52.悪魔、見せびらかされる
「ちょっと待ちなさい!」
唐突に真由香が叫んだ。
「何だ」
『惰眠を貪るもの』が不快感をあらわにする。
その視線を受けて、真由香が固まる。だがすぐに我に返り、女悪魔を殴った。
「いったぁ~い」
大仰に身をくねらす女悪魔に、真由香が叫んだ。
「『惰眠を貪るもの』って……! 何でこんな大物を連れてくるのよ!」
「えぇ~? だって引退して暇だって言うんだものぉ」
「高位の者に恩を売りたいだけでしょ!?」
「どうしたの?」
美也子が問うと、真由香は口ごもった。代わりに女悪魔が笑う。
「スンヴェルで有名な御方を連れてきちゃったから、蜂蜜ちゃんが嫉妬してるのよん」
「へぇ、有名なの?」
首を傾げて『惰眠を貪るもの』に尋ねる。
「元七大公だ」
「へ~ぇ、偉かったんだねぇ」
そう感嘆しつつも美也子には、いまいちその偉大さが理解できない。長生きをしているようではあるが、こんな可愛い子に務まる程度のお仕事なのだろう。
「何で引退しちゃったの?」
「毎日風呂に入れと周囲が煩かったのでな」
その理由に、吹き出してしまう。
やっぱり、子どもじゃないか。しかも『惰眠を貪るもの』なんて、ちょっとコミカルな名前だし。美也子だって惰眠を貪るのは好きだ。きっと、気が合うに違いない。
「え~? お風呂には入った方がいいよぉ」
急に親近感を抱き、美也子は小柄な悪魔の肩を何回も叩く。真由香が目を丸くしていたが気にしない。
「おねーさんと一緒に入ろうか?」
服を脱ごうとした時は引いてしまったが、よくよく考えれば、子どもの身体なのだから、股間にも可愛らしいものが付いているに決まっている。銭湯で母親に連れられている男の子とそう変わらないだろう。
美也子は、すっかりこの悪魔を弟妹のように感じてしまっていた。
「ごはんは何を食べるの?」
「お前の魔力だけでいい。先ほどの量で、三日分」
「省エネだね」
遠慮がちに抱き締めてみると、されるがままなので調子に乗ってさらに強く抱く。
真由香は部屋の隅で、女悪魔と何かひそひそ話をしていた。困り顔でこちらを見ている。
「大丈夫だよ真由香ちゃん、この子すごく大人しいし」
むぅ、と真由香が呻る。
「エイミに見せたいから、帰るね」
すると真由香の顔が、不快げに歪んだ。
小言か嫌味がやって来るのを恐れ、美也子は早々に野沢家を後にした。
『惰眠を貪るもの』は、一時的に他人から姿が見えないようにして、大人しく美也子の後ろを付いてくる。エレベーターが物珍しいようで、その時は無表情を崩してきょろきょろしていた。その様がまた可愛らしい。
「エイミ、見て見て、悪魔だよ」
自宅の玄関を開け、迎え出たエイミにその可憐な悪魔を見せた。
「まぁご主人様、下僕の心臓を止める気ですか」
電話口で言われたのと同じセリフを言われる。だが今度は、本当に驚いているようだった。
そのままリビングに連れて行って、ソファに座らせる。女二人で囲んで、矯めつ眇めつした。やはり可愛いことこの上ない。
短い脚をぶらぶらさせている姿があざといが、強い庇護欲を湧かせる。
「こんなに近くで悪魔を見たのは初めてです」
エイミがそっと手を伸ばすと、悪魔は抵抗することなく頭を撫でられた。
「あら、可愛らしいこと」
頬を緩めて素直な感想を漏らすエイミもまた、可愛らしい。
「名前は、『惰眠を貪るもの』だって。長いから、違う名前つけていい?」
美也子の提案に悪魔は一瞬不快感を示したが、自ら提案してくれた。
「ならば、リューと」
「リュー?」
