55.女の嫉妬は見苦しい
「では、わたしは寝る」
使用済みの綿棒をゴミ箱にシュートしようとした時、唐突にリューは宣言した。美也子を押しのけ、ベッドの上に場所を確保しようとする。
時刻は二十一時過ぎ。高校生が床に就くにはまだ早い。ましてや今は夏休みだ。
だがお子様にとっては、入眠の時間か。
エイミと顔を見合わせ、美也子は提案した。
「この子は寝かせて、リビングに行こうか? お母さんと一緒にテレビ観よ」
「そうですね」
エイミの同意を得てベッドから降りる美也子の腕を、リューがつかんだ。
「一人にする気か」
「えっ!? 一人じゃ眠れないの?」
「わたしを放置して獣人とどこかに行くな」
「じゃあ、一緒にリビング行こうよ」
美也子の誘いを、リューは不機嫌そうに断った。
「だから、眠いと言っているだろう」
大きな瞳をとろんとさせているリューは、いつもの三割増しで可愛らしかった。
「じゃあ、私も寝ようかな」
美也子の頬が緩む。今日一日緩み過ぎて、表情筋が痛みを発している。
リューの下敷きになっている掛布団を引っ張ると、抵抗することなく壁際に転がっていった。
ああ、何といたいけな姿。これ以上はいけない。可愛すぎて死んでしまう。
「ご主人様、この子と同衾なさるおつもりですか?」
エイミがおずおず尋ねてくる。
「うん、それ以外にしょうがないでしょ」
「悪魔は、動物に姿を変えることができます。そうさせて、邪魔にならない場所に寝かせたほうが宜しいかと存じます」
「へぇ」
こちらに背を向けているリューを見る。
「拒否する」
もう眠ってしまっているのかと思えば、エイミの案をはっきりと否定した。振り向きもしない。
「わたしが共寝を望んでいるのだ。獣人は口を出すな」
エイミが息を呑んだ。
「んもう、エイミに生意気なこと言って。もう身体を洗ってもらえないよ?」
「ならばお前でも構わない。明日から二人で風呂に入るぞ」
「私はエイミと一緒がいいの!」
こちらを振り向きもしないリューに、乱暴に掛布団をかぶせた。
息苦しくなったらしく、芋虫のように這い出てくる。もちろん、その仕草も可愛らしい。
「しょうがないな、お試し期間中は一緒に寝てあげるからね」
再度布団をまくり上げて、小柄な悪魔の隣に寝そべった。
「あの、ご主人様」
エイミが話し掛けて来る。
「どうしたの?」
「わたくしとは一緒に眠って頂けないのですね」
「うっ」
美也子は思わず呻いていた。
口元を押さえて視線を逸らすエイミが、嫉妬しているのだとはっきり分かったからだ。
彼女とは何度か同衾したのだが、正直な話、長身のエイミと床を共にすると狭くて疲れる。
しかもエアコンが効いていても暑い。彼女は体温が高いのだ。
「今度、必ずね」
「今度とは?」
「次の機会に」
「何月何日でしょうか?」
横になっている美也子に、立ったままエイミが顔を寄せてくる。一体どれだけ腰を屈めているのか。人間の限界を超えていないだろうか。
眉がハの字になっているので、怒っているわけではないと思いたい。
「うるさいな。女の嫉妬は見苦しいぞ」
「まあ!」
リューのとんでもない発言に、エイミは一言だけ声を上げたが、反論することはなかった。
すっと無表情になったかと思うと、そのまま黙って小犬の姿になる。
美也子は冷や汗を流しながら、犬の頭と顎を撫で回した。もちろんご機嫌取りである。
「私の可愛いエイミ。……ちょっとの期間、我慢してよ」
エイミは何も言わない。犬の姿では表情もつかめない。無言で目を閉じてしまった。
――あれ、なんかややこしいことになったな。
どうしてこうなったのかを反芻しながら、美也子はリモコンの消灯ボタンを押した。
考えているうちに、眠ってしまう。
夜間、美也子は目を覚ました。
膀胱に溜まったものを感じ、身体を起こす。
枕元ではエイミが、横ではリューが背中を向けて静かに眠っていた。
暗闇に目を凝らし、極力音を立てぬように部屋から出る。
トイレに入り便器を背に、寝間着のショートパンツを下ろそうとしたとき、背後から声が掛かった。
「あねさん」
「うわっ!」
悲鳴を上げてつんのめり、トイレのドアにぶつかる。
もう少し括約筋が緩ければ、大惨事になっていたことだろう。
背後を見遣ると、トイレットペーパーの並べてある棚の上、ロールとロールの間にウサギが鎮座していた。
真由香にもらった耳長悪魔だ。
「ちょっと、いつの間に私の部屋からトイレに移動したのよ!」
声を潜めつつも怒りをぶつける。
まったく気が付かなかった。もし何時間も前からここにいたのなら、家族全員の排泄を目撃しているはずだ。
「ついさっき、あねさんが部屋を出る時ついてきたんでさぁ」
「私のお尻ちょっと見たでしょ!」
「あねさんだって、俺の尻どころか全身見てるじゃないですか」
一瞬意味が理解できなかったが、すぐに合点がいく。
美也子がウサギを見ても、その『裸体』に性的なものを感じないように、ウサギからしても人間の裸体には何の欲も抱かない、ということか。
それによくよく考えれば、このウサギは美也子の着替えやら寝相やらをもう何年も見続けているのだ。今更生尻の一つで恥じらう必要もないか? いや、本当にそうだろうか?
腑に落ちぬまま、美也子はウサギを睨んだ。
「それで、何の用よ」
「あねさんが連れて来たあの御方、ヤバいですぜ」
「ヤバいって?」
「いや……あの御方は、『墓の上で誘うもの』嬢よりも遥かに高位の御方です。俺は、数百年前に一度だけ、間近で見たことがあるんでさぁ」
「ふーん、そうなんだ」
美也子は気のない相槌を打つ。さっさと膀胱を空にしたい。
「よくもまぁあんな御方を、あんなふうに、あんな、あんな」
ウサギは言葉を失ってわなないた。
「俺は、あの御方がいる内はあねさんの部屋には戻りたくねぇです。ここにいてもいいですか?」
「ダメに決まってるでしょ!」
裸体に興奮しなくとも、用を足している姿を見られるなど筆舌に尽くせぬほど許しがたい。
「じゃあ、物置にしまっておいてあげるよ」
美也子はイライラとしながらウサギの首の皮をつかんだ。ウサギの持ち方は、確かこれで合っているはず。
ウサギは鼻をひくひくさせながら、されるがままになる。なんとあざとい。
温かい小動物の感触に癒されそうになりながらもトイレを出て、リビングに入ってすぐ右手にある小さな扉を開いた。そこには乾物やキッチン小物が収納されている。
「かじらないでよ」
「ネズミ扱いはひどいでさぁ」
一言ぼやいて、ウサギは元の陶器製に戻った。
母に見つかれば、どうしてここに置いてあるのか問い詰められるだろう。
見つかりにくいよう、奥の方に押し込む。
そして大きく息を吐いた。すっかり目が覚めてしまったからだ。
まったく、あんな小さく可愛らしい子の一体どこが恐ろしいのだか。
憤然と、トイレに向かう。