62.羊角の魔王、降臨す その1
『惰眠を貪るもの』。
美也子がその名を唱えた途端、リューの小さな体が光に包まれ、旋風が巻き起こる。
腕で目を庇った時、イザベルたちもまた小さな悲鳴を上げていた。
風が止み、そろそろと目を開く。
美也子の眼前に立っていたのは、華奢な体躯をした大人の女だった。
一糸まとわぬ姿で、美也子からは丸い尻と白い背中しか見えない。足元に襤褸切れのようになった子ども服とサンダルが散っていた。
「リュー?」
恐る恐る声を掛けると、女はこちらへと振り返り全身を見せた。
「お前の魔力量は、本当に素晴らしいな。この世界で実体の顕現を果たせるとは、よもや思わなかった」
息を呑むほど美しい、その女悪魔の顔は驚きと喜びでいっぱいだった。美也子はそれを陶然と見上げる。
リューの可憐なかんばせをそのまま引き伸ばしただけなのだが、威風堂々とした立ち姿と肉食獣のように獰猛な笑みは、見る者を惹き付ける。
髪は背中の半ばまで伸び、羊の角も肥大していた。隠すこともなくさらす胸は一掴みで余るほどに豊かで、上向きの乳頭も、股間を覆う体毛さえ白い。
「そう凝視してくれるな」
美也子の無遠慮な視線に気がついたらしいリューが微笑する。美也子は恥じ入りうつむいたが、なぜだかまたすぐに目線を上げてしまった。
他人の裸体をじろじろ見るものではない、という理性の声が些末に感じるほど、魅了されてしまっているようだ。
リューが虚空をつかむような仕草をすると、どこからともなく純白の衣が現われ、それを裸体にまとった。その一連の動作すら典雅で優美だ。
美也子の視線が気に障ったのかと思ったが、そうでもない様子だ。既にリューは魔女と銀髪の悪魔を見ている。
「素晴らしく気分がいい。こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは何百年ぶりか」
まるで演説しているかのように、よく通る声でリューは続ける。
「我がために涙をこぼす契約者はまこと無垢で愛らしい。何より、大量の魔力を保有する稀有な存在。眼前の怨敵も容易に排せよう」
リューの声に、先ほどまで余裕綽々だった二人が一歩後退した。
ただ子どもから大人の姿になっただけなのに、何を怯えているのだろうか、と美也子は眉をひそめた。
「魔女と同胞よ、わたしが――このわたしが、全力で歓待してくれる」
胸に手を置いて傲然とリューが笑う。芝居じみた言動だ。
あの無表情な悪魔と同一人物だとはとても思えない。ひどく高揚した様子が伝わってくる。
「なんとすさまじい力。あの娘の魔力だけではない、相当な上位悪魔だ」
銀髪の悪魔が愕然と言った。
「何より、美しい――」
容姿を褒める悪魔の頬を、イザベルがつねり上げた。
「何を見とれているのよ!」
なるほど、真由香もそうしていたように、悪魔とは折檻して言うことを聞かせるものらしい。
DVを受けた哀れな悪魔は、蚊の泣くような声で謝る。
「す、すまない。……だが、我が魔女よ、ここは大人しく引くべきだ」
その言葉を聞いて、リューは唇を吊り上げた。
「誘ったのはそちらだ。今更やめるとは言わせぬぞ」
そして、白衣を翻して跳躍した。
魔女を庇って銀髪の悪魔が前に出る。
うなる尻尾を、此度のリューは無傷でつかみ取った。よく見れば、手の傷は完治している。
銀髪の悪魔は顔に皺を寄せて咆哮した。額の角が伸び、凶器となってリューに向かう。
それが美しい顔に突き刺さるかと思い美也子は悲鳴を上げたが、大口を開けたリューはそれを口で受けた。
飴細工が砕けるように、銀髪の悪魔の角は噛み砕かれてしまった。
今度はイザベルが悲鳴を上げる番だった。
銀髪の悪魔も負けじと口を開け、リューの首筋に噛み付いた。白い血液が吹く。あまりの惨状に美也子は身震いした。
それでもリューは笑っている。
