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47.今夜はお母さんがいない

次回からファンタジー展開になりますので

百合成分補給回としてお楽しみください。一話完結です。

 スマホが着信音を鳴り響かせたのは、十六時のニュース番組が始まって少し経った頃だった。


 このメロディーは母親だ。仕事の真っ最中に電話を掛けてくるということは、緊急の用件に違いない。

 美也子はやや緊張しながら電話に出る。


「どうしたの?」

「美也子――それがね、取引先で不具合があったから、今から静岡に出張になっちゃったの」


 電話の向こうから聞こえてくる母の声は、疲労と不機嫌に低くなっていた。


 内容はおおよそ予想通り。年に数回程度はあることだ。もっと悪い内容――例えば訃報のような――でなくてよかった。


「そうなんだ。新幹線で行くの?」

「車……」


 悄然とした呟きは、静岡県の広大さを理解していない美也子に小首を傾げさせた。

 なぜ新幹線でないのか、隣県だから車でもそう時間はかからないのではないか、などと思ってしまう。だが、そんな疑問をぶつける余地がないことくらいは、母の声を聞けば分かる。


「泊まりだよね? 着替えとか取りに帰ってくる?」

「ううん、現地で適当に調達するから。ゴメンね、もう晩御飯の用意始めちゃった?」

「これからだから大丈夫だよ」

「そう、よかった。じゃあ、エイミちゃんにもよろしくね」


 心から安堵した様子で電話が切れた。エイミがいるから一安心、という意味なのだろう。

 美也子としては、ご飯を作らなくても済むし羽を伸ばせて快適、という心境だが、未成年を一晩留守番させることに不安を感じる保護者の心境も理解できる。


「お母様は何と?」


 傍らで聞いていたエイミが声を掛けてくる。


「あー、今日は出張で帰らないんだって」

「まぁ、お仕事がお忙しいのですね」

「うん、そうみたいだね」

「そうですか……」


 母を案じて眉根に皺を寄せるエイミの顔が、不意に強張った。そして、美也子の肩を強くつかむ。


「今夜はお帰りにならないと!?」

「え、そうだよ」

「今夜は、お母様がいらっしゃらない、と」

「え、そうだよ」


 エイミの迫力に押されて、美也子は唾を飲み込んだ。

 何事かとエイミの顔を見ていたら、その頬が急に赤らみ、視線が宙をさ迷う。


「なんということでしょう」


 美也子の肩から手を離し、今度は自分の頬を包み込んで、恥じらうように身体をくねらせた。


「どうしたの?」


 怪訝な視線を向けると、エイミは口ごもった。


「いいえ、あの、その」


 不可解なエイミの動揺っぷりはさておき、真っ先に言わねばならないことがあると気が付いた。


「そうなんだよ、エイミ。今夜はお母さんがいないの。だから――」

「だから――?」


 今度はエイミが唾を飲み込んだようで、白い喉が蠢いた。


「今夜は――」

「今夜は――?」


 エイミの耳が立ち上がる。一言も聞き漏らすまいとするように。


 だが、そんな大層なことを言うわけではないのだ。


「ご飯、手抜きできるよ!」

「…………さ、左様でございますね!」


 エイミも飛び跳ねるように喜んだが、どこか演技じみている。


「ああ、ゴメン、何か手の込んだもの作る予定だった?」


 尋ねると、高速で頭を振る。


「そのようなことはございません」

「そっか、じゃあ、素麺でも茹でよう」


 まったく、今夜は楽でいいなと自然と笑みがこぼれた。おそらく素麺だけでは満腹にならないので、冷凍ご飯でおにぎりを作ろうと思う。

 快適な気分でソファに腰を下ろす。てっきりエイミがすぐに横へやって来ると思ったが、なぜか傍らに突っ立っている。


「どうしたの?」

「あの、ご主人様……」

「うん」


 もじもじするエイミを見上げると、ためらうように口を開いた。


「爪切りをお借りできますか」

「そりゃもちろんいいけど」


 美也子の部屋には、祖父にもらった高級爪切りがある。エイミと共有していた。


「でも、十分短いじゃない?」


 エイミの爪を見遣ると、あえて今切るほどの長さだとは思えなかった。


「いえ、こういう時は爪を切っておくものだと」

「え? どういう時?」


 まったく意味が分からず尋ねると、エイミは激しく動揺して口元を押さえた。


「あ、わ、わたくしはとんでもないことを……!」