「遥か昔、俺をそう呼んだ人間がいた。死に別れた妻の名だと」
「そうなんだ……」
「俺に、男のように振る舞えと言ったのもそいつだ」
「『妻』なのに、『男のように』しろって?」
疑問符を浮かべてエイミを見ると、彼女も首を傾げた。
悪魔の表情がやや愁いを帯びる。それは憐憫の情に思えた。
「……そういう性癖の男だったのだ」
美也子には一切理解できない話だ。エイミは、困ったような顔をしていた。
「じゃあ、これからは女の子みたいに振る舞ってもらってもいい?」
「早急にはできかねる。長年の癖は容易には抜けぬ」
「え~、残念だなぁ、そんな可愛い口から、『俺』はないよねぇ?」
エイミに同意を求めると、そうですねと頷く。
悪魔――リューはしばし考え込む素振りを見せた。
「……理解した。お前は、俺に愛玩性を求めているのだな」
「愛玩性?」
「ペット的な扱い、ということでしょう」
エイミのフォローが入る。
「それは……」
失礼じゃないか、と言おうとしたが、リューは勝手に納得している。
「それならそれでよい。せいぜい可愛らしい少女を装うとする」
「そうだね。一人称は『わたし』でね」
「うむ……」
美也子と悪魔のやり取りに、エイミが吹き出す。
「ご主人様はまことに、豪放な気性でいらっしゃる。悪魔を畏れることなくそんなふうに接するなんて」
細めた目が開かれ、懐古の念に満ちる。
「クリスデン様もそうでした。種族の差など、あの方の前では何の関係もない」
その名前を出されても、もう嫉妬したりはしない。
二十時ごろ、母が帰ってくる。
リビングに入ってきた母に向けて、美也子は抱き上げたリューを見せびらかす。
「お母さん、見て! 悪魔だよ」
リューはされるがまま。
母は、その幼い悪魔を上から下まで何度も見て、笑みを浮かべた。可憐な悪魔を気に入ってくれたのだろうか。
「美也子、ちょっといらっしゃい」
微笑んだまま母に手招きされ、廊下に導かれる。
エイミが寄ってきて、美也子の手からリューをやんわり奪い去った。
「お母さん?」
廊下へ行くと、トイレの扉の前に立つ母からは笑みが消え、こめかみを押えて俯いていた。
「あのね、美也子。エイミちゃんのことはいいの、ずっと前から聞いていたし。異世界の人があなたを連れに来た話だって、境遇を考えれば仕方ないことだって思える」
そこで母は大きく息を吸い込んだ。
「でもね、新しい服を買ってきたみたいな調子で、悪魔? を見せびらかされても、一般人のお母さんは困るわ」
「あ……。ごめんなさい」
失念していたが、母は魔法や異世界とは無縁の人だ。エイミを受け入れてくれたことだって、クリスデンの根回しあってのことなのだ。
「まだ、犬か猫を拾ってきた方がマシよ」
「犬とかと違って、ごはんはいらないんだって。姿も消せるし……」
「そういう問題じゃないの。ううん、怒ってるんじゃない。ちょっと非現実的なものを見せられて、頭が痛いだけ。きっとすぐ慣れる」
母は長く長く息を吐いた。
「ごめんなさい……」
「大丈夫、大丈夫よ。お母さんも、あの子を撫でてもいいのね? 噛みついたりしない?」
「大人しいから平気だよ」
「……悪魔って言うのは、ペット扱いしていいの? それとも人間扱いした方がいい?」
「あの子は、ペット扱いしてもいいって言ってたよ」
母は小さく呻く。
「まあ、夏休みだし、ちゃんと面倒見なさいね」
「はぁーい」
美也子は、妙に浮かれている己を自覚していた。
エイミとリュー、姉と妹がいっぺんにできたからだ。そうに違いない。