここじゃなくてもう二つ右」
他所様のお宅のバルコニーに着地しようとするリューを軽く叩いて止めた。悪魔にはこうやって指示するのだと、先人たちが教えてくれたのだから。
自宅のバルコニーに着地すると、タオルや家族の服に交じって、馴染みのない着物のような衣類が干されていた。
「ああ、これあなたが着ていたやつじゃない」
だが、今朝洗濯物係だった美也子には洗った記憶がない。
「エイミが洗ってくれたんだ」
脱水が甘いところを見るに、おそらく手洗いだ。
「感謝しなさいよ」
「そんなもの、スンヴェルに帰ればいくらでもある」
「んもう!」
素っ気ないリューの背中を拳で殴打する。
「なぜ先程から叩く?」
リューは理不尽な仕打ちを受けたような顔をしていた。
室内へ続く窓には鍵がかかっている。リビングを覗くと、無人だった。
「壊すか?」
「バカ言わないで!」
再度殴る。
仕方ないので、スマホから自宅の固定電話に電話をかけると、やや長いコールののちにエイミが出た。トイレにでも行っていたのだろう。
慌ててリビングに飛び込んできたエイミは、ガラス越しに成人姿のリューを見て目を丸くした。
「お帰りなさ……」
窓を開けたエイミの出迎えの言葉が途切れた。
美也子を真っ直ぐ見たまま固まり、次いで耳と髪がぶわりと音を立てて逆立った。威嚇する野生動物のようだ。
「どうしたのエイミ」
「ご主人様! 何があったのです!」
強い力で肩をつかまれた。いつもは優しい瞳が、恐ろしい怒りに満ちている。
「あー……」
美也子はようやく、自分がひどい恰好をしていることに気が付いた。
アスファルトに尻餅を付いたため、キュロットから露出した足は擦り傷だらけ。もちろん衣服も土埃で汚れている。顔だって、泣いたあと汚れた手でこすったから、黒ずんでいるだろう。
それに肌にも服にも、リューの白い血が点々と付着し、乾いてホワイトチョコレートのようになっていた。いつの間にか慣れていたが、甘い匂いも取れていない。
エイミが一体どんな被害を想像したのか、理解できたのは数年後だった。
「あなたがついていながら……! いえ、まさかあなたが」
エイミの非難の目がリューを射抜き、リューは鼻面に皺を寄せた。慌てて二人の間に入る。
「リューは守ってくれたの。ちゃんと事情を話すから、ね」
「ではまず傷の手当てを……」
「うん……」
消毒液は沁みるからイヤだなぁと思いつつスニーカーを脱いで室内へ上がる。その腕を、リューが引っ張った。
よろけた美也子の頬にリューが口づける。
目を白黒させていると、肌が温かくなり、細かい傷が治っていった。
「え、うそ、すごい」
以前、真由香の悪魔がエイミの打撲痕をこうして治してくれたことを思い出す。
悪魔とは救急箱いらずなのだなぁと感心してしまう。
「あとは温存しておくか」
呟いたリューは、見る見るうちに幼い姿へ戻っていった。まとっていた純白の衣を身体から落とすと、それは床に着く前にかき消えた。
「あ、ありがとう」
「もともとはお前の魔力だからな」
気にするなと言わんばかりに手を振って、幼い裸体を隠そうともせず家に上がり込む。
「悪魔って便利だね、エイミ」
傍らのエイミを見上げると、なにか巨大なショックを受けたかのように固まっていた。




