61.白い血
「バカじゃないの! ここでそんなことできるわけないじゃない!」
真っ赤になって叫ぶ美也子に、リューは平然と言った。
「わたしはできる」
「冗談でしょう!?」
間抜けなこちらのやり取りを聞いて、対する魔女たちはクスクスと笑う。仕掛けてこないのは、舐められているからだろう。
ひどく残念そうにリューがぼやく。
「やはり拒絶するか。ならば、この姿で対応する」
そして美也子の目を真っ直ぐ見た。
「お前も、我が名を呼べ」
「えっ」
「わたしの通名を呼べ! それが力を発揮する条件だ」
そうなんだ、と思いつつ、少し考える。ええと、確か、『寝坊助さん』みたいな名前だったはず。
「……何だっけ?」
「『何だっけ』!?」
愕然と叫んだリューに、美也子は弁明する。
「仕方ないでしょ、普段は使わないような難しい言葉だったし……」
「バカはどちらだ」
肩を落とすリューに、美也子は何も言い返すことはできない。
「なんだあいつは、名前を忘れるなんて、有り得ない」
イザベルの悪魔にまで呆れられた。
「なぁ、こんなヤツら放っておこう」
悪魔はイザベルに向き直る。ぜひ、そうして欲しいものだ。
「どうしてよ。あんなに魔力の高い子が一体何者なのか、この魔力のない世界でどうやって悪魔を呼び出したのか、気になるでしょう?」
「お前は本当に、何事にも首を突っ込みたがる」
嘆息する悪魔。だが、温かみのある表情をしていた。仕方なく恋人の我が儘を聞いてやっているという様子に見える。今まで出会ったどの悪魔よりも、人間味があった。
「ちょっとだけ、あの子にちょっかい出してみなさい」
魔女の指示に、一歩前に出た悪魔の尻尾が揺れる。空気を切り裂く音がして、それが鞭のように大地を殴った。
あんなもので殴打されたら、『痛い』では済まないだろう。
美也子はようやく湧き上がってきた恐怖に、尻餅をつく。
「逃げろ」
短いリューの警告。それに対して感じたのは、自分の身の心配ではなく、残されたリューがどうなってしまうのかという懸念。
美也子は無言で頭を振った。
「でも、あなたは?」
「わたしのことはいい。このままお前を傷付けるようなことがあれば、名折れだ」
「逃がすか」
銀髪の悪魔の姿がゆらりとかき消え、何が起こるのかと息を呑む美也子のすぐ真横に現れた。
「あ」
地面に尻を据えたまま、そろそろと顔を上げて、すぐそこで腕組みしている悪魔を見た。
美しい容貌。その金色の瞳の中に、侮蔑と同情が含まれていた。
「よせ!」
リューが叫ぶ。
「力があるのなら、防いでみせろ」
ひゅうっと音がして、尻尾が動く。
衝撃と苦痛を予期して、腕で顔を庇い、目をきつく閉じてしまう。
そんな美也子の剥き出しの手足に、水とは異なる、熱くぬめる液体が飛散し付着する。そしてむせ返るような甘い香りが漂った。
思わず目を開くと、リューが銀髪の悪魔の尻尾を両手でつかみ上げていた。
鞭の如くうなっていたそれを捉えたのだ、彼女が無傷で済むはずがない。
その両手から滴る真っ白な液体が、悪魔の血液なのだと悟った時、美也子は卒倒しそうになった。
皮膚が裂け露出した肉すら白色だった。そしてこの煮詰めた砂糖のように甘い匂いは、血臭なのだ。
大怪我に違いないのに、リューはわずかに顔をしかめているだけ。痛覚は一体どうなっているのか、我慢しているのかと美也子はパニック寸前の頭で考えた。
「よせと言っているのに」
「こいつ」
二人の悪魔が睨みあう。
銀髪の悪魔の尻尾にリューの爪が食い込み、そこからも白い体液が滴っていた。それでも腕組みを崩していないところを見ると、まだ余裕なのだろう。
イザベルは感嘆の目をリューに向けている。
「やめて……」
美也子は恐怖で動かぬ足を引きずって、小柄なリューにしがみついた。
制止の言葉はリューに向けてのものではなかったが、そう勘違いされてしまったようだ。
リューが尻尾を離すと、銀髪の悪魔は軽々と後ろに飛び退き、再度イザベルの横に並んだ。リューがつかみ上げていた部分の肉は抉れ、無残な様子をさらしていた。
リューもまた、ズタズタになった両の手のひらを交互に眺め、小さく鼻を鳴らす。
「汚してしまったな」
何のことだかすぐに分からない。その視線を追って、お互いの衣服のことだと理解する。
「悪魔の血は、人間のものとは組成が違う。容易には落ちぬぞ」
「そんなこと、今はいいのに……」
軽口を叩いて、美也子を落ち着かせてくれたのだと悟った。その気遣いに、いつの間にか頬を伝っていた涙を拭う余裕が出た。
「怪我が酷い、どうしよう……」
あまりに痛々しいリューの傷を見て、美也子は再度恐慌に陥る。
「私がバカだから、あなたが怪我しちゃった」
再び涙があふれる。洟も垂れた。
美也子が名前を思い出せなかったから、こんなに小さな子に怪我をさせてしまった。
泣くことしかできない美也子に対し、リューが戸惑っている様子が伝わってきた。困惑を振り払うようにリューはイザベルに向き直る。
「魔女よ。悪魔同士、力比べがしたいのなら応じてやる。だからこの娘に危害を加えるな。この通り、泣くことしかできぬ」
辛辣な台詞に、己の不甲斐なさを感じより一層悲しくなる。
かつて、ヘラーにも言われた。自分は、泣き喚くことしかできぬ、哀れで無力な小娘なのだ。
「そうねぇ、じゃあ今日のところは、おチビちゃんの言う通りにしようかしら」
イザベルは己の悪魔とリューを交互に見る。その瞳には、怪我を労わる色があった。
「では、しばし待て」
リューは小さな手のひらを前に掲げ、休止の合図を出した。
「あら、今ここで特等契約しちゃうのかしら? 見ていてもいいの?」
イザベルがからかう。『ここでできる』などと言うからだ。
「泣くな美也子」
耳元に口を近付け、落ち着いた声音でリューが囁いてくる。呆れた様子はない。
「お前に怪我がなくてよかった」
頭を撫でられて、気持ちが穏やかになる。それでも幼子に慰められている自分の情けなさは無くならない。
「魔力を大量にもらうぞ」
「いいよ」
涙声で了承する。そうしなければ、リューが傷付けられるばかりだ。
「わたしの名前を呼べ。――『惰眠を貪るもの』と」
無言で頷くと、リューは美也子を真っ直ぐに見つめてきた。
金色の瞳に吸い込まれそうになる。愛奈もたまにこうなるなぁと、ぼんやり思った。
「こんな時に、他の者のことを考えたな」
見透かされ、驚く美也子に、リューは顔を近付けてきた。
キスされる、と思わず目を閉じた。
だが迫ってきた唇は、急に方向転換して額に着地した。
凄まじい脱力感に、地面に手を付いた。呼吸が荒くなる。
「さあ、わたしの名前を呼べ」
強い指示に、顔を上げる。リューは既に魔女と悪魔を見据えていた。
「……『惰眠を貪るもの』」
喘ぎながら、小さく、その名を口にする。
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