56.二人のはざまで
翌朝早起きした美也子は、リビングで夏休みの宿題に手を付けていた。
大嫌いな数学だ。
問題集の奇数問は美也子、偶数問は愛奈が解く。そして八月の半ばに写し合いっこしようという小狡い作戦である。お互いにちゃんと解説し合うつもりだから、卑怯者のそしりを受ける謂れはない。
平日のため、母は出勤で不在。リューはその通名に相応しく、まだ美也子の部屋で眠りこけている。
エイミはソファで報道番組を見ていた。
おそらく既に、エイミの方が日本の情勢に詳しい。政治家のおじさんたちの名前も言えてしまう。
「ご主人様、お茶を淹れましょうか?」
「ううん、もう飽きた」
席を立ってソファへ向かう。エイミの隣に腰を下ろした。
エイミがぴったりとくっ付いてくる。
昨晩嫉妬させてしまったことへの罪悪感を晴らすため、いつもより念入りに耳の付け根を掻いてやった。
頭からうなじを撫でてやると、エイミがうっとりと身を任せてきた。そんなエイミに悪戯してやりたくなる。
背中に回した手を、スウェットパンツの中に滑り込ませ、尻尾を捉える。
背を反らせて驚くエイミ。
「ああ、ご主人様」
根元から親指でなぞり上げるとエイミが身をよじった。
「我慢して」
「いつまでですか」
「私が満足するまで」
獣耳に囁くと、小刻みに動いた。
「ぬ、脱ぎますか」
「え? いや、脱がなくていいよ」
たまに意図のつかめないことを言うのは、エイミもリューも同じだ。
疑念は明後日の方向に追いやって、エイミの臀部への愛撫を継続する。
「ご主人様……」
熱い吐息混じりの声が美也子を高揚させる。
そのまま体重をかけて押し倒してしまおうか――そう思った時だった。
「朝から盛んだな」
「わっ!!」
驚いて声のした方を振り返ると、すぐそばに無表情のリューが立っていた。ようやく起きて来たらしい。
エイミに夢中で、リビングの扉が開く音を聞き逃していたようだ。
リューは小首を傾げる。
「わたしに尻尾があれば、そのようにしてくれたのか?」
「いや、それは」
美也子がエイミにした行為は、幼子にするには相応しくない。
つまりは、いかがわしい行為なのだという自覚が生じた。赤面してしまう。
「人肌恋しいのなら、わたしに触れても構わないし、何だったら特等契約を――」
「しないよ。だって私に得がないし、不公平なんだもん」
悪魔の言葉を借りるなら、『他でたくさん使用されたもの』を美也子に使用して欲しくない。
真由香だってしていない。それがクリスデン、ひいては美也子に操を立ててのことだと分かっている。女性にとってそんな大切なものを、出会ったばかりの存在においそれと与えたくはない。
「ご主人様、あの」
衣服を整えながら、エイミが戸惑うような声を上げた。
「あ、ゴメンね」
からかい行為がエスカレートしかけたことを謝罪した。
「わたしのことを放置するな」
リューは飛び込むように美也子の腰に抱き付き、見上げてくる。
大きな黄金色の瞳が上目遣いに美也子を捉え、その愛くるしさに心臓が跳ねた。
「もう、仕方ないなぁ」
デレデレとしながらクリーム色の頭を撫でてやる。
「エイミも触る?」
隣に座るエイミに話しかける。てっきり、喜んでそうするのだと思っていた。
「いいえ、結構です」
穏やかな声音の奥に、冷たいものを感じる。
「お茶を淹れますね」
立ち上がって、キッチンへ行ってしまった。
――ああ、また嫉妬させたのか。
ようやく気付いて後を追おうとするが、リューが強くしがみ付き、離さない。
「短い付き合いになるかもしれぬのなら、尚更わたしを優先しろ」
「うむむ」
美也子はリューの頭を撫で回しながらも呻る。
エイミとリュー、二人を同時に愛でることが不可能だと気が付いたからだ。
これは予想以上に厄介な問題を抱え込んでしまった。
取捨選択せねばならないのなら、答えは決まっている。美也子だって、クリスデンに嫉妬していたころは本当に辛かった。同じ思いをさせてはならない。
美也子の内心を見透かしたかのように、悪魔は腕に強く力を込めてきた。
「暇だ。外へ連れて行け」
「え?」
「人間に擬態してやる。共に歩いて、この世界を案内しろ」
「無理だよ。子ども用の服と靴がないんだもん」
「なるほど。衣類の問題か」
ぶかぶかのTシャツにノーパンのまま外に出すわけにはいかない。
「姿を隠せばいいじゃない」
「いや、お前と手を繋いで連れ添って歩きたいのだが」
いじらしい台詞に美也子はあんぐりと開口した。
ああ、この子と一緒に、外を歩きたい。
そう切望した時、稲妻のように脳裏に記憶が蘇った。
「服、ある! 履物も!」
小学生の頃、父方の祖父母に買ってもらったブランド物の子ども服が、クローゼットの最奥に保管してあるはずだ。
どうやら相当のハイブランド品らしく、ブランドロゴを見た母は小さく悲鳴を漏らし、こんなものしょっちゅう着せていられないとぼやいていた。その時のことは美也子の記憶にしっかり刻み込まれている。
結局数回着ただけでサイズアウトしてしまい、母方の従妹に渡すためしまってあった。
だが、その子ももう中学生になってしまった。母はすっかり忘れているはず。
サンダルに至っては、一度も履く機会なく箱に入れてある。なぜ日の目を見なかったのか、美也子には思い出すことができない。
「外出できるよ!」
嬉々として悪魔にそう伝え、エイミも誘おうとキッチンへ向かう。
日常回が続きますので
話が進展する部分まで少しお待ちください




