46.<番外編 愛奈> 敵に塩を送る
愛奈視点の話になります。
いささか生々しい表現があります。
また、未成年に対しての法令違反を容認、推奨する意図は一切ございません。
中学生の時は、比較的素行が悪かったと思う。
似合わぬ化粧をして盛り場に行ったり、中学生には相応しくない時刻に帰宅したり。
それでも成績は悪くなかったし、万引きや援助交際のような犯罪行為は決してしていない。
初めて男と付き合ったのは中学二年生の時で、相手は二十歳だった。今思うと、立派なロリコンクソ野郎である。
だが、悪いのは男だけではない。無知で幼稚な己も同様。被害者ぶる気はない。
今ならわかるが、性を楽しむことは全ての知性ある種族の本能だ。かつての自分もそうやって生きてきた。
多少人道から外れていても、今更彼を告発しようなどとは露程も思わない。
それに、わりあい紳士的な男で、避妊をしてくれただけでも、他の仲間の相手よりはだいぶマシだった。
クズ野郎に引っかかった仲間は、心身ともに傷付いて家族ぐるみでどこかに去っていった。
その『黒歴史』を両親に知られず済んだことは、僥倖であった。それでも、だいぶ心配を掛けてしまった。
中学三年生の時、前世の記憶が復活した。
すると途端に、己の行動が馬鹿らしくなった。
化粧など、こんなに肌に悪い物を塗りたくる必要もないし、無駄に親に反抗する意味も見出せない。警察に補導されるようなことでもあれば、人生台無しだ。
少女趣味の男の甘言に惑わされることもなくなった。
そして、いずれ元の世界に帰りたいという目的ができた。それまでは下手な行動を取ることはできない。
そんな折、千歳美也子という少女を、ここまで好きになってしまったことは想定外であった。
最初は、莫大な魔力を内に秘めた謎の少女だと思っていた。もしかしたら中身は老練の魔導師か何かかもしれない。
だが、たった数か月の付き合いののち判明したことは、彼女は単に『いい子』だということだ。
『あいつムカつくよね』という言葉など彼女の口から聞いたこともない。
それを口にする他の友人たちが、その時いかに醜い顔をしているかようやく気付くことができた。
何よりも美也子は、佐原愛奈という『人間』の十五年の人生で、最も辛い時に側に寄り添ってくれた。
そして、この世界でまだ生きていくと告げた愛奈に対して、よかったと言って泣いてくれた。
自分のために泣いてくれるこの少女がたまらなく愛しかった。
愛奈の中に残る『魔精』という種族の本能が、美也子という存在を渇望した。
非常に辛い別れとなってしまったが、益田と付き合ったことは後悔していない。一緒にいる時は、本当に楽しかった。
それでも、美也子という存在が、愛奈の中で全てを凌駕した。
『エイミときちんと話をしたよ。ありがとう』
美也子が帰ったその日の夕方、愛奈のスマホにそんなメッセージが届いた。
よかった、素直にそう思った。
美也子はエイミに思いの丈をぶつけ、納得できる答えを得たのだろう。
そして、そのメッセージが陽の高いうちに届いたことに対しても。
もし報告が明日の朝だったら――愛奈は、いらぬ妄想に心悩ませたことだろう。
喧嘩の後、仲直りのための行為がいかに燃え上がるかは、前世も含めた経験でよく知っている。そして事が済んだ翌日に、晴れ晴れとした心で相談者へ解決の報告をしたものだ。
その燃え上がりっぷりを想像しなくて済んだ。
それでも、今宵はあの二人にとって特別な夜になるかもしれない。淫らな妄想をしてしまいそうになり、頭を振る。今度は、愛奈が悪夢を見る番なのだろう。
美也子のことはまだまだ子どもだと思っていた。
それでも、もう十五歳。心の奥には必ず人の欲望が眠っているはず。
それをつついて起こしてやろうかと思ったのだ。だから夢の中で意識に干渉しようとした。
その時見た、エイミと赤毛の男の生々しい様子は、愛奈にとっても少なからずショックだった。
この子は、これだけ妄想する力がある。愛奈が思っているほど、子どもではない。
だから、エイミとの間に何が起こってもおかしくないのだ。
――こんなことなら、やはり昨晩手を出してしまえばよかったか。
心が純朴であるほど、『初めて』の相手に執着する。百年以上生きた魔精の経験則だ。
それが夢の中の出来事だとしても、きっと美也子の中に愛奈が刻み込まれる。
卑怯なやり口だと分かっていても、あの子が欲しかった。
だって、愛奈はきっとエイミには勝てないから。
真由香とならば、競い合える自信があった。だから、同類として彼女のことは好きだし、友達になれると思う。美也子を中心にした、一種のハーレムを築くのも悪くないと考えていた。
だが、エイミという唯一無二の存在を知ってしまった。ナンバー2にもなれないだろう。