「ええ?」


 戸惑いつつ、美也子もふと自分の爪を見た。


「うーん、私も切ろうかなぁ」


 するとエイミが目をまん丸に見開いて美也子を見た。


「ご、ご主人様」

「な、なに?」


 腰を曲げたエイミが、美也子に顔を寄せてきた。心なしか息が荒いような気がする。


「今宵は、別々にお風呂に入りませんか?」

「……なんでぇ?」


 なぜ今日に限ってこんなことを言い出したのか、本当に意味が分からない。


「せっかくお母さんがいないんだから、こういう時こそ一緒に入ろうよ」


 するとエイミはしばらく固まっていたが、へなへなとフローリングに座り込んだ。

 また顔が真っ赤になっている。


「お風呂場で――」

「この前、泡立つ入浴剤買ってきたから、入れちゃおう。お母さんがいるとそういうの使えないからね」


 笑いかけると、エイミは小さな声で


「左様ですね」


 と呟いた。少し声が乾いていた。


「さっきからなんかおかしいよ」


 エイミの百面相の理由が分からず、不満をぶつけてしまう。床に座る彼女の手を引っ張って立つように促した。


「せっかくお母さんがいないんだから、もっと二人で羽を伸ばそう?」


 横に座るように指示すると大人しく従ってくれる。だが、身体が強張っているようだ。

 仕方なしに、こちらから甘えてリラックスさせてやろうと試みる。エイミの膝に頭を乗せると、心なしかいつもより硬い。やはり身体に力を入れている。何か不満なことでもあるのだろうか。


「どうしたの?」


 身体を起こして、エイミの顔を間近で覗き込む。

 エイミは視線を合わせない。


「ねぇ、どうしたの」

「いえ、少し緊張してきて……」

「だから、なんで?」


 やや強めに問うと、エイミの手が伸びてきて、美也子の頬に触れた。今度は、視線が絡む。


「今夜は、この家に二人きりだからです」


 真剣な声と眼差し。

 わずかに乾いたエイミの唇が引き結ばれ、喉が動いた。


「ご主人様、わたくしは――」


 何か決意したような物言いに、美也子はすべてを理解した。


「怖いの?」


 はっとしたようにエイミが息を呑む。


「怖いんだね」


 美也子はエイミの腰を抱く。エイミがびくりと震えた。


「分かるよ、私だって怖い――」


 エイミを優しく抱き締めてやる。


「ご主人様……」


 エイミの腕が美也子の背中に回り、首筋に吐息が掛かった。


「でも大丈夫だよ、マンションはオートロックだし」

「……え?」

「オートロックも百パーセント安全とは言えないけど、ちゃんと戸締りしてれば、変な人は入って来ないよ」


 赤子にしてやるように、エイミの背中を優しく叩いた。


「私も初めて一人で過ごした夜は眠れなくて、電気とテレビ点けっぱなしだったよ」

「いえ、ご主――」

「お母さんがいないと、なんか怖いよね」


 うんうんと一人で頷く。


「でも今はエイミがいてくれるから、ほんと嬉しいな~」


 笑みをこぼしながら、その小さな胸に顔をうずめる。

 すると、エイミの肺の奥から空気が抜けていくのを感じた。


「ご主人様、申し訳ございません」


 なぜこのタイミングで、真剣な声音で謝罪をするのだろうか。


「なんで謝るの?」

「いえ、わたくしは少し心が惑っていたようです」


 うって変わって落ち着いた声に、顔を上げてエイミを見つめた。


「どうして?」

「……お母様が、いらっしゃらないからでしょうね。だからきっとわたくしも寂しくて、どうにかなってしまいそうでした」


 エイミは困ったように笑って、顔に掛かった美也子の髪をそっと払う。

 そうなんだ、と美也子は首を傾げた。そしてもう一つ思い付いたことを言う。


「あ、それでさ、今夜……」

「はい」

「夜更かししようね」

「よ、夜更かし」


 またエイミが身体を強張らせた。


「そう! 深夜のバラエティとか見ながら、お菓子食べちゃおうか」


 明日も学校があるが、せっかくのチャンスを無駄にするわけにはいかない。

 確か物置にポテトチップスがあったはず。


「そう致しましょう」


 エイミが吹き出すように笑い、美也子の頭を撫でる。

 なんだか子ども扱いされた気がして、頬を膨らませて抗議しておく。

 同時に、母不在の夜に初めて心が躍った。

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