6.お母さん
一日の授業が終わると、美也子は気持ち駆け足で帰路に着いた。
愛奈は家が反対方向で、途中で真由香とも会わなかったため、歩みを止める者はいない。
マンションの九階、自宅の扉を開け、待ち惚けているだろうエイミに向けて『ただいま』と発声しようとした、その時。
玄関から真っ直ぐ延びる廊下の先、リビングの扉の向こうから、馴染みある笑い声が聞こえた。
母の声だと気付いて、血の気が引く。なぜもう帰宅しているのか?
さらに美也子を混乱させたのは、母の快活な笑い声に混じって、エイミの声が聞こえることだった。
――私の部屋にいるところを見付かったんだ!
心臓が跳ねる。
不審者を問い詰めているような雰囲気ではないことに疑念を抱きつつ、美也子はリビングへ飛び込んだ。
「あ、帰ってきたわね」
美也子を迎えたのは、ダイニングテーブルに向かい合って座る母とエイミだった。
「お帰りなさいませご主人様」
立ち上がったエイミは慇懃に礼をする。どことなくそわそわしているのは、再会の喜びに抱き付きたい気持ちを我慢しているからだと美也子には分かった。
状況に困惑し、妙に明るい笑みを浮かべている母と、柔らかく微笑んでいるエイミを交互に見比べる。
「……お母さん、仕事はどうしたの?」
とりあえずそれだけ絞り出す。
「午前で出来るだけ片付けて、早退してきたのよ」
「なんで?」
「だって、娘がいなくなるかもしれないんだから仕事どころじゃないわよ」
母はひらひら手を振った。茶目っ気のある動作とは裏腹に、表情に陰りがあった。
「昨日の会話、半分くらい聞いてたわよ。とうとうこの日が来たかって、本当は眠れなかったんだから」
「……ど、どういうこと?」
「お母様は、ご存知だったのです。あなた様がクリスデン様の生まれ変わりであることを」
エイミが口を挟む。
言葉を失う美也子だが、座るように母から促され、戸惑いつつもエイミの隣に腰かけた。母子二人暮らしだが、来客用に椅子は四脚ある。
身体を強張らせる美也子の目を、母が真っ直ぐ見つめてくる。
「あんたが二歳の時、お父さんが死んで少し経った頃ね。いきなり流暢な言葉で話し出したのよ」
「私が? なんて?」
「私は異世界の魔導師の生まれ変わりだって」
その時の母の心境を想像し、美也子は絶句した。
「本当にその時は、お父さんが死んだショックで頭がおかしくなったんだって思ったわよ!」
母は苦笑したが美也子は笑えもしない。夫を亡くした直後の女性に幼児の身体で喋りかけるなんて、何てことをするのだ、クリスデンは。
「魔導師は、謝罪と感謝の言葉をくれたわ。驚かせたことと、産み育ててくれたことへのね。それで、出来るだけ自分の意識は封じるから、後々の選択は成長した『美也子』に任せるって。あと、いつか異世界から可愛い子が訪ねてきたら宜しくって」
母は優しい目でエイミを見た。エイミは感極まったような表情をしている。
「でも安心した。この子は美也子を連れ去るために来たんじゃないし、美也子もここに居たいって言ったんだって?」
「……だって、全然覚えてない。私はクリスデンだった頃のことなんて知らない」
そう答える美也子だが、エイミに対して胸の奥から湧いてくる親愛の情については口をつぐんでしまった。
「私は、お母さんの側にいたい」
うつむきながら言う。少し不安だった。気持ち悪いと思われていないだろうかと。
「よかった」
大きな溜め息と共に母が脱力し、背もたれに体重を預けた。
「あんたの口から聞けて安心したわ。異世界に飛んでいっちゃうんじゃないかって、昨日からずっと吐きそうだったわよ」
母の声は軽い調子だったが、強がりだろう。さもなくば、仕事を放り出して駆け付けてくるはずがない。
「ごめんなさいお母さん、心配掛けて……」
思いもよらぬ話を聞いた美也子は、眩暈がしそうだった。幼子の自分の中にはクリスデンの意識があって、母と交流していたなどと。
「『あの人』には少し助けられたわ。あんたが病気貰ってきたときは、苦しかったでしょうにまた出てきてくれて、『美也子』がぐずらないようにしてくれたの」
そう言った母の表情には真摯な感謝があった。
「でも四歳になる少し前に出てきたのが最後ね。それ以来交流はないわ。残念だったかな、エイミちゃん」
「滅相もございません!」
少女の耳がピンと立つ。
「わたくしはクリスデン様でなく、転生後の御方にお仕えするために参ったのです。肉体は違えど魂は同じもの、わたくしの忠誠に変わりはありません」
「って言ってるけど、美也子はどうなの? エイミちゃんの気持ちに責任とれるの?」
母の瞳が美也子を見据えた。
一人の人間に対して責任をとるなどと、高校生の美也子にはあまりに重かった。だが、切実な目でこちらを見てくるエイミに向かって去れとはとても言えない。同情よりももっと深い感情が、胸の奥から湧き出してくるからだ。
「うん、この子と一緒にいたい。だからお母さん、高校を卒業するまではここに置いて欲しい。卒業したら就職して、家を出て二人で暮らすから」
「ご主人様……!」
思い詰めた美也子と感極まったようなエイミを見て、母は慌てた。
「ちょっと待ちなさい、責任をとるってそういう意味じゃないわよ。もちろん最低でも大学を卒業するまではお母さんが二人とも面倒見るからね」
何度も首を横に振った後、母は低い声で続けた。
「責任って言うのは、この日本で、『異世界人』のエイミちゃんと生活出来るかってことよ。あんたの暮らしにも色々制限がかかるでしょう。途中で邪魔だなんて思って投げ出さないことは出来る?」
「ご主人様の生活にお邪魔ならそのときは捨てて下さい」
エイミが口を挟み、母の眉がわずかに吊り上がる。
「ダメ、ダメよエイミちゃん。あなたは下僕だって言ってたけど、この家で暮らすなら、そんな扱いはしない」
「そんな恐れ多いことを」
なんだか美也子そっちのけになってきたため、身を乗り出して言う。
「大丈夫だよ、お母さん。私は覚悟できてる。エイミのことは任せて。エイミが私のことをご主人様なんて言っても、調子に乗ってひどい扱いしたりしない」
美也子は隣に座るエイミの手を握る。彼女の手はひどく荒れていた。後でハンドクリームを塗ってやらなくては。
「ご主人様……」
瞳を潤ませるエイミに軽く笑い掛け、母へと向き直る。
「でもお母さん、エイミのことで何か困ったら、相談してもいいかな……?」
今すぐは思いつかないが、社会人の母に相談すべきことは今後たくさん出てくるだろう。
「もちろんよ」
母は微笑む。もう十数年以上前からこの日のことを想定していたのだと思うと、非常に頼もしい。だが、最初に言っていたように恐れてもいたのだ。それを思うと、あまりに申し訳ない。
「よし、じゃあ話は終わり! これからよろしくね、エイミちゃん」
「はい、お母様!」
立ち上がったエイミが床に平伏しようとしたため、美也子は慌てて引き留めた。母の笑みが苦笑へと変わる。
「じゃあ私は一旦職場に戻るわね」
そう言って母も席を立つ。やはり仕事は忙しいようだ。
「お母さん、ごめんなさい」
「いいのよ、それより夕飯は何か美味しいもの買ってくるから、エイミちゃんに食べられるもの聞いて、連絡ちょうだい」
平日の夕食準備は美也子の係だったが、今日は免除された。すっかり慣れたとはいえ、煩雑な仕事がなくなった喜びに口元が緩む。
「エイミ! お母さん公認になったからもう隠れなくていいよ! やったね」
母が再度出勤する姿を見送ってから、美也子はエイミに抱きついた。
「ご主人様ぁ、ご迷惑おかけしました」
エイミも緊張の糸が解けたようで、甘えたような声を出し激しく顔を擦り寄せてくる。
「……もしかして私がいない間、寂しかった?」
「当たり前でございます!」
予想以上に激しい返事に面食らっていると、エイミの耳が垂れた。
「ああ申し訳ございません、ご無礼を。学生のご主人様が学校へお通いになるのは当然のこと。寂寥の気持ちを制御できないわたくしが浅ましいのです」
「そんなにへりくだらなくていいのに」
美也子は少し背伸びしてエイミの頭に手をやり、ふわふわの毛を梳くように撫でてやる。
「それに、ご主人様って呼ぶのやめてよ。美也子って呼んで」
するとエイミの表情が凍り付いた。
美也子の胸にすがり付き、哀願するような声で言う。
