63.羊角の魔王、降臨す その2
リューの威圧に銀髪の悪魔は唇を噛んだ。わずかな怯えがある。
だが己の魔女の危機に、美しい銀髪を振り乱しリューに飛び掛かった。
リューが右手を軽く振り払うような仕草をしただけで、悪魔は再度吹き飛ばされる。
「この通り、わたしはお前たちに触れることなく場を制することができる。そろそろ、赦しを乞うべき時分ではないか?」
イザベルの苦鳴が強くなる。
瞳を爛々と輝かせるリューに鳥肌を立てつつも、美也子は毅然と言った。
「リュー、やめて」
「本気か。お前を害そうとした者どもを。ここで逃がせば禍根となる」
「それでも……」
リューの言葉は間違っていない。きっとまた襲われる。
逡巡する美也子に対し、リューは困ったような視線を向けた。
「うむ、お前が望まぬのなら、やむを得ない」
そう呟くと、イザベルの身体が解放され、地に落ちた。ぴくりとも動かない。
「魔力をすべて吸い上げた。しばらくすれば目を覚ますだろう」
「よくも、私の魔女を!」
銀髪の悪魔は闘志を失わず、怒りをあらわにした。
リューは嘆息し、言い返す。
「若輩め、穏便に済まそうという我々の気遣いを台無しにする気か」
傲然とした態度のリューを、銀髪の悪魔はねめつけた。
「先ほどから若輩若輩と……。お前は、一体何者なのだ」
するとリューは笑みを濃くする。
「そうであろうとも、お前の問いは最もだ。まさかこのような異世界で、一介の若輩が邂逅を果たすとは思うまいよ」
「どういうことだ」
「よく聞け」
リューは牙を剥いて笑った。金色の瞳が妖しく煌めく。
もったいぶるように、言葉でなぶるように、ゆっくりと口を開いた。
「我が名は『惰眠を貪るもの』にして『扉を開きしもの』。――そして、第五代『全統』」
美也子には意味の分からない単語が続き、首を傾げてしまう。
「ああ、――あああ!」
だが一方の銀髪の悪魔は、恐ろしいものでも見たかのように絶叫し後退した。
そして地面に膝をついた。
疲労でくずおれたわけではないようだ。
リューに、屈したのだ。
「全てを統べる御方……!」
恭しげに叫び、膝だけでなく、額まで地に擦り付ける。その肩が小刻みに震え、尻尾が力なく垂れていた。
「神代の王にお会いできて光栄でございます!」
「うむ」
リューは、そうされることに慣れた様子で頷く。
美也子には、何のことだかさっぱり分からない。
「不識で無礼な我々をお許し下さい。特にこの魔女はまだ若く、物を知りません。どうかお見逃し下さい。それが叶わぬのであれば、我が誇りを引き千切り、お怒りを鎮めて頂きますよう、何卒お願い申し上げます!」
そう言って、銀髪の悪魔は尻尾を上に掲げた。白い血の雫が地面に落ちる。
リューが嗜虐的に笑ってそれをつつくと、尻尾の主はびくりと肩をすくめた。
「どうする?」
美也子に問うてきた。
「やはり、魔女ごと殺してもいいぞ」
ハッと顔を上げた銀髪の悪魔の表情が絶望に満ちていて、哀れみを感じてしまう。
「殺すなんて、そんな」
「では、これをもらうか?」
リューはなぶるように眼前の尻尾を撫で上げる。
そんなものをもらっても困る、と美也子は困惑した。ラビットフットのように幸運を招くなら話は別だが、むしろ呪いのアイテムにでもなってしまうのではないだろうか。
「可哀相だから、いらない」
美也子の言葉に、リューは大仰に手を広げた。
「我が契約者は、まこと寛大だ。己を害そうとした者たちを憐れむ心を持っている」
「おっしゃる通りにございます」
銀髪の悪魔は再び地に頭をつけて、尻尾を引っ込めた。それがずいぶん小さく細くなってしまっていたのは気のせいではなさそうだ。怯えた犬のように尻尾を縮こまらせている。
それを愉快そうに眺めていたリューの瞳孔が不意に細くなった。
「だが、本当に殺さずともよいのか? 今度は命を狙ってくるかもしれない」
本気の色を感じ、美也子は身震いしてしまう。それでも全力で頭を振った。
「では、『次はない』ということでよいか?」
「寛大な御心遣いに言葉もございません。偉大なる御方とその契約者の永き繁栄を、心よりお祈り申し上げております!」
銀髪の悪魔は絶叫するように、仰々しい言葉を羅列する。
――大袈裟だなぁ、と呑気に美也子は思う。
あの可愛いかったリューが大人になって、ちょっと喧嘩に勝っただけで同族にあれほど畏怖されている。大層な肩書はいくつも持っているようだが、その意味が分からない。
「その言葉、努々忘れるな」
リューは伏せる悪魔の頭をつま先で小突いた。なかなかの屈辱的な行為だと思うのだが、銀髪の悪魔はびくともしない。
無抵抗の悪魔に満足したようで、リューは満足そうに笑った。
「では、わたしは行く。これから、この娘の顔を拭ってやらねばならぬのでな」
「はっ、どうぞごゆるりと、契約者を愛おしみ下さい」
「言われずとも」
リューは大股でこちらへ寄ってくると、地にへたる美也子を軽々と抱き上げた。俗にいう『お姫様抱っこ』だ。
そしてそのまま跳躍した。
周囲の二、三階建ての家々を軽々と飛び越え、そのまま空中にとどまる。空を舞う初めての体験に、美也子は悲鳴をあげてリューにしがみついた。
「案ずるな、どんなに拒絶されても放さぬ」
当然、今はそうしてもらわないと困る。
少しだけ何かに引っ掛かるような感触がしたかと思うと、今まで白黒だった風景が色彩を取り戻していた。
「異界を抜けた」
「ってことは、人に見つかっちゃうじゃない」
「姿を隠す術はかけてある」
「そう……」
おっかなびっくり地上を見下ろしていると、囁かれる。
「どうする、このままスンヴェルに来ぬか?」
「行くわけないでしょ! 家に帰るの!」
眉を吊り上げる美也子にリューは低く笑う。からかっていたようだ。
初めて間近で見るその美しい容貌に、美也子は思わず目を逸らした。
「……第一、まだ私たちお試し期間でしょ」
「段階が多少前後しても問題なかろう」
「そ、それに、あなたは私の魔力だけが目当てなんでしょう」
睨みつけると、リューは小さく息を吐いた。
「そう取られていたとは心外だな。スンヴェルに帰れば、魔力など余るほど満ちている」
「じゃあ、なぜ……」
リューの瞳が優しさを帯びる。
全てを統べるもの(略称が全統)=太古の七大悪魔王=初代七大公
という設定です。
とりあえず元魔王だった、くらいの認識で大丈夫です。