「若輩の分際でよく励むものだ」
それは賞賛なのか皮肉なのか。リューがつかんでいた尻尾を振りかぶると、銀髪の悪魔はゴミ箱に投げ入れられる紙屑のように飛ばされて、塀に激突した。
たいして力を込めた素振りもないのに、不可視の力が及んでいるようだ。イザベルが慌てて駆け付けた。
悪魔の戦いとは、なんと野蛮な、と美也子は我知らず口を開けていた。
双方とも黙って座っていれば特段の美人なのに、今は闘志を剥き出して血みどろの修羅場を見せている。
もし彼女らの血が赤であったら、美也子はとうに卒倒していたであろう。
「我が肉体を易々貫けると思うな」
リューが肩を回すと、すぐさま傷口が塞がる。
「ああ、まだ魔力が滾っている」
その視線が美也子を捉える。
呆然とする美也子に向かって、柔らかく笑ってみせた。
「まったくお前は、手放し難い娘だな。どうしてくれる」
「そんなこと言われても困るんだけど」
思わず赤面し、目をそらす。だがリューが笑っているからこそ、美也子の心にも余裕が出てきた。
一方、イザベルは銀髪の悪魔を助け起こしていた。
頭を打って目を回しているらしい悪魔の頬を手で包み、強引に口付ける。そして力なく地面に手を付いた。
魔力を分け与えたことによる疲労だろう。美也子もつい今しがた経験したばかりだ。
「すまない、大丈夫か?」
身体を起こした銀髪の悪魔は、魔女の背中をさする。『悪魔』のくせにとても優しい人だ、と思った。
砕かれた赤い角が見る見るうちに生え変わっていく――と思ったが、途中で止まってしまった。
「魔力が足りぬようだな。格上の者がつけた傷は治癒に手間取るぞ」
リューが吐き捨てた。
美也子はイザベルに語り掛ける。
「イザベルさん、もうやめましょう。私の悪魔の方が強いみたいだし……」
「『私の』?」
聞きとがめたリューが笑った。どうやら悦んでいるようだ。今はそれどころではないだろうに。
「あなた、嘘をついているでしょう」
荒い息の中でイザベルがこちらを睨む。ドキリとした。
「知っているのでしょう。ネヴィラの大魔導師のことを」
やはり、嘘だとバレていたか。美也子は言葉を紡ぐことができず、視線をさ迷わせた。
「あたしは『名古屋市近郊』としか話していないのに、あなたは『本当にこんな辺鄙な場所にいるのか』と返した。つまりは、周囲に該当する人物がいるのではなくて?」
鋭すぎる指摘に胃が重くなり、唾を飲み込んだ。
『はい、それは私です』などと言うことはできない。己の平穏な人生が終わりかねないからだ。
いや、むしろ告白してしまおうか。記憶がないと言えば諦めてくれるかもしれない。
もしくは、アスラのコミュニティに協力を仰ぎ、いずれ来るであろうネヴィラの追っ手から守ってもらおうか。
だがどの案も、実行に値する確信が持てない。幼く無知な美也子には、沈黙を守ることが最善手なのだろう。例えそれを肯定だと捉えられても。
「我々を調伏し吐かせる算段だったのか」
リューの表情が不機嫌に歪んだ。
イザベルは続ける。
「だって、コミュニティに恩を売っておきたいもの」
「結果、竜の巣をつついて喰われる覚悟はあったのか?」
「そんなものないわよ。あの可愛いおチビちゃんが、あたしの愛しい悪魔を凌駕するなんて思ってもみなかったから」
「そうか。まだ若い魔女のようだが、浅慮であったな」
リューが嘆息すると、次の瞬間、イザベルの身体が宙に浮いた。不可視の何かに吊り上げられているようで、首元を押さえて苦鳴を漏らしている。
「よ、よせ!」
焦燥あらわに銀髪の悪魔が叫んだが、リューは底冷えするような声を返す。
「わたしが先ほど同様に言った時、お前は何をした?」
リューの身体が何倍にも膨れたような錯覚に、美也子は目を見開く。
魔力を放って威圧しているのだと、感覚的に理解できた。