「……それだけはご容赦ください。ご主人様をご主人様とお呼びすることは、わたくしだけに与えられた特権なのです」
「いや――」
『ご主人様』と呼ばれるのはちょっと恥ずかしい、と言おうとしたが、続いたエイミの声に阻まれた。
「ご主人様の下僕はわたくし一人、ご主人様をご主人様とお呼びできるのは十三世界でわたくしただ一人。例え幾人の召し使いを増やしても、他の誰にもご主人様と呼ばせはしないとクリスデン様はおっしゃってくれました」
悲哀を帯びていたエイミの声が熱っぽくなり、美也子の腕の中で身悶えした。
「ご主人様をご主人様とお呼びする度、わたくしはご主人様の唯一の下僕であると実感し、歓喜に心震えるのです」
果たして今、エイミは『ご主人様』と何回唱えただろうか。
少女のあまりの変貌っぷりに、美也子はぽかんと口を開けた。
「いや、私はクリスデンじゃないし約束は無効にしよう……かな」
「そんなぁっ、ご容赦ください、ご容赦ください!」
エイミが絶叫して頭を押し付けてくる。
彼女は基本的には謙虚で忠誠心が深いが、一方で独占欲が強く激情的な性分のようだ。
クリスデンや美也子を『ご主人様』と呼ぶことは、忠誠の表れであると同時に、周囲に対するマーキングなのだろう。
美也子は他人からこのような激しい執着を受けたことがない。一緒の大学に行きたいと言うだけの真由香はまだソフトな方だ。
戸惑いつつも、まぁエイミの好きにさせてやろうと思う。それは間違いなく諦念だった。クリスデンもきっとそうだったのだろう。
「ご、ごめん、ご主人様って呼んでもいいけど、お母さんの前では控えてくれると嬉しいな」
「はい、二人きりの時に存分に」
語尾にハートマークが付いていそうな言い方だった。
エイミの頭に置いていた手を下げる前に、ふと手のひらを見てみると、白いアンダーコートがたっぷりと絡み付いていた。これは祖父母宅の犬を撫でた時とまったく同じ現象だ。しかももうすぐ夏だから、動物に倣うのならば抜け毛のピークはこれからだ。
あとから制服とベッドも確認すべきだろう。粘着シートを用意せねば。
「……お風呂入ろっか。掃除してくるからちょっと待ってて」
思わず言ってしまう。洗髪させて櫛を使えば、抜け毛も減るだろう――たぶん。
ちなみに、帰宅後にバスルームを掃除するのも美也子の係だ。
「浴室でしたらご主人様がお帰りになる前に、お母様のご指導で清掃させて頂きました」
「えっ、お母さんが掃除やらせたの?」
目をぱちくりさせると、エイミは当然のように頷いた。
「はい、何かお手伝いをと申し出たらそれを。今までご主人様がやっていらしたお家の雑事を分担してやるようにとおっしゃっていました。そしてご主人様の空いた時間で、勉強させてやって欲しいと。ですがわたくしがすべてやります!」
「それはお母さんが許さないと思うな。この家にいる以上はお母さんがルールだからね」
エイミは不満そうな顔を見せた。もちろん彼女がすべてしてくれたら楽だが、それは堕落を招くだけだろう。日本の平凡な女子高生が、只働きの召し使いを持って良いわけがない。
「ところで、お風呂は一緒に入って下さるのですか?」
エイミがもじもじしながら聞いてきた。
「えっ、そのつもりだったけど……」
風呂掃除ができたならシャワーの使い方くらい分かるだろうが、シャンプーなどは分からないのではないか。
美也子の返答に、エイミは頬を染める。恥じらう意図が分からない。
「あの、一緒の入浴をお許し頂けるのであれば……その……後ろの毛を、洗って下さいませんか……?」
――後ろの毛、だと……?
色々想像して固まる美也子に、エイミは懐かしそうに言う。
「クリスデン様にはいつも洗って頂いておりました。手が届かないものですから」
「いつも一緒に入ってたの……」
美也子は愕然と呟く。
エイミがいくら『下僕』の立場だとしても、男女が一緒に風呂に入るのは問題があるのでは。いや、問題が起きても問題ない関係だったのか。
今度は美也子が頬を染める番だった。
だがエイミを見ていても、親愛の情は湧いて来るが性的なものは感じない……のは美也子が女で、恋愛経験のない子どもだからだろうか。