60.襲撃 『天地(あめつち)を見越すもの』
「ああ、疲れたなー」
帰路で美也子はぼやいた。
片道十五分ほどのデパートでアイスクリームを食べてきただけなのに、すっかり精神が疲労してしまっている。
手を繋いでいるリューのショートパンツには、白いシミができていた。溶けたアイスを垂らしてしまったのだ。母親に見つからないように洗濯せねば。
「ねぇ、あの人に敵意がなかったから、あなたは基本的に無視していたんだよね?」
いざという時の戦力を疑い、美也子はリューに半眼を向けた。
「敵意はなかったが、全身全霊で探りを入れていたぞ。気付かなかったか」
「気付かないわよ!」
思わず叫んでしまう。
「あれは、魔女としては完全体だった。正面から喧嘩を売っても今のわたしでは太刀打ちできない。関わらぬ方が賢明だ」
「完全体って?」
「特等契約が済んでいる」
平然とリューは言うが、美也子にとっては薄ら寒くなるような話だ。せっかくボディーガードとしてお試し雇用しているのに、それでは意味がない。
そもそも、リューを連れてさえいなければ、声を掛けられることもなかったのだ。いや、それ以前に外出することもなかったし、エイミと気まずい雰囲気になることもなかった。
その内心を察したのか、リューが見上げてきた。
「お前、試用期間が終了したら、わたしを放つ気だろう」
ドキリとしつつも、美也子は慎重に言葉を選んだ。
「ゴメンね、あなたとエイミ、両方を同時に大切にすることはできないの。だったら、私はエイミを選ぶ」
少なからず怒りをあらわにするかと思っていたが、意外にもリューはうむ、と頷いた。
「賢明ではあるな。二頭の竜を追うものは必ずや両腕を喰われる」
二兎を追う者は一兎をも得ず、ということか。異世界にも似た警句がたくさんあるのだなと感心する。
明日にでも元の世界に帰ってもらおうか、それとももう少しだけいてもらうか。逡巡していると、リューは握る手に強く力を込めてきた。
思わず彼女を見遣ると、お試し契約が完了した時と同じような、深い笑みを浮かべていた。
「だが、よく考えろ。――わたしはお前を気に入ったのだ」
「うん? それはありがとう」
リューの笑みの意図が分からず、とりあえず礼を述べると、リューはさらに続ける。
「お前がわたしを一番に想ってくれるのなら、わたしもお前を十三世界で最も慈しむ」
情熱的な台詞に驚き、足を止める。
「わたしが、お前の望むものをなんでも与えてやる」
可憐な少女の顔には似つかわしくない、甘やかな声が耳に残る。
「だから――美也子」
リューが名前を呼ぶ。それは、契約以来のこと。
「共にスンヴェルへ来ぬか?」
自動車の騒音は遠くへ過ぎ去り、リューの声だけが頭に響く。金色に戻った瞳があまりに美しく、視線を外すことができない。
――私の、望むもの。
ぼうっとする頭でそれだけを考えた。
美也子の望みは――母がいて、エイミがいて、友人たちのいる日常。
彼女たちの顔を思い出した途端、頭が冴える。
「私の望むものは、異世界にはないと思うな」
一切迷いのない答えを返すと、リューはほんの少しだけ眉を歪めた。悲しんでいるように見える。
だが、見る見る間にその眉が吊り上がっていく。険しい表情で、背後を振り返った。
「どうしたの?」
「尾行されていた」
美也子も振り返ると、数メートルほど離れたところに、別れたばかりのイザベルが立っていた。
「うそっ!」
気配などなかった。
「バレちゃった」
相変わらず穏やかな調子で、イザベルは肩をすくめた。
「せっかくだから、お家を突き止めてから帰ろうかなぁって思ったのよ」
その赤い唇が吊り上がる。
「あなた、どうしてそんなに魔力が高いの? お姉さん、気になって仕方ないの」
人好きのする笑みは既にない。
リューが美也子の前に躍り出た。人間の擬態を解き、白髪と角が出現した。
美也子は突然の出来事に驚き、その場から動くことができない。
「あなたのこと、もっと知りたいわ」
イザベルが右腕を上げたとき、一陣の風が吹き抜けた。思わず顔を伏せ、そして目を開いた時、周りの風景全てが色彩を失い、白黒映画のようになっていた。耳が痛むほど静かだ。
「何、これ」
「『異界』に連れ込まれた!」
こんなに感情をあらわにしたリューの声は、初めて聞く。驚愕と焦燥がありありと現れていた。
頼りにしていた悪魔の焦りに、美也子は恐慌一歩手前まで陥る。
『異界』が何かは分からない。だが、夢現実問わず、『謎の不思議空間』に連れ込まれた経験は何度かある。多少は肝が据わってきたようで、状況を観察する余裕はあった。
とりあえず、外界から隔絶されているということは間違いないようだ。
「おいでなさい――『天地を見越すもの』」
イザベルが囁くと、その背後からゆらりと何かが姿を現す。
「ほら、やっぱり気付かれた。近付き過ぎるからだ」
中性的な声でそうぼやく銀髪の女が、イザベルの悪魔のようだ。
額の中央から生える赤黒い角も特徴的だが、何より目を引くのは太く長い尻尾だった。真由香の悪魔のものとは比べ物にならない。それがゆらゆらと揺れている。博物館で見た恐竜のものに似ている、と美也子は薄っすら思った。
ロングスカートのような服装だが、尻尾の部分は穴でもあけているのだろうか。ここからでは確認できない。
「だって、何を話しているか気になったんだもの」
イザベルが悪魔に弁明する。悪魔は呆れたように、そして諦めたように笑って見せた。
「まったく、お前というヤツは。過ぎた好奇心は、身を滅ぼすぞ」
二人は顔を寄せて、キスを交わす。先日観たドラマよりはずっと軽いものだったため、赤面するほどではない。
短いやり取りの間にも分かる、二人の親密さ。特等契約は、つまりは婚姻のようなものだとリューは言っていた。彼女たちはいわば、長年連れ添った夫婦なのだ。
熱く見つめ合っていた二人が、美也子たちに向き直る。
美也子はうまく動かぬ頭を回転させ、思いついたことをイザベルに叫んだ。
「わ、私に危害を加えたら、渡界法に引っ掛かりますよね!?」
すると一笑に付された。
「何を言っているのよ。悪魔を連れているあなたに、そんなもの適用されるわけがないでしょう」
うっ、と言葉に詰まり、血の気が引く。
「魔女よ、去れ。この者は戦う力などない。ただ魔力が高いだけだ」
美也子を庇うように立つリューが、どんな表情をしているか分からない。声音は落ち着きを取り戻していた。
「あら、カワイ子ちゃん、それはあたしが決めることよ」
「やむを得ない。――おい」
リューが振り返った。無表情だった。
「我々も特等契約をするぞ。――今すぐ」
一瞬意味が分からず呆然としてしまう。すぐに特等契約の方法を思い出して、赤面した。