「どうした、愛奈」
夕食の際、向かいに腰掛ける父親の声が掛かった。
それほどまでに、暗い顔をしていたのだろう。
「ううん、何でもない。ところで、パパ」
「何だ?」
「敵に塩を送るって、どういう意味だっけ?」
おそらく愛奈は、それをしてしまった。
「おお、それはなぁ、昔、上杉謙信が……」
嬉々としてうんちくを語り出そうとする父親に、苦い顔を向けてやる。
「誰それ。そんなの知らないし」
「おいおい、上杉謙信を知らんのか、まったく」
「名前くらい知ってるよぉ~!」
大仰に娘の無知を嘆く父親が鬱陶しい。この感情は、人間特有の『反抗期』だと分かっている。人間は、本当に面倒くさい。だが、嫌いにもなれない。
その時、リビングのソファに放置していたスマホが鳴った。
――美也子かもしれない。
食事中だが、席を立って確認に行く。
「こら、後にしなさい」
母の注意が背中に掛かる。真剣な怒りを孕んだ声音だ。
素直に謝罪する気にもなれず、頬を膨らませて無言の抵抗をする。
スマホの通知を見ると、待望の人物からではなかった。
ソファに投げ捨てて、食卓に戻る。
「スマホばっかり見てるようなら、解約するわよ」
「ちょっとくらい、いいじゃない」
「彼氏か?」
冷えた食卓の空気を温めようと、父親が余計なことを言う。
まーくんのことに関しては、存在自体をこの人は知らないのだ。だから仕方ない。それでも、苛立つ。
憤然と唇を引き結ぶ愛奈と、何も聞かなかったかのように振る舞う母親。
一触即発の様相を呈していた母娘の雰囲気は解消された。だが、食卓には気まずい空気が漂った。
父の間抜けだが優しい気遣いも、無言で流してくれた母の思い遣りも、間違いなく嬉しい。
だが、愛奈の心は晴れない。
月曜日、教室で美也子の顔を見るまで、胃が重くて吐きそうだった。
お泊り会の晩、愛奈が美也子に見せようとした夢と同じことを、あの獣耳の少女としたのかもしれない。
後朝を迎え、少し大人になった顔で登校してくるかもしれない。
先に登校し、自席に腰掛け悶々とする。油断すれば貧乏揺すりを始めようとする足に必死で力を入れた。
「おはよう愛奈」
朗らかな朝の挨拶をする愛し人は、いつもと何ら変わりなかった。
「おはよ……」
挨拶を返しながら立ち上がる。
衝動的に、その見慣れた姿を抱き締める。
魔精の感覚器官を全開にして、その身体に他人の体液の残り香がないかを確かめる。
大丈夫だ、たぶん大丈夫。感じるのは、獣人の娘の体臭――移り香だけ。いつもと同じこと。
安堵して美也子を解放する。
「どうしたの?」
そう尋ねてくる美也子は、なぜか少し嬉しそうだった。
「そういう美也子だって、なんかニヤニヤしてるよ?」
「え? だってさ……」
美也子は少しはにかみながら口を開く。
「おととい別れ際に抱き締めてくれなかったから。やっぱ私のこと、気持ち悪いって思ってるのかなって。でも今ぎゅってしてくれて安心した」
声を潜めながら、そう告げられる。白い歯を見せて、満面の笑みを見せていた。
「愛奈に抱き締められるの、習慣みたいになっちゃってるからさ。それがないと寂しくて」
「美也子……」
――ああ、もうこの子は。
そんな可愛いことをそんな顔で言われたら、諦めることなど絶対に出来ない。
「美也子がイヤって言うまで、毎日してあげるよ」
こちらも笑みを返しながら、椅子に腰を下ろす。安心して力が抜けてしまった。
「愛奈、本当にありがとうね。私、エイミと……」
「もういいって! 何となく分かったから」
美也子の報告を慌てて遮る。子細に聞く度胸はなかった。
「……それでさ、及川くんのことなんだけど……」
「うん」
その話題に対しては非常に興味がある。思わず身を乗り出す。
苦笑を浮かべつつも、美也子ははっきりと言った。
「もう遊ばないって、ちゃんと断るよ」
「それがいいよ~」
――ゴメンね及川くん。
心の中で謝罪しておく。もちろん舌を出しながら。
愛奈が助言をしなければ、美也子は幼稚な思考のまま、流されるように及川と付き合っていたかもしれない。そうすれば、及川はファーストキスを奪う機会くらいはあっただろう。
そんなことさせてたまるか。
もちろん、ただ邪魔したかっただけというわけではない。男という生き物を理解せぬうちに交際を開始すれば、きっと美也子には――いや、彼女だけではなく、及川にとっても苦い結果となるだろう。
若さゆえの過ち、それは人間の通る道の一つなのかもしれない。恋や性に傷付き、人は大人になっていく。それでもまだ、美也子にはそれを経験して欲しくなかった。
美也子を思い留まらせたのは愛奈ではなく、結局のところエイミかもしれない。
それでもいい。まだ、愛奈にもチャンスはあるのだから。
たぶん、きっと。




