58.悪魔とアイスと魔女
「この世界は空気が悪いな」
道路を歩きながらリューはそう言った。
美也子とはしっかり手を繋いでいる。
「この世界に来た人、みんなそう言うよ。そういう技術が発展しちゃったから、仕方ないの。神様が魔法を教えてくれたらよかったのにね」
「神の存在が利だけもたらすとは限らない。この世界は、神の介入がない分、豊かに発展しているようだ」
片道四車線の国道を行き交う大量の車。隙間なく並ぶ建物。それらを眺めながらリューは感心したように呟く。
「そうみたいだね」
美也子はリューの手を引いて、国道に架かる歩道橋を渡った。
曇り空とはいえ、蒸し暑い。とりあえず道向こうのデパートに連れて行って涼もうという魂胆だ。
「ここは市場か。凄まじい物量だな」
店内でリューはキョロキョロとしていた。初めてエイミをここに連れて来た時よりも、ずっと物珍しそうにしている。
「しかも、涼しく乾燥している。魔法ではなく、何らかの技術で建物を冷やしているのか」
「そうだよ。まあ、そのせいで空気が汚れたり、年々暑さが厳しくなったりしてるんだけどね」
「なぜだ、神が怒っているのか?」
「あー……そうかもね。知らないけど」
温暖化がどうこうという説明が面倒で、美也子は凄まじく適当な返事をした。
「あれは、氷菓子だろう?」
フードコートにあるアイスクリーム屋の看板を見て、リューがやや興奮したような声を上げた。
「うん。知ってるの?」
「似たようなものは他の世界にもある。あれなら食すことができるぞ」
要するに、食べたいということか。素直にそう言えばいいものを。
緩みそうになる口元を引き締めつつ、バニラアイスを購入してやる。コーンは不要だと言ったので、カップ入りだ。美也子はオレンジソルベを注文した。
午前中のフードコートはまだ空いている。勉強道具を持ち込んでいる小中高生も何組か見受けられた。ざっと見たところ、顔見知りはいないようで安心する。
適当な席に横並びに腰掛ける。向かい合うつもりだったのだが、リューから隣の席に座って来たのだ。
まだ硬いアイスをスプーンでもどかしそうに突くリューに尋ねる。
「排泄しないのに、食べたものはどこに行くの?」
「消化器官で溶かし尽くして全て栄養に変換し、肉体を巡らせる。液体と、少量の固形物なら問題ない」
「へぇ、便利だね」
感心せずにいられない。悪魔は、トイレの行列とは無縁な存在なのだ。
「人族とは臓器の作りが違うらしい。わたしの身体は、ずいぶん軽いだろう?」
「そういえばそうだね」
痩せ型だから軽いのかと思っていたが、人間には在って、悪魔には存在しない臓器があるということか。
「自分で調査したわけではないが、腰骨に収まるのは交接器官と直腸だけらしい」
「こーせつきかんって何? それに、なんで直腸だけあるの?」
「……は?」
素っ頓狂な声を上げたリューに、美也子は何かまずいことを言ってしまったのかと焦る。
「え? なに?」
「……」
沈黙ののち、リューは横目で美也子を見遣った。少し口元が歪んでいる。
「お前は無垢でよいな。特等契約すれば教えてやるぞ」
物知らずだと嫌味を言われたのだと思い、唇を尖らせる。
「お前の食べている物も食わせろ」
悪魔が大きな口を開けて催促する。血色の悪い舌と、尖った犬歯が見えた。固形物を食べないのに、どうしてこのような牙が必要なのか、理解に苦しむ。
冷たいものを食べて頭痛が起きればいいと思い、たっぷり掬って口に突っ込んでやる。
「甘くない」
そう言って眉をひそめるリューの顔は見ものだった。口の端から一筋オレンジ色の涎がこぼれたため、慌ててティッシュで拭いてやる。
子どもらしいその一連の仕草に、声を上げて笑ってしまった。今度はリューが不服そうな表情を見せ、黙々とバニラアイスを食べ始める。
そのさまを微笑みながら眺めていた、その時。
「ねぇ、あなた魔女なの?」
「え? 違いますよ」
背後から唐突に掛けられた声に、美也子は素直に答えてしまう。
「!?」
すぐにその質問の異様さを悟り、慌てて振り返った。
朗らかな笑みを浮かべた、外国人の女が立っていた。
「そんなに警戒しないでよ」
女は向かいの席に腰掛け足組みする。助けを乞うようにリューを見ると、アイスをほじくろうと格闘していた。溶けた周囲から食べればいいものを。
「あたしはアスラ出身の魔女、ニア。今はイザベル・マクベスという名前よ」
ブラウンのロングヘアに同色の瞳。白い肌に浮くそばかす。美也子は名乗りを返していいものか迷い、沈黙するのみ。
「悪魔を連れているから、つい声を掛けちゃった」
イザベルの視線がリューに向く。リューはやはりアイスにしか興味がないようだ。
「魔女じゃないのに、どうして悪魔と? ええと、でも二人の間にわずかな『繋がり』を感じるけど……」
穏やかな話し方をする女だ。危うく心を許しそうになってしまう。
「まあ、いろいろ事情があるんです」
美也子は視線を逸らす。
イザベルは質問を続けた。
「あなたって、この世界の住人?」
肯定すれば、魔力のないこの世界で、どうやって悪魔を呼び出したのかと問われるだろう。
この女性はネヴィラ出身ではないようだが、故郷の仲間を裏切って来たという真由香のことを、おいそれと話すわけにはいかない。
黙秘を続ける美也子に、イザベルは小さく嘆息した。怒りではなく、頑固な子どもに呆れたような様子だった。
「あたしはね、アスラの西オーグが故郷なんだけど……知ってる?」
美也子は頭を振る。アスラという名称さえ初耳だ。
「アスラはあたしが生まれる何百年も前からひどい有様なの。だから、あたしは逃げて、色々な世界を転々としているのよ。幸い、順応性がすごく高くってね」
どうやら身の上話をして打ち解ける作戦らしい。面倒なことになったと、美也子は逃亡したくなる。
「あそこはまだ荒れているのか」
唐突にリューが口を挟む。視線はアイスに向けられたまま。
「そうよ。それでも人々は何とか生き延びている」
「アスラって世界は、どうして荒れているんですか?」
好奇心に負けて尋ねてしまう。ボディーガードになると自負していたリューが警戒している様子がないため、今すぐ逃げなくともよいだろうか